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作者: 千日紅

 母は今、死の床にある。

 私は、彼女の枕元に座り、ひたひたと死が押し寄せてくるのじっと待っている。北向きの座敷の、縁側をぼんやりと冬の陽射しが揺らす。梢を踏んで、雀が空に駆けていくのを、私は眩しく見送る。



 彼女との関係を、母と子、それだけで表すのはとても難しい。

 母にとって、私は恥でしかなかった。私の顔を見たくもないし、私の声を聴きたくもない。嫌悪を向けるほどの価値もない。母は私に極力注意を払わないようにしていた。私も息を殺して、子供時代を過ごした。



 年老いた母が、少しだけ身じろぐ。

 親と子の間には愛があるという。母が与えてくれなかったものを、私はどこかから借りてきて、つぎはぎだらけの襤褸をまとう。

 滑稽でしたか。

 やはり、答えはない。



 いつだったか、子供の私は、折り紙とリボンで、首から下げるメダルを作った。ひまわりに似た形のメダルは、赤と黄色の折り紙で、リボンは赤に金の縁取りの。

 とても良くできたわね、これは大切な人に贈るといいわよ、そんなふうに若い女性教諭に言い含められた私は、興奮に胸をはちきれんばかり膨らまして、急いで家に帰って、彼女が帰ってくるのを待った。

 こんなによくできたのだから、きっとほめてくれるはず。

 きっと受け取ってくれるはず。

 時計の針をじっと見つめて、いつもいつも遅い、彼女の帰りを待った。昔から、待つことは好きな行為の一つだ。今、こうして死が彼女を連れ去るのを待つように、母の帰りを待った。

 帰ってきた彼女は不機嫌だった。彼女は不機嫌か、無関心かのどちらかでしか帰ってこない。

 メダルは彼女の首にかけられぬまま、ゴミ箱へ消えた。



 幼すぎて彼女の人格も、貧しい親子を取り囲む社会も、何も見えていなかった。ただ、母親に振り向いてほしいと必死で願っていた。それだけが、私に与えられた自由だった。



 母の生は、誰にも知らされないまま終わっていく。私以外、彼女の生の終焉を知るものはいない。

 やがて、かぼそい息が止まり、枯れた体が凍える。彼女は最初から最後まで、あたたかい存在ではなかった。

 その母が、圧倒的な熱量の前にひれ伏す。葬送の火刑。肉が焦げ、骨が白い砂になるまで。炎に食い荒らされて、彼女の存在が消える。彼女の死も生も最初からなかったことのように消えていく。ついぞ、私にほのかな温かさすら与えてくれなかった母が、鋼鉄の竈で燃やし尽くされる。私は、薪をくべ続けてきた。何度も、何度も、繰り返し、燃やせるだけの薪を。

 美しく燃え上がる炎が、あかあかと幾重にも花弁のように、母を包む。彼女の首に赤く絡みつく。彼女と私を繋いでいた、赤い血の帯が。



 皺の深い母の顔を、上から見下ろす。

 あなたの機嫌をうかがうばかりの子供だった私も、一人の大人になりました。数人ですが友人もできました。仕事もあります。

 空を飛ぶ鳥の姿に震える心を、あの鳥を見てご覧と指差して、誰かに笑いかけるだけの勇気を私は持っています。だからもう、生きていけます。あなたを乞わずとも。

 少し悲しい気持ちで、外を眺める。影が私の膝まで伸びる。日が暮れる。夜が世界を塗り替える。あの小さな雀は、どこかにたどり着いただろうか。卵を抱く巣もなく、群れを離れ、群青の夜を引き裂いて、飛び続ける小さな翼。



 目をつぶると、炎が見えた。

 母が死ぬ。

 母が、私の存在をなかったものとして暮らしてきたように、私の中から母が消える。

 私の心の炎の向こうへ。






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