喫茶アンコール~もうひとつのドリーム
本作品は、『Dream&どりーむ』のスピンオフ作品です。
本作品には、本編の内容に深く関わる描写が含まれています。
そのため、先に『Dream&どりーむ』をお読みいただくことを強くおすすめします。
本編を読んでから本作品をお読みいただくことで、登場人物たちの言葉や行動が、また違った意味を持って見えてくるかもしれません。
そして、本作品を読み終えたあと、もう一度『Dream&どりーむ』を読み返していただけたら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。
二つの物語を、どうぞお楽しみください。
『喫茶アンコール~もうひとつのドリーム』
アンコール。
舞台が終わり、幕が下りてもなお、観客が出演者を呼び戻す声。
もう一度、あの歌を。
もう一度、あの踊りを。
もう一度、あの感動を。
舞台に立つ者にとって、それは何より嬉しい贈り物だった。
かつて、一人の女性がいた。
幼い頃から華やかな舞台に憧れ、宝塚歌劇団への入団を夢見ていた。
けれど、何度挑戦しても、その夢は叶わなかった。
それでも舞台への思いを捨てきれず、彼女は小さな劇団に入った。
大きな劇場ではなかった。
客席が埋まらない日もあれば、拍手もまばらな日もあった。
それでも彼女は、舞台に立ち続けた。
娘役も演じた。母親役も演じた。さまざまな人物の人生を、自分の身体と声で表現した。
けれど、最も評判がよかったのは男役だった。
堂々とした立ち姿。
歯切れのよい台詞。
そして、舞台の上で見せる、どこか人を惹きつける男らしさ。
それが彼女には、よく似合っていた。
そんな劇団にも、ごくまれに、特別な夜が訪れた。
芝居が終わり、幕が下りる。
出演者たちが安堵の息をつき、楽屋へ戻ろうとした、そのとき。
「アンコール!」
客席から声が上がった。
最初は一人だった。
けれど、やがて別の場所からも声が上がり、拍手が重なっていく。
「アンコール! アンコール!」
彼女はその場に立ち尽くした。
胸の奥から、何か熱いものが込み上げてきた。
自分たちの芝居が、誰かの心に届いた。
もう一度見たいと、そう思ってもらえた。
それが、たまらなく嬉しかった。
アンコールをもらえた公演など、長い舞台生活の中でも数えるほどしかなかった。
だからこそ、忘れられなかった。
やがて彼女は舞台を離れ、喫茶店を開くことになった。
店の名前を考えたとき、真っ先に浮かんだのは、あの客席からの声だった。
もう一度、来たい。
もう一度、ここで過ごしたい。
そう思ってもらえる店にしたかった。
店の名は、
『喫茶アンコール』
それから年月が流れた。
町には大きな工場があり、その周囲には関連する工場がいくつも建ち並んでいた。
朝になれば、作業着姿の男たちが行き交い、大型トラックが荷物を積んで走り出す。
金属を打つ音。機械の唸り。昼休みを知らせるサイレン。
町は活気に満ちていた。
そして、昼時になると、喫茶アンコールの扉が何度も開いた。
カランカラン。
「お姉さん! カレー三つ!」
「お姉さんなんてくすぐったいよ。もうそんな歳じゃないよ」
「じゃあ、ババァだな。ババァ、カレー三つ!」
「誰がババァだい! 表に出な!」
店内に、どっと笑い声が広がった。
女主人が元劇団員だと知っている常連客たちは、まるで芝居の一幕のような、彼女との軽妙な掛け合いを楽しんでいた。
女主人も、つられて笑った。
そして、厨房に戻ると大きな鍋の蓋を開けた。
香辛料の豊かな香りが、湯気とともに立ち上る。
この店のカレーは、町でも評判だった。
「あいよ! カレー三つ!」
女主人の威勢のよい声が、賑やかな店内に響いた。
カランカラン。
店の扉が開いた。
「こんにちはー!」
女主人が厨房から顔を出すと、二人の女性が店に入ってきた。
「あら、真帆さんと詩織さん。またこんな忙しい時間に来たのかい?」
「ええ。今日も来ちゃいましたー!」
「まったく、あんたたちも好きだねえ。こんな混んでるときに来なくたっていいだろうに」
二人は顔を見合わせ、くすくすと笑った。
「おーい、ババァ。カレーまだかい!」
「今持ってくよ!」
二人の女性は、また顔を見合わせた。
「凪沙、ここに座っててね」
「麗翔も凪沙ちゃんの隣に座っててね」
二人の子供を店の奥にある居間へ連れていき、座らせると、母親たちはエプロンを身につけ、女主人の手伝いを始めた。
「あら。あんたたち、何してんの?」
「何って、お手伝いですよー」
「いいんだよ。あんたたちはお客さんなんだから」
「でも、こんなに忙しいじゃないですか」
「そうそう。私たちの食事は後でいいですから」
「まったく…… 悪いね」
「いいえ。これも楽しみで来てるんですから~。ねぇ、詩織」
二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
「じゃあ、三番テーブルにカレー二つ頼むね」
「はーい!」
「私は食器を片づけるわね」
女主人も厨房へ戻り、大きな鍋の中身をかき混ぜた。
「お待ちどうさまでした」
「おっ! キタキタ!」
喫茶アンコールは、ますます賑やかになっていった。
やがて昼休みが終わると、工場へ戻る客たちが次々と店を出ていった。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、店内は静まり返った。
「ふぅー、やっと落ち着いたねえ」
女主人は最後の食器を片づけると、エプロンで手を拭いた。
そして、窓際の席に並んで座っている二人の子供に目を向けた。
「あらあら、二人ともいい子にしてたー?」
そう言って近づくと、女主人はしゃがみ込み、両腕を大きく広げた。
「ほら、おいで!」
凪沙と麗翔が駆け寄ると、女主人は二人をまとめてぎゅっと抱きしめた。
「ああ、可愛いねえ! もうー、今日も来てくれてありがとうね!」
二人の頬に自分の頬をすり寄せながら、女主人は嬉しそうに笑った。
「良かったね麗翔。橘さんのこと、大好きだもんね」
「凪沙もねー」
真帆と詩織は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
女主人は、三人分のコーヒーに、凪沙の紅茶と麗翔のオレンジジュースを添えてトレーに載せると、窓際のテーブルへ運んだ。
「さあ、お待たせ。今日はあんたたちのおかげで助かったよ」
「そんな、いつものことじゃないですか」
「そうそう。私たちも楽しかったし」
「まったく、変わった人たちだねえ。わざわざ働きに来る客なんて、そうそういないよ」
三人は声を上げて笑った。
「はい、凪沙ちゃん。紅茶だよ。熱いから気をつけてね」
「ありがとー」
「はい、麗翔くんにはオレンジジュースね」
「……うん」
「あれ? どうしたんだい? ほかの飲み物がよかったかい?」
「うん!」
「そうかい。何が飲みたいんだい?」
「カレーが食べたい」
そう言われて、女主人は困ったような表情を浮かべた。
「ごめんねえ。うちのカレーは大人向けで辛いからねえ。この前も麗翔くんのお口には合わなかったものね」
麗翔は、母親を見つめた。
「お母さんのカレーが食べたい」
女主人は微笑むと、麗翔の頭を優しく撫でた。
「あらあら、お母さんのカレーが好きなのかい?」
「うん! 大好き!」
「まあ、なんて可愛い子なんだろうねえ!」
女主人は目を細めると、たまらず麗翔をぎゅっと抱きしめた。
麗翔と凪沙が二人で遊んでいる間、三人はいつものように窓際の席で女子会を始めていた。
「天城ですよ、天城!」
「んふふふ」
「確かに、珍しい苗字だねえ」
「ですよねー。その苗字を聞いたとき、演劇好きの私としては、この人と結婚してやろうって思っちゃいましたね」
「んふふー。苗字で決めちゃだめでしょう」
「まったくだよ」
三人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
そのとき、少し離れたところから、麗翔の声が聞こえてきた。
「わあー、すごーい!」
「あら?」
凪沙の母親の詩織が、声のする方へ目を向けた。
「もう一度見ててね、麗翔くん」
「うん!」
凪沙は小さく膝を曲げると、背筋をぴんと伸ばし、片足を後ろへ上げた。
そして、両腕で柔らかな弧を描きながら、ゆっくりと身体を回した。
「まあ、凪沙ったら」
詩織が微笑んだ。
「……いい姿勢だねえ」
女主人は感心したように呟いた。
「えっ、本当ですか?」
「ああ。お世辞じゃないよ。凪沙ちゃんは天性のものを持ってる。将来が楽しみだねえ」
「橘さんが言うんだったら、間違いありませんね!」
麗翔の母親の真帆も、嬉しそうに笑った。
「あら、そんなこと言われたら、親ばかになってしまいそう」
三人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
「いいなあ。麗翔が女の子だったら、すぐにでもバレエ習わせて、絶対に宝塚に行かせるのにー。でも、凪沙ちゃんに期待しちゃう」
「タカラジェンヌ…… 凪沙もなりたいっていつも言ってるけど、本当にそうなってくれたら嬉しいなあー」
「ねぇー。私、凪沙ちゃんのこと、めちゃくちゃ応援しちゃうから!」
そのとき、真帆が何かを思いついた。
「そうだ! ねえ、橘さん」
「なんだい?」
「凪沙ちゃんに、演技を教えてあげてくれませんか?」
「えっ! それ、いいですね! 私からもお願いします!」
詩織も両手を合わせ、期待に満ちた目で橘を見つめた。
「あたしは全然構わないよ。凪沙ちゃんになら、むしろ教えたいくらいさ」
すると、真帆が突然立ち上がり、麗翔のもとへ駆け寄った。
「ねえ、麗翔!」
「なあに?」
「麗翔、お芝居好き?」
「ううん。好きじゃない」
「ぷっ! 即答かい!」
女主人は、思わず吹き出してしまった。
「橘さん、ちょっと待ってね」
そう言うと、再び麗翔に向き直った。
「好きだよねー、お芝居?」
「ううん」
麗翔は首を振った。
「もうー、お願いだから好きって言ってー! 凪沙ちゃんと一緒に教えてもらってー!」
「ううん。ちがうもーん」
「あはははは!」
女主人はとうとう声を上げて笑い出した。
「習わせたいのはわかるけど、あきらめな」
「だってー! 橘さんですよー。あの劇団花時計の橘千尋さんですよ!」
「やめておくれよ。ドサ周りの劇団さ」
「そんなことありませんよ! 私だって習いたいくらいなんですもん!」
三人はまた大笑いした。
「……逆にさ」
「はい?」
「あたしに、真帆さんのカレーの作り方を教えてくれないかい?」
「え?」
「あんたの味じゃないと、麗翔くんが美味しく食べてくれないみたいだからさ」
「それはぜんぜん構いませんけど……」
「……なんだい?」
「そのー、麗翔にも演技を……」
「まだ言ってんのかい。あはははー」
「だってぇー……」
「それなら、本人をその気にさせなきゃね。無理矢理教えるのは嫌だよ」
真帆は、再び息子の方へ振り返った。
「麗翔ー、ママの一生のお願い聞いてくれるー?」
真帆の必死な姿を見て、詩織と女主人は顔を見合わせた。
「うふふふふ」
「あはははは!」
二人は声を上げて笑った。
喫茶アンコールには、今日も三人の女性たちの楽しそうな笑い声が響いていた。
ある日の午前中。
喫茶アンコールでは、近くの測量会社で働く一人の常連客がカレーを注文していた。
「今日はずいぶん早いんだね」
「昨日、夜遅くまで働いてたんだよ。それで今日は昼からでいいって言われてさ」
「そうかい。じゃあ、これから仕事かい?」
「そうそう。仕事前に腹ごしらえしようと思ってな。こんな空いてるアンコールに来るのは初めてだ」
「あはは、いつもは昼休みの真っ最中だからねえ。あいよ、お待たせ!」
女主人は、カレーを客の前に置いた。
「おっ、待ってました!」
男はスプーンで大きくすくい、勢いよく口へ運んだ。
「……」
しばらく黙っていた男が、怪訝そうに眉をひそめた。
「……なんだ、これ?」
「どうしたんだい?」
「まっず!」
「はあ!?」
「なんだよ、このカレー…… 全然辛くねえし、やたら甘ったるいぞ」
「あっ!」
女主人は慌てて厨房へ戻り、鍋の蓋を開けた。
「あちゃー!」
女主人は客のもとへ戻った。
「すまないねえ。あんたが若くて子供みたいに見えるもんだから、今作ってた子供用のカレーを間違えて出しちまったよー」
「そうかぁ、それなら仕方ねえなあ…… って、おい! もう56! 56だから俺!」
「あはははー! 若く見えるのは本当さ!」
女主人は新しいカレーを差し出した。
「はいよ、おまち! 大盛にしといたからね! それに、今日はあたしの奢りだよ!」
「おっ、そいつはありがてえ!」
男は嬉しそうに笑うと、カレーを頬張った。
「うん! 美味い! 最高だなここのカレー!」
「当たり前だよ! あたしのカレーなんだから!」
「あははは!」
しばらくして、男は空になった皿を残し、席を立った。
「美味かったよ。ごちそうさーん」
「あいよー。またねー!」
女主人が食器を持ち上げると、皿の下に千円札が一枚置かれていた。
「おやおや……」
女主人は札を手に取り、店の出口を振り返った。
「まったく…… 奢りだって言ったのに……」
そう呟きながらも、その口元には笑みが浮かんでいた。
やがて昼時になると、店はいつものように工場勤めの客たちで賑わい始めた。
そんな忙しい時間を見計らったように、麗翔と凪沙を連れた二人の母親がやってきた。
「橘さん、こんにちはー!」
「あいよ! 今日も来てくれたのかい!」
二人は子供たちをいつもの居間に座らせると、慣れた手つきでエプロンを身につけ、女主人の手伝いを始めた。
「まったく、あんたたちにはいつも助けられるねえ」
「いいんですよー。私たちも楽しいんですから!」
厨房からは女主人の威勢のいい声が響き、店内には客たちの笑い声が絶えなかった。
昼の混雑も落ち着き、店内にはいつもの静けさが戻ってきた。
「そうそう、凪沙ちゃん。背筋を伸ばして、もっと胸を張ってごらん」
「こう?」
「そう! 今度はお腹から声を出してみようか。あー、って」
「あーー!」
「そうそう。いい声だねえ!」
女主人は、その発声に思わず目を見張った。
「よしよし。じゃあ今度は、嬉しいときと悲しいとき。同じありがとうを、違う気持ちで言ってごらん」
「ありがとう! 今のはね、うれしいときのだよ」
凪沙ちゃん、あんたは本当に……
女主人は凪沙に身振りを交えながら、楽しそうに演技を教えていた。
その傍らでは、麗翔がカレーを夢中になって頬張っていた。
女主人はふと麗翔に目を向けた。
「麗翔くん、美味しいかい?」
「うん! 美味しいよー」
麗翔は満面の笑みで答えると、またスプーンを口へ運んだ。
「……そうかい、そうかい」
女主人は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
「いっぱいお食べね」
その様子を見ていた二人の母親も、嬉しそうに微笑んでいた。
「そうだ! いけない!」
女主人は突然、何かを思い出したように声を上げた。
「あら、どうしたんですか?」
「銀行に行くのを忘れてたよ! それに買い出しもしなきゃならないんだった!」
女主人は慌ててエプロンを外した。
「悪いけど、ちょっと出かけてくるよ。四人とも、留守番をお願いね」
「はーい!」
二人の母親が声を揃えて返事をした。
「凪沙ちゃん、麗翔くん、いい子にしてるんだよ!」
「はーい!」
今度は子供たちが元気よく返事をした。
「じゃあ、行ってくるよ!」
女主人は財布と鞄を手にすると、足早に店を出ていった。
女主人が出かけてから、しばらく経った頃だった。
カランカラン。
店の扉が開き、一人の男が入ってきた。
「いらっしゃいませー!」
真帆が声をかけた。
「あれ? 忽那さんじゃないですか。こんな時間に珍しいですね」
「いやあ、昨日遅くまで仕事してたから、今日は昼からでいいって言われてたんだけどよ」
「はい」
「結局、今日も夜遅くまで仕事になるって言われてよ」
「今は現場帰りですか?」
詩織が声をかけた。
「そうそう。会社に戻る前に飯食っとこうと思ってね」
「まあ、せわしいことですね」
「まったくだよ。昼からでいいって言われたって、これじゃ意味ねえよなあ」
男は苦笑いしながら、いつもの席に腰を下ろした。
「ところで、店主は?」
「あ、橘さんなら、銀行と買い出しに出かけてるんです」
「なんだ、いないのか」
「すみません。私たち、お店を預かってるだけなので、カレーと飲み物くらいしかお出しできないんですけど……」
「ああ、ぜんぜんカレーでいいよー」
「ありがとうございます」
忽那はにこやかに答えると、ふと、テーブルでカレーを食べている麗翔に目を留めた。
「……ああ、そういうことか」
午前中に間違えて出された、あの甘ったるいカレー。
女主人が子供用と言っていたのを思い出した。
忽那は思わず頬を緩めた。
「麗翔くん、そのカレー、美味しいかい?」
「うん。すっごく美味しい」
麗翔はにっこり笑って答えた。
「そうかい、そうかい。そりゃあよかったなあ」
忽那は目を細め、嬉しそうに笑った。
「ごちそうさん! 店主のカレーより美味かったよ!」
「やだー、同じですよー」
詩織がそう口にした。
「そっかぁ? ははははー」
「うふふふ」
忽那はカレーの代金を支払うと、鞄を肩に掛けた。
「ありがとうございましたー」
「じゃあ、また来るよ!」
そう言って店を出ようとしたときだった。
「あっ!」
忽那は何かを思い出したように立ち止まった。
「どうしたんですか?」
「いや、そういやこのカメラ。フィルムがあと1枚だけ残ってた」
忽那は鞄から、測量の仕事で使ってるフィルムカメラを取り出した。
「せっかくだからさ、最後の一枚をみんなでどう?」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん!」
忽那はカメラを構え、店内を見渡した。
「ほらほら、みんな集まってくれよ!」
真帆と詩織は顔を見合わせ、嬉しそうに笑った。
「凪沙、麗翔くん。一緒に写真撮ろうね」
子供たちが駆け寄ってきた。
忽那は四人を並ばせると、ファインダーを覗いた。
「よーし、いくぞー! みんな笑ってー!」
カシャッ。
シャッターの音が、静かな店内に響いた。
その日の夜、天城家では、真帆が夫に今日の出来事を話していた。
「それでね、凪沙ちゃんがすごいのよ。まだあんなに小さいのに、バレエも上手だし、あの橘さんもべた褒めなの」
「へえ、そりゃすごいな」
「そうなのよ」
「将来が楽しみだね」
「ねぇ! 麗翔も一緒に習ってくれないかなー」
母親は少し残念そうに笑った。
「うん、いいよー」
「……えっ?」
母親は思わず麗翔を見つめた。
「ちょ、ちょっと待って。今、なんて言ったの?」
「いいよーって言ったのー」
「れ、麗翔、お芝居やりたいの?」
「うん」
「だって、あんなに嫌がってたのに、どうして急に?」
麗翔はにっこりと笑って答えた。
「だって、凪沙ちゃんみたいになりたいから」
母親は一瞬、言葉を失った。
そして、夫と顔を見合わせた。
次の瞬間。
父親が声を上げて笑った。
「あははは! 麗翔は凪沙ちゃんが大好きなんだな!」
「うん、大好き!」
麗翔は迷うことなく答えた。
「大変! 橘さんに電話しなきゃ!」
「おいおい、明日でいいだろう」
「善は急げなの!」
真帆は、喫茶アンコールに電話をした。
「……はい。もしもし?」
「あ、橘さん! 真帆です!」
「あいよ。どうしたんだい?」
「麗翔がね、自分からお芝居したいって!」
「おー、そうかい!」
「それがね、凪沙ちゃんみたいになりたいって!」
「じゃあ、明日からさっそく教えるかね」
「お願いします! では、失礼します」
「あいよ」
「よっしゃー!」
通話が切れる瞬間に、そんな声が漏れていた。
受話器を置いてからも、女主人はしばらく電話を見つめていた。
「まったく。あんなに嬉しそうに……」
だが、自分もニヤけていることに気づいた。
「おお、やだやだ。勝手に口角が上がっちゃうよ」
女主人は照れくさそうに笑うと、明日から始まる二人のお稽古を思い浮かべた。
「演劇から離れたつもりだったのに、あんなかわいい弟子がふたりもできるのかい」
二人の母親と、あの子たちと、また一緒に過ごせる。
そう思うだけで、嬉しくて仕方がなかった。
翌日。
麗翔は母親と手をつなぎ、凪沙の家へ向かっていた。
「ねえ、麗翔」
「なあに?」
「今日から凪沙ちゃんと一緒に、お芝居の練習できるんだよー」
「うん。しってるよー」
「そうねー。楽しみだねー」
「うん!」
麗翔は嬉しそうに笑った。
やがて二人は、大きな交差点に差しかかった。
信号が青に変わる。
「さあ、行きましょう」
真帆は麗翔の手を握り、横断歩道へ足を踏み出した。
そのときだった。
左折してきた大型トラックが、二人の方へ迫っていた。
突然。
周囲から悲鳴が上がった。
そして、すべてが一瞬のうちに起こった。
幸いにも、麗翔は無傷だった。
しかし、真帆は二度と目を覚ますことはなかった。
まだ四歳の麗翔は、目の前で最愛の母親を失ってしまった。
突然の訃報に、詩織と女主人は言葉を失った。
つい昨日まで、あんなに楽しそうに笑っていたのに。
今日から、麗翔も一緒にお芝居を習うんだと、あんなに喜んでいたのに。
詩織は泣き崩れ、女主人も涙を止めることができなかった。
あの「よっしゃー!」という嬉しそうな声が、女主人の耳から離れなかった。
「なんで…… なんでこんなことに…… 神様、あんたは……」
突然の事故で妻を失った父親は、幼い麗翔を一人で育てていくことになった。
しかし、仕事を辞めるわけにもいかなかった。
父親は同じ市にある実家へ戻り、両親の助けを借りながら麗翔を育てることにした。
千尋も詩織も、麗翔に会いたいと思っていた。
しかし、母親を目の前で失った麗翔は、あまりのショックから、心の均衡を失っていた。
父親からも、しばらくはそっとしておいてほしいと、それとなく伝えられていた。
二人は、その気持ちを尊重するしかなかった。
凪沙と一緒に遊んだ日々。
そして、いつも真帆のカレーを作ってくれた、喫茶アンコールの女主人。
それらすべてが、まだ四歳の麗翔の日常から遠ざかっていった。
一方、喫茶アンコールにも、まるで灯が消えたような寂しさが漂っていた。
真帆が亡くなってからというもの、以前のような賑やかな女子会の声は、聞こえなくなっていた。
詩織も、店を訪れるたびに親友の笑顔を思い出してしまい、次第に足が遠のくようになっていた。
それに伴い、女主人が凪沙に演技を教える機会もなくなってしまった。
それでも、月日が経つにつれ、詩織は少しずつアンコールに顔を見せるようになった。
長居はしなかったが、いつもの席でコーヒーを飲みながら、女主人と真帆の思い出を語り、麗翔のことを心配していた。
その傍らでは、凪沙が温かい紅茶をふーふーしながら飲んでいた。
そんな穏やかな時間だけは、細々と続いていた。
しかし、真帆が亡くなってから二年後。
凪沙が六歳になった頃、詩織は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
「嘘だよ…… 詩織さんまで…… 私より一回りも年下のくせに、嘘だと言っておくれよ……」
女主人は、また一人、かけがえのない親友を失った。
さらに、追い打ちをかけるように、日本経済を大きな金融危機が襲った。
大手銀行や証券会社が相次いで破綻し、その影響は地方の工業都市にも及んでいた。
町を支えていた企業も経営難に陥り、資金繰りに行き詰まった工場が次々と閉鎖され始めた。
職を失った人々は、一人、また一人と町を去っていった。
それまで昼時には満席だった喫茶アンコールも、次第に空席が目立つようになった。
「ババァ! いつものカレー!」
「誰がババァだい!」
そんな賑やかな掛け合いも、いつしか聞こえなくなっていた。
ある日の昼下がり。
店内には、カレーを食べる一人の男の姿があった。
測量会社の忽那だった。
「……うん。やっぱり美味えなあ」
忽那はしみじみと呟き、ゆっくりとスプーンを口へ運んだ。
「そうかい……」
その返事は、どこか寂しげだった。
以前なら、昼時にもなれば客たちの話し声で賑わっていた店内。
今は、壁の時計が時を刻む音さえ聞こえていた。
「……ずいぶん、静かになっちまったな」
「ああ、そうだねえ」
「昔は席を探すのも一苦労だったのによ」
「そうだったねえ」
忽那は、もう一口カレーを食べた。
「……味は、ちっとも変わってないよ」
「そりゃ、変える理由がないからね」
「そうだよな……」
忽那は小さく頷き、しばらく黙ってカレーを食べ続けた。
「……あんた」
「うん?」
「……なんか、あたしに言いたいことがあるんじゃないのかい?」
「えっ?」
忽那は思わず顔を上げた。
「どうして…… わかるんだ?」
「長い付き合いだろ。それに、あたしは元舞台役者だよ。人のちょっとした仕草や表情も、つい見ちまうのさ」
「……そうか」
忽那のスプーンが止まった。
「実はさ…… 実家のある愛媛に帰ることになってな」
「……そうかい」
「うちの社長がさ、近所のいくつもの工場に金を貸してたんだ」
女主人は黙って耳を傾けた。
「長いご近所付き合いだったからなあ。断れなかったんだろうな」
忽那は寂しそうに笑った。
「……ところが、みんな夜逃げしちまいやがった」
「……そうかい」
「数年前まで、あれだけ金を借りてくれって言ってた銀行が、今じゃ話も聞いてくれなかったってよ」
「……」
「それで、うちの会社も…… もう、お終いだってさ」
「そうかい……」
「80も越えてんのにさー、両親ともにまだ生きてるから、最後の親孝行だと思って決めたんだ」
「そりゃ…… いいことだよ」
「……ああ」
忽那はゆっくりと店内を見回した。
かつては工場勤めの客たちで賑わい、笑い声が絶えなかった店内。
昼時になると、真帆と詩織がエプロンをつけ、女主人と一緒に忙しそうに働いていた姿。
あの小さな麗翔が、美味しそうにカレーを頬張っていた姿。
時には、凪沙が女主人から演技を教わっているところを見かけたこともあった。
そんな光景が、昨日のことのように思い出された。
「寂しくなるよ……」
「あぁ…… 俺も寂しいよ」
忽那は皿に残った最後のひと口を、ゆっくりとスプーンですくった。
名残惜しそうに口へ運び、時間をかけて味わった。
やがてスプーンを静かに皿の上へ置くと、小さく息をついた。
「……美味かった」
忽那は小さく何度も頷きながら、空になった皿を見つめた。
「本当に、美味かったよ」
忽那はゆっくりと席を立ち、ポケットから財布を取り出した。
すると、女主人が口を開いた。
「……今日は、あたしの奢りさ」
「え?」
「お代はいらないよ」
「いや、だけどよ……」
「いいじゃないか。最後ぐらい、あたしに奢らせておくれよ」
忽那は財布を手にしたまま、女主人を見つめた。
「……そうか」
やがて財布をしまうと、寂しそうに笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えるよ」
「ああ。そうしな」
「……ごちそうさん」
「あいよ」
「じゃあな…… 元気でな」
「あんたも、元気でね」
忽那は小さく頷いて、店の出口へ向かった。
カランカラン。
扉のベルが鳴り、忽那は店を出ていった。
やがてベルの音も消え、店内は静寂に包まれた。
女主人は、しばらく扉を見つめていた。
そして、忽那が座っていたカウンター席に腰を下ろした。
目の前には、空になったカレーの皿が置かれている。
いつもなら、すぐに片づけるはずだった。
しかし、女主人は皿に手を伸ばすこともなく、売り物の煙草を一箱取り出した。
セロハンを剥がし、箱の蓋を開ける。
銀紙を破り、一本抜き取ると、そっと口にくわえた。
煙草を吸うのは、二十歳の頃、遊び半分で一本吸って以来だった。
カチッ。
ライターの火が揺れた。
女主人は煙草に火をつけると、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
その途端、喉に強い刺激が走った。
そして、むせるように煙を吐き出した。
誰もいない店内に、咳の音が響き、白い煙が静かに漂っていた。
そのとき。
カランカラン。
突然、入口のベルが鳴った。
女主人は煙草を指に挟んだまま、顔を上げた。
そこには、つい先ほど店を出たばかりの忽那が立っていた。
「なんだい、忘れ物かい?」
「ああ…… そうなんだ」
女主人は煙草を灰皿に置くと、カウンターや床に目を向けた。
しかし、どこにも忘れ物らしきものは見当たらなかった。
「……何を忘れたんだい?」
「……これ」
そう言って、紙のようなものを差し出した。
「奢りだっていったじゃないか」
「……違うんだ」
そう言われて、差し出された物に目を向けた。
「……」
その瞬間。
それが何なのか、すぐにわかった。
幼い麗翔と凪沙。そして、今は亡き二人の母親が、仲よく並んで笑っていた。
「昨日、会社の机を整理してたら…… 出てきたんだ」
そっと手を伸ばして、受け取った。
女主人は写真を見つめたまま、動かなかった。
写真を持つ手が、わなわなと震え始めた。
忽那はそんな女主人をしばらく見つめていたが、何も言わず、そっと歩き始めた。
カランカラン。
扉のベルの音だけが、静まり返った店内に響いた。
女主人は、写真を見つめ続けていた。
あの頃と少しも変わらない、四人の笑顔。
「……うっ」
女主人の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
それをきっかけに、次から次へと涙が溢れ出した。
「ううっ…… うっ……」
肩が震え始めた。
やがて、その震えは全身へと広がっていった。
「うっ…… ううううっ……」
女主人は写真を胸に抱きしめ、その場にうずくまった。
「なにがぁ…… なにが、喫茶アンコールだい…… うううぅ」
女主人は顔を上げ、涙で滲んだ目を店内に向けた。
「真帆さんも、詩織さんも…… 麗翔くんも、凪沙ちゃんも……」
女主人は写真を優しく手で包み込んだ。
「みんな…… みんな、いなくなっちまったじゃないかい!」
絞り出すような声が、店内に響いた。
「ううっ…… うあああああ…… あああああ」
堰を切ったように、嗚咽が漏れた。
千尋は、子供のように声を上げて泣いた。
何度も、何度も、写真を包み込む手に、頬をすり寄せながら。
かつては人々の笑い声が絶えなかった喫茶アンコール。
今、その店内には、女主人の悲痛な泣き声だけが響き続けていた。
灰皿に置かれた煙草は、誰にも吸われることなく、やがて、その小さな火を静かに消した。
それから、十年もの歳月が流れた。
かつて工場で働く人々で賑わっていた町は、すっかり寂れていた。
閉ざされた商店のシャッター。人通りの少なくなった通り。かつての工場跡には、ひっそりと倉庫が建ち並んでいた。
そんな町の一角に、男たちの怒号が響き渡っていた。
「てめえ! ふざけんじゃねえぞ!」
「うるせえ! ぶっ殺してやろうか!」
だが、今のこの町では、そんな光景も、もはや珍しいものではなかった。
ある日のことだった。
買い物を終えた女主人が、スーパーから出てくると、路地の奥から男たちの怒号が聞こえてきた。
「逃げたぞ!」
「待ておらー!」
女主人は、何気なく声のする方へ目を向けた。
また喧嘩かい。
そう思って通り過ぎようとした、そのときだった。
……えっ?
女主人は思わず足を止めた。
数人の少年たちが殴り合っている。
その中の一人に、見覚えがあった。
背は高くなり、顔つきもすっかり大人びていた。髪も服装も、あの頃とはまるで違っている。
それでも、見間違えるはずがない。
「れ…… 麗翔……」
女主人は、その場に立ち尽くした。
十二年前、真帆に教えてもらったカレーを美味しそうに頬張っていた、あの小さな男の子。
まるで天使のような笑顔で、美味しいと答えてくれた麗翔だった。
女主人は、買い物袋を握りしめたまま、呆然とその姿を見つめていた。
やがて喧嘩に勝った麗翔は、仲間たちと悠然と歩き始めた。
「この辺りの奴らも、たいしたことないな」
「ったく。弱かったなー、あいつら」
「また見かけたら虐めてやろうぜ」
仲間たちが笑い合う中、麗翔は何も言わずに歩いていた。
そのとき、大きなトラックが轟音を響かせながら、すぐそばの道路を通り過ぎた。
麗翔はふと顔を上げ、その姿を目で追った。
トラックが遠ざかっても、しばらくその方向を見つめていた。
「お前さ、でかいトラック見るの好きだよな」
隣を歩く仲間が笑った。
「あ?」
「いや、いっつも目で追ってんじゃん」
麗翔は少し考えた。
「……なんか、気になるんだよな」
「気になる?」
「ああ。たぶん…… 好きなんだろうな」
「俺もトラック好きだよ。運ちゃんってかっこいいよなー」
仲間は楽しそうに笑った。
麗翔も軽く笑みを浮かべると、再び歩き始めた。
その先に、買い物袋を提げた女主人が立っていた。
女主人は、近づいてくる麗翔から目を離せなかった。
やがて麗翔たちは、女主人のすぐ目の前までやってきた。
「あ?」
自分をじっと見つめている女主人に気づき、不機嫌そうに眉をひそめた。
「なに見てんだ、ババァ」
女主人は何も答えられなかった。
麗翔は女主人を気にする様子もなく、仲間たちと歩き去っていった。
女主人はただ、その後ろ姿を見つめていた。
まだ幼かった麗翔は、あの頃のことを何も覚えていなかった。
凪沙と遊んだ日々も、喫茶アンコールで過ごした時間も。
そして、自分をあんなにも可愛がってくれた女主人のことさえも。
それから、女主人の耳には時折、麗翔の噂が入るようになった。
喧嘩に明け暮れ、この市で名の知れた不良になっているという。
一方、凪沙が宝塚音楽学校に合格したという話も、客たちの噂で知った。
あの小さかった凪沙が、夢への第一歩を踏み出したのだ。
女主人は心から嬉しく思った。
しかし、どうしても麗翔のことが頭から離れなかった。
もしも、あの子の母親が生きていたら。
麗翔は、あんなふうにはならなかったんじゃないだろうか。
あんなに優しくて、素直だった子が、どうして……
女主人は、何度も何度も同じことを考えた。
けれど、いくら考えても答えなど出るはずがなかった。
どうすることもできない悲しみと、やり場のない思い。
女主人は、毎日毎日、その葛藤に苦しんでいた。
ある日、女主人はいつものようにカレーを仕込んでいた。
昼時になり、客にカレーを出したところ、男は一口食べて顔をしかめた。
「おい、なんだよ、このカレー…… 甘ったるくて、前に食った時と全然違うぞ」
「……え?」
女主人は厨房へ戻り、鍋のカレーを一口味見した。
「……あっ」
それは、かつて真帆に教わった、あの甘いカレーだった。
「おーい、どうなってんだよ?」
女主人はしばらく鍋を見つめていた。
そして、客の方へ振り返った。
「……文句があるなら、代金はいらないから帰んな!」
「はあ!? なんだよそれ」
「うるさいねえ! これがうちのカレーの味なんだよ!」
「嘘つけ! 前と全然違うじゃねーか」
客は腹を立て、店を出ていった。
女主人は、何も言わずに鍋の前へ戻った。
そして、もう一度カレーを味見した。
「……そうだねえ。間違いなく、この味だったねえ……」
女主人は小さく呟いた。
「忘れちゃいなかったんだね……」
それからというもの、女主人は毎日、あのカレーを仕込むようになった。
誰に頼まれたわけでもない。
怒って帰る客が増えても、それでも、毎日、毎日。
あの子が大好きだった、真帆のカレーを作り続けた。
決して、演劇の台本のような劇的な再会を期待していたわけではない。
ただ、あの懐かしいカレーを、どうしても作りたかっただけだった。
そして、ある日のこと。
ドン、ドン、ドン!
「はーい、誰?」
顔を覗かせた女主人は、二人の男を見て言った。
「あら、なんだ。喧嘩かい。ったく、よそでやりな!」
しかし女主人は、その男たちの一人が麗翔であることに気づいていた。
しばらくして、外の物音がやんだ。
女主人はそっと裏口の扉を開け、外を確かめた。
路地には、もう誰もいなかった。
ふと扉に目をやると、表面の一部が凹んでいた。
女主人は、しばらくその凹みを見つめていた。
そして、ふと思いついた。
これで、あの子ともう一度関わるきっかけができるかもしれない。
扉の修理代を請求するという口実なら、麗翔の実家に連絡することもできるだろう。
そして、次の日。
どう切り出そうかと考えていると、なんと、麗翔の方から店にやってきた。
真帆さんから教わった、あのカレーを出してみたものの、不味いと怒鳴られてしまった。
そうだろうとも。
あれから十八年もの歳月が流れている。味覚だって変わっているだろう。
別に、何も期待していなかったよ。
けど……
まさか……
まさか凪沙ちゃんと一緒に来るだなんて……
いったいなんの冗談なんだい。
夢なのかね、これは……
嬉しくて、嬉しくてね。
つい、はしゃいじまって、麗翔の名前を漢字で書いちまったよ。
でも、あの子たちは、幼い頃に一緒に遊んでいたことさえ、覚えていなかった。
お互いが初恋の相手だったなんて、夢にも思っていないだろうよ。
いっそ、あたしから教えてやろうか。
いや、そんなことをしたら、せっかく繋がりかけた二人の糸が、切れてしまうかもしれない。
なんとか…… なんとか自然に思い出させてやることは、できないもんかね……
いや、これは……
あたしにしかできないんだ。
そう決心して、ふと、空を見上げた。
真帆さん。詩織さん。二人とも、見てなさい。
橘千尋の、一世一代の大芝居をね。
* * *
「うーん。サンドウィッチとコーヒーくれ」
「ないね」
「はぁ? メニューに書いてんじゃん!」
「書いててもないもんはないんだよ」
「あーあー。じゃあ…… オムライスでいいよ」
「卵がない」
「じゃあ、おむすび!」
「具と海苔がない!」
「トースト!」
「カビが生えてた!」
「ピザ!」
「買い忘れた!」
「ナポリタン!」
「めんどい!」
「ちょっと待て! なんだよ、めんどいって!?」
「めんどいものはめんどいんだよ!」
凪沙はうつむいたまま、二人のやり取りに必死で笑いをこらえていた。
「カレーならあるよ」
「……カレーでいいよ」
「あいよ」
最高のカレーを作っておいたよ。
麗翔くんが大好きだった、あのカレーをね。
* * *
「元はと言えば、演技を見る目がないあんたのせいだろ!」
そう言うなり、テーブルに置かれていた麗翔のヘルメットをひょいと持ち上げた。
ゴンッ!
どうしてこんな子になっちまったんだい……
けど、無理もないのかもしれないね……
痛かっただろう、麗翔。
でも、真帆さんだって、きっと同じことをしたはずだよ。
* * *
「待ちな」
「何だよ? もう会わないって言ってやっただろ」
「……カレー」
「は?」
「カレー、食っていきな。あたしの奢りだよ」
「なんでこんな時に不味いカレーなんて食わなきゃいけねえんだよ。馬鹿か」
こんな時だからこそ、あんたは食べなきゃいけないんだよ。
* * *
凪沙は顔を上げると、まっすぐに女主人を見つめた。
「おばさま。お願いがあります」
「……なんだい?」
「私には、天城さんが必要なんです」
女主人は黙って凪沙を見つめた。
聞いてたかい、詩織さん。真帆さん。
凪沙ちゃんの今の言葉を……
* * *
女主人と凪沙は、麗翔に視線を向けた。
麗翔はしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「……毎日、この不味いカレーを食わせてくれるなら」
麗翔…… あんた……
もしかして、思い出してくれたんかね……
* * *
「ババァ! なんでこのカレー不味いんだよ!」
「それにしちゃおかわりするようになったね!」
「ただだからだよ!」
いや、違うよ。
あんたは昔も今も、お母さんのカレーが大好きなんだよ。
* * *
「ほら! 休んでないで、稽古の続きだよ!」
「いや、もう帰りたいって!」
「ふざけんじゃないよ! そんなんで、あの宝塚のトップスターになれるとでも思ってんのかい!?」
「いや、俺はならねーよ!」
女主人は声を上げて笑った。
その頬には、ひと筋の涙が伝っていた。
「泣くまで笑うなババァ!」
わるいね。
けど、泣かないなんて、無理だよ。
……真帆さん。
こんなんだけど、約束は果たせたかね……
* * *
「おう、ババァ」
「カレーかい?」
「あたぼうよ。カレーに決まってんだろ」
……うん。
* * *
この子の想いも、亡くなったお母さんたちの想いも、私の願いも、みんな一緒に背負って、夢を叶えておいで。
あなたなら、きっとできるよ……
女主人の頬を、一筋の涙が伝った。
真帆さん、詩織さん。安心して……
あなたたちの子供は、あの頃のまんまだよ……
女主人は、かつて三人でよく座っていた窓際の席を、静かに見つめた。
あれから、十年の月日が流れた。
「昼時だっていうのに、今日も全然客が来ねえじゃん」
「あんたのとこだって同じようなもんだろ。荷物を運ばない運送会社なんて、聞いたことがないよ」
「いやいや、社員はちゃんと走ってるし、俺だってこのあと高知まで行くんだから」
「あら、そうだったのかい。なかなかやるじゃないか。なら、ついでに……」
「なんだよ?」
「カツオのタタキ買って来ておくれ」
「生もの!?」
「若い頃、劇団の公演で行ったことがあってね。あのとき食べたタタキが、本当に美味しかったんだよ。無理かい?」
「ったく、相変わらずだなあ」
「冥途の土産に、もう一度食べたいんだよ」
「わかったわかった。なんとかするよ」
女主人は、ふと何かを思い出した。
「そういや高知って……」
「うん?」
「愛媛の隣だったよね?」
「そうだよ」
女主人は、小さく笑った。
男は最後の一口を平らげ、席を立った。
「カレーごちそうさん。まあ、そういうわけで、行ってくるよ」
「あいよ。気をつけて。安全運転第一だよ」
「ああ、ありがとう」
男は軽く手を振り、店を出ていった。
カランカラン。
女主人は食器を片づけると、カウンターの椅子に腰を下ろした。
店内には、テレビの音だけが流れていた。
老眼鏡をかけて、手に取った新聞に目をやった、そのときだった。
カランカラン。
「あのー、すみません……」
「あ、はい。いらっしゃい」
女主人は、老眼鏡を外しながら入口に目を向けた。
ぼやけていた輪郭が、ゆっくりと形を結んでいく。
そして、言葉を失った。
そこには、スカート姿の一人の女性が立っていた。
あの頃と変わらない瞳が、優しく微笑んでいた。
「……ただいま。おばさま」
女主人の目に、みるみる涙が溢れてきた。
何か言おうとしても、声にならなかった。
それでも、必死に笑顔を作って、声を振り絞った。
「……ようこそ、喫茶アンコールへ」
『喫茶アンコール~もうひとつのドリーム』
終幕
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作品は、『Dream&どりーむ』に登場する喫茶アンコールの女主人に焦点を当てた、もうひとつの物語です。
本編では、少し口が悪く、どこか憎めない女主人。
しかし、彼女にもまた、長い人生があり、喜びがあり、悲しみがありました。
一つの出来事も、見る人が変われば、まったく違った物語になる。
そんな思いから、この作品は生まれました。
そして、書き進めるうちに、登場人物たちが私自身の想像を超えて、それぞれの人生を歩み始めたように感じました。
人生には、もう一度戻りたい時間があります。
もう一度会いたい人がいます。
そして、いつまでも忘れられない言葉があります。
この物語が、皆さまの心に何か一つでも残るものになれば幸いです。
もしよろしければ、もう一度『Dream&どりーむ』を開いてみてください。
以前とは少し違った景色が、そこに広がっているかもしれません。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




