不条理レストラン
果てしなく広く深い森だ。この森を彷徨いだしてから、どれくらいの時が経っただろう。男は目の前をさえぎる針葉樹の枝葉や長く伸びた雑草を掻き分けながら、ひたすら歩き続けていた。日は傾き薄闇の中にあって、男はしだいに心細くなってきた。
おかしな話だ。死のうとしている人間が、心細いも何もないだろう。たった一人で死ぬことは覚悟の上のはずだ。しかしフクロウの鳴き声が聞こえただけで男は怯え、自分が踏んだ小枝の折れる音すら恐怖の感覚を呼び起こした。
「腹が減った」
死ぬ前に何か食べたい。
どうせ死ぬにしたって何か美味いものを食べてからでも遅くはないだろう。空腹と恐怖から、しだいに男は一つの想念に取り憑かれていった。
死ぬ前に何か食べたい。
雑草や倒木に生えるキノコではダメだ。
何か調理された美味いものを食べてから死にたい。そう思い出してから数時間たった。空を見上げると、葉の間隙から黄色い月がのぞいている。今夜は上弦の月だ。
飢えと寒さと恐怖から頭が朦朧としてきた。
どこからか良い香りがする。
良い香り? こんな地の果てのような樹海に人などいるはずがない。まして、調理をしているなんて……。幻かもしれない。ついに俺も限界を超えたんだな、と男は諦めたように幻の世界に入ろうとしていた。
しかし突如ひらけた場所に出ると、男は臭いの源泉が幻でないことを知った。眼前に、煉瓦造りの小さな洋館が現れたのだ。窓からは淡い光が漏れ出している。煙突からは白い煙が立ち昇る。唾液が男の口腔いっぱいに広がる。
扉の前には小さな看板が吊り下げられている。
長い風雨に晒されたせいか、木製プレートの表面はささくれ立ち、角は欠け、文字のほとんどが消えかかっていた。わずかに目視できる文字はAbsurditéだろうか、最後のアクサン・テギュが削られている。
「アプシュルディテにようこそ!」
思い切って真鍮製のドアハンドルを引くと、眩いほどの光の中心に若い女性が立っていた。彼女は、微笑みながらペコリとお辞儀をした。
✳︎
「私が当店のシェフでございます。お疲れでしょう。どうぞ、ごゆるりとなさってください」
清潔そうな白のコックシャツを着ているが、真っ赤に染められたハンチングやエプロン、スカーフタイは男の眼球に突き刺さった。シェフは客のいないホール中央のテーブルに男を案内してから厨房に消えた。
「あの……」
人との会話は久しぶりだったので、彼女に何か質問しようと思ったが、舌がもつれて上手く喋れなかった。
「いらっしゃいませ。こちらがメニューになります」
シェフの代わりに現れた給仕は、鹿の頭をした大男だった。鹿の頭? 男は皮革製のメニューに視線を移してからもう一度給仕の顔を眺めた。確かに、典型的な枝角を生やした鹿の頭がそこにはあった。これは夢だろうか、それとも俺はいつのまにかあの世に足を踏み入れてしまったのだろうか? 自問するが答えなど出るはずもない。ここはとりあえず話を合わせる必要がある。
何せ今は、空腹で死にそうなのだ。
厨房から煮込みスープのような香りが漂うと、鹿男のいる現実を受け入れることに躊躇などしていられない。
男は引き攣った笑みを見せてから、あらためて銀黒のメニューブックに目をやる。鹿男がそれを丁寧に開く。
「何ですか、これは?」
そこに書かれた品書きの文字の意味が理解できず、男は素直に疑問を口にした。
「何ですかって……。お読みになった、そのままの意味で御座いますよ、お客様」
鹿男の声は低く、くぐもっていた。
「〈記憶と忘却〉とか、〈和睦と裏切り〉とかが、料理の名前なんですか?」
「ですから、たった今ご説明した通りでございますよ、お客様」
なるほど、西洋の料理名にはエスプリが効いていると何かの本で読んだことがあったな、と男は分かったような顔をする。
「とても美味しそうですね」
「え?」
鹿男は意外だとでも言うような声を上げた。
「何か? 厨房からの美味しそうな香りで、想像ができますよ。どうやらここは、ツウが通うような上等な、大人の隠れ家的なレストランらしい。シェフもとびきりの美人だし」
鹿男は、何言ってるんだ、こいつ? と言おうとしたがやめた。大切なお客様にそんな失礼なことを言えるはずもない。それに、シェフが怒ったら何をされるか分かったもんじゃない。
「では、どうしようかな……。〈純愛と不倫〉も美味しそうだな。うーん、あ、これがいい。〈嘘と正直〉のコース」
「承知いたしました。〈嘘と正直〉コースですね。しばらくお待ちください」
待たされること数分で、ワインと前菜と丸パンがテーブルに運ばれてきた。限界まで腹を空かしていた男は貪るように目の前に出された料理を平らげていった。
「お待たせしました。こちらがメインの〈嘘と正直〉です。以上でよろしいでしょうか?」男は黙って頷く。「では、ごゆるりとどうぞ」
白磁のシチュー皿を満たしていたのは、黒色のスープだった。森の中の闇よりも深い黒だった。肉とも野菜ともつかぬ具材も一口サイズの黒塊だ。男はこんな色の料理を見たのは初めてだったので、恐るおそるスプーンをつけ、口に運んだ。
「う、美味い! 俺が今まで食べたことのある料理の中で、最高の味だ!」
男は嬉々としてそれを口いっぱいに運び、咀嚼し、喉の奥に飲み込んでいった。具材も舌の上で香りとともに広がり、蕩けていく。〈嘘と正直〉か。そういえば今の俺にはピッタリの料理だ、と男は思った。
これまでの人生は嘘ばかりだった。自分の心に正直に生きるなんて、夢のまた夢だった。自分の本当にやりたいことを押し殺し、嘘をつき、誰かに望まれる道を歩いてきただけだ。
気づいたら希死念慮だけが男の心を満たしていた。死ねば楽になれる。そう思って樹海を彷徨っていたのだ。
「ああ、美味しかった。お腹もいっぱいになりました。お代は……」
言いかけて、男は財布を持っていないことに気づき、下を向いてしまった。
「お客様、当レストランでは、一度目のお代をいただいておりません。そのかわり……」鹿男の言葉を、すっと現れたシェフが引き取った。
「お代は、二度目のご来店の際にいただくことになりますわ」
「二度目?」
「ええ。その時はお金ではない、別のモノで支払っていただきます。お客様の大切にしているモノで」
シェフの艶かしい 瞳が男の目の前に現れる。彼女の眼球の色は、まるで炎のように赤かった。
✳︎
目覚まし時計が鳴る。五時三十五分。男はアラームを止め、また布団に潜り込んだ。
「パパ、朝よ。起きなくていいの?」
妻の呼びかけに男は応えない。
しばらくしてまた妻が呼びかけたとき、男はようやく口を開いた。
「辞めようと思うんだ、仕事」
「は?」
妻は明らかに苛立っているようだった。その背後から怒鳴り声が聞こえる。中学生の一人娘が、今日締め切りのプリントを失くし、誰かのせいにして、何やら叫んでいる。
「俺にはあの仕事が耐えられないんだよ」
「高校の、美術教師の仕事が耐えられない?」
「ああ、俺は自分の作品にしか興味がないし、ずっと創作だけをして暮らしたいんだ」
正直な気持ちがようやく口にできた。
妻は顔を真っ赤にして嫌味を言った。
「どうやら娘の中二病が、パパにも伝染してしまったらしいわね」
扉を強く閉める音が、家中に響く。
眠い。男はまた熟睡するために、布団に潜るーー。
昼頃目覚めると、家には誰も居なかった。
喉が渇いたので冷蔵庫を開け缶ビールを取り出す。平日の昼間から酒を飲むことに罪悪感がなくもなかったが、もうどうでもよかった。
辞表届けを書きながらとりあえず一本飲み干すと、すぐに家を出た。
校門をくぐるとちょうど高校は昼休みで、何人かの生徒が寄ってきた。
「先生、どうしたんすか? 午前中の授業は。ま、俺らは休みんなって良かったんすけど」
鼻ピアスの生徒が、教師を茶化す感じで語りかけてきた。
「俺のくだらない授業に出るくらいなら、全身にピアスを開けてみろ。それこそがアートだ」
「なにそれ」
生徒は笑いながら、教師の背に向けて中指を立てた。
校長室でも男は正直を通した。
「ほ、本当にいいのかね。その歳で退職なんて」正気の沙汰ではない、と校長は言いたいらしい。校長の肩から上は鶏の頭だった。文字通り、黄色い嘴と紅いトサカのあるつぶらな瞳の鶏だ。
普段からこの校長に対し面白く思っていなかったので、男は本心を正直に打ち明けた。
「正直、明日からそのニワトリヅラを見ないで済むと思うと、せいせいします。では、御機嫌よう」
こうして男は仕事を辞め、無職となった。普通に考えたら修羅場である。まず、離婚届を叩きつけられ、妻は娘と出ていった。すぐに家のローンの返済は滞った。それどころか、働かないので借金は膨らむ一方だった。やがて無一文となり、路上に放り出された。それでも創作意欲が消えることはなかった。
自分に嘘のない、正直な生活を送るのだ。
しかし各種展覧会では落選を続け、男の描く絵はまったく売れなかった。
美大時代の友人や恩師や、わずかな望みを託して売り込んだ美術商からもソデにされた。
ーー、才能がないんだよ。
誰からも同じように言われた。でも、へっちゃらだった。嘘にまみれた生活をするよりはマシだったからだ。
ただ、正直に生きることで、一つだけ問題が生じた。
ーー、お金がない。
金がなければ紙も筆も、絵の具一本すらも手に入れることはできなかった。単純な事実だ。交換手段である貨幣がなければ、この世界では何も手に入れることができない。
ーー、腹が減った。
飢餓はさらに男の思考力を弱らせる。描くことができなければ、この世に存在する必要はない。もう、限界だった。
✳︎
森の中を彷徨うのは何年かぶりだった。
空を見上げると、木々の隙間から上弦の月が現れる。男は以前歩いた道なき道をよく覚えていた。開けた場所に出ると、はたしてそこには、小さな洋館が建っていた。
レストラン、〈アプシュルディテ〉だ。
しかし、洋館の雰囲気は以前とすっかり変わっていた。綺麗に刈り込まれていた庭には雑草が生い茂り、蔦だらけの洋館の窓ガラスにはヒビが入り、壁の煉瓦は剥がれ落ちている。
扉を開けると、そこには老女が立っていた。
「アプシュルディテにようこそ。お客様を、今か今かとお待ちしておりました」
白のコックシャツに赤いスカーフタイ……、皺だらけで腰の曲がった老女はあの時のシェフだった。給仕である隣の鹿男は、以前の通り肩から下は大柄で筋骨隆々だった。
薄暗い店内の中心のテーブルに案内されると、さっそく メニューを眺める。
「給仕さん」男は鹿男に合図を送る。
「はい、お決まりでございますか?」
「ええ、今日は少し欲張って二品。〈富者と清貧〉、それから〈才能と凡庸〉をそれぞれ単品でお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ちょっとしてから鹿男は慌ててテーブルに戻ってきた。
「申し訳ございません、お客様。ただ今、切らしている食材がございまして……、本日は〈清貧と凡庸〉であればお作りできるとのことです。いかがいたしましょう?」
「わかりました。お腹がぺこぺこなのでお任せします。それに、シェフの料理の腕前は、前回、確認済みです」
「承知いたしました」
テーブルに置かれた皿の中のスープは青色だった。雲ひとつない、晴れた秋空のように、青い。男は青い液体をスプーンですくい、一気に口に入れる。
「おえっ! ま、不味い。なんだよこれ、こんな不味いモノ食べたの、生まれて初めてだ!」
吐き出した液体が床を青く染める。
男は唇の青い液体を拭いながら、怒りを露わにした。
「ちょっと! 給仕さん、何ですかこの料理は? とても人間の口にできるモノじゃない」
「はあ……、人間にとっては、そうかも知れませんね」
鹿男は呆れた、という顔をした。
「もう、いい。確か、このレストランは代金を取らないんですよね? 私はこれで失礼する」
「お待ちくださいな。代金の請求はしませんが、タダとは言ってませんよ。それに、前回のお支払いも済んでませんもの。これは、お客様とのお約束ですよ」
老婆となったシェフが嗄れ声で男に詰め寄る。それから鹿男に目で合図を送った。
「ち、ちょっと、何をするんだ?」
男の体を鹿男がひょいと持ち上げる。かなりの腕力だ。痩せて憔悴した男は為すすべもなかった。厨房に連れていかれ、見下すとそこには大きな鍋に火がくべられていた。先刻男が吐き出したものと同じ青色のスープで満たされている。中火でそれは煮込まれ、グツグツとあぶく立っている。
「やめろ、やめてくれ! 熱いのは嫌だ! だれか……、助け……!」
鹿男は無表情で、人間という名の動物の具材を鍋に放り込んだ。
✳︎
目覚まし時計が鳴る。五時三十五分。男はアラームを止め、布団から這い出る。
「あら、パパ、今朝はちゃんと起きてきたのね」
「そりゃそうだ。遅刻するわけにはいかないからね。今日も生徒たちが待ってる」
男は妻に応えてから、ふと何かを思い出したように続けた。
「あのさ、今まで描き溜めていた作品を整理して、個展を開こうと思うんだけど、どうかな?」
「いいじゃない。お金は掛かるけど、そのために一生懸命働いているんだから」
妻は優しく微笑む。
中学生の娘は、今朝も忘れ物のことで騒いでいる。
「そうだよな。今日も仕事で稼いで、週末には創作に没頭する。そんな生活も悪くないかもな」
「そうよ。〈清貧と凡庸〉も悪くない」
「え?」
男は何か忘れているような気がしたが、まったく思い出せなかった。
ーー、そしてまた、穏やかな一日が始まった。【了】