「娘との婚約を破棄するだって?」泣いて帰ってきた愛娘のため、国王は隣国へ乗り込む
連載版あります。
「ママ、私捨てられちゃった」
隣国から帰ってきたエレナは、王宮の正面玄関まで迎えに出ていた母アリシアの顔を見るなり、そう言って泣いた。十八歳になった娘が人目も憚らず母親へ縋りつく姿を見るのは久しぶりで、アリシアは驚きながらもすぐにその身体を抱き寄せた。夕刻の光が高窓から差し込む玄関広間には、王女の帰国を迎える侍女や従者たちが左右へ並んでいる。普段のエレナなら彼らへ労いの言葉をかけてから自室へ戻るところだが、今は周囲へ目を向ける余裕さえ残っていなかった。
「エレナ、何があったの?急がなくていいから、話せるところから聞かせてちょうだい」
「ルイス様に婚約を終わりにしたいって言われたの。好きな人ができたから、もう私とは結婚できないって……」
アリシアは娘の背中へ腕を回し、続きを促すことなく髪を撫でた。エレナは幼い頃から明るい娘だったが、王女として育てられた以上、人前で感情を抑えることも早くから教えられている。成人した今では外国からの使節を迎える席へ同席し、両親に代わって公務を務める機会も増えていた。そんな娘が王宮へ帰り着いた途端に泣き崩れたのだから、隣国を発ってからここへ着くまで、どれほど無理をして平静を保っていたのかは想像に難くない。
エレナの婚約者であるルイスは、国境を接する隣国の第二王子だった。二人の婚約が決まったのは五年前で、両国の関係を深めるために持ち上がった縁談である。初めから互いを想い合っていたわけではなかったものの、何度も手紙を交わし、互いの国を訪れて時間を重ねるうちに、少なくともエレナにとってルイスは政略だけで結ばれた相手ではなくなっていた。今回の訪問も、将来自分が暮らすことになる土地へ慣れ、向こうの王族や貴族との交流を深めるためのものだった。
「セレスティーヌ様という方なの。ルイス様は、その方を好きになったんですって。私なら分かってくれると思っていたって言われて……好きな人ができたなら仕方ないって、ちゃんと言ったのよ。お幸せにって言って、最後まで笑って帰ろうと思ったのに、馬車に乗ったら全然駄目だった」
「そんなときまで王女らしくしなくていいのよ。ここはあなたの家なんだから、泣きたいなら泣いていいわ」
母親に許されて、エレナは残っていた我慢まで失ったらしい。アリシアの肩へ額を押しつけ、声を抑えきれないまま泣き続けた。周囲の侍女たちも痛ましそうに目を伏せている。エレナがルイスとの結婚を楽しみにしていたことは王宮内でも知られており、隣国へ嫁いでも困らないよう歴史や文化を学び、向こうの貴族たちの家系まで覚えようとしていた姿を、身近な者たちは何度も見ていた。
広間の奥から足音が聞こえてきたのは、エレナがようやく少し落ち着き始めた頃だった。知らせを受けて執務室からやって来た国王ローゼンが、妻の腕の中で泣いている娘を見て足を止める。ローゼンとアリシアには王太子エドガーと王女エレナという二人の子供がおり、成人したエドガーはすでに次代の国王として政務の一部を任されていた。かつて一度は離縁し、長い遠回りを経て再び夫婦となった二人にとって、再婚後に生まれたエレナは家族がもう一度始まったあとに授かった娘でもある。
ローゼンは二人の子供を大切にしていたが、年の離れた娘についてはアリシアやエドガーが呆れるほど心配性になることがあった。エレナとルイスの婚約が決まった際にも、相手の身分や人柄に問題が見つからないにもかかわらず、娘が外国へ嫁ぐという理由だけで最後まで難しい顔をしていた。それでもエレナがルイスを好きになったと知ってからは、娘自身が望んでいる幸せを邪魔するべきではないと考え、口を挟まずに見守ってきた。
「エレナ、どうして泣いているんだ。向こうで何かあったのか?」
ローゼンが近づくと、エレナは母親の胸元から顔を上げた。父親の姿を見たことで、少し収まりかけていた涙が再び頬を伝う。
「パパ……私、ルイスさんにいらないって言われちゃった。好きな人ができたから、私との婚約を終わりにしたいんだって」
ローゼンは娘の前で足を止めた。すぐに怒りを口にすることはなく、赤くなった目元を見つめてから、乱れていた髪を整えるように頭を撫でる。幼い頃なら片腕でも抱き上げられた娘は、いつの間にか自分の胸元まで届くほど成長していた。それでも泣いている顔だけは、転んで怪我をするたびに自分のところへ駆けてきた幼い頃とほとんど変わらなかった。
「今日はもう休みなさい。ここまで帰ってくるだけでも疲れただろう。今は何も考えなくていい」
「パパにこんなところを見せるつもりじゃなかったの。ちゃんと帰ってきたかったのに、ごめんなさい」
「謝る必要はない。ここでくらい好きなだけ泣けばいい。落ち着いてから、話したくなったことだけ話してくれればいいから」
エレナは唇を噛んだあと、父親の胸元へ飛び込んだ。ローゼンは娘の背中へ両腕を回し、再び泣き始めたエレナが落ち着くまで動かなかった。やがてアリシアが娘を部屋へ連れていくと、ローゼンは二人の姿が廊下の奥へ消えるまで見送り、それから近くに控えていた侍従長を呼び寄せた。
「隣国にいる者へ連絡を取れ。第二王子が婚約を破棄するまでに何をしていたのか調べてほしい。本人だけではなく、王家と主要貴族の動きも含めてだ」
命令を受けた侍従長が広間を離れると、ローゼンも自分の執務室へ戻った。五年前に婚約が決まった頃から、娘を外国へ嫁がせることだけは気に入らなかった。それでもエレナが幸せそうにルイスの話をするようになり、彼と暮らす未来を楽しみにしていると知ったから、最後には父親として送り出そうと決めていた。その考えを変えるには、泣きながら帰ってきた娘の姿だけでも十分だった。
◇
翌朝、ローゼンの執務机には隣国から集められた報告書が積み上げられていた。現地へ置かれている使節だけでなく、隣国の貴族社会へ出入りする商人や長年外交に携わってきた者からの情報も含まれている。ローゼンは朝食にも姿を見せず、大きな窓から朝日が差し込む執務室で、一枚ずつ書類へ目を通していった。
ルイスが想いを寄せているセレスティーヌは、隣国でも大きな勢力を持つ公爵家の令嬢だった。隣国では以前から第一王子と第二王子ルイスのどちらが次の国王となるかを巡って貴族たちが二つに分かれ、第一王子が優位に立ちながらも、ルイスを推す一派が勢力を伸ばしている。その流れを変えたのが、五年前に成立したエレナとの婚約だった。
ローゼンが治める国は広い領土と豊かな穀倉地帯を持ち、交易と軍事の両面で周辺諸国より強い立場にある。隣国にとっても重要な交易相手であり、両国の王家が婚姻によって結ばれる意味は小さくない。第二王子派の貴族たちはそこへ目をつけ、ルイスが王位を継げば妻となるエレナを通じて経済的な援助を得られ、有事には軍事的な協力まで期待できると国内で触れ回っていた。
ローゼンは一度もそんな約束をしていない。報告には、ルイス本人が出席している会合でも同様の話が繰り返されていたことが記されており、彼が訂正した形跡も見つからなかった。エレナとの婚約が自分への支持を増やしている間はそれを黙認し、国内最大級の勢力を持つ公爵家が第一王子側へ傾き始めると、今度はその令嬢セレスティーヌとの関係を深めている。
ローゼンは最後の一枚まで読み終えると、書類を揃えて机へ置いた。ルイスが別の女性を好きになったことまで責める気はない。人の心を王命で縛れるとは思っておらず、エレナへの愛情がなくなったのなら、結婚する前に関係を終わらせる方がまだいい。問題は、娘との婚約を自分の王位争いへ利用し、その恩恵を受けたあとで別の婚姻へ乗り換えようとしていることだった。
「馬車を用意しろ。隣国へ行く」
呼び出された側近は、予定表を確認するように一瞬だけ視線を動かした。
「先方へ訪問の打診を行います。本日中に返答をいただけるかは分かりませんので、出立は早くても――」
「今日行く。私が向かっていることは、出発してから伝えればいい」
ローゼンは同行させる近衛の人数までその場で決めた。告げられた数字を聞いた側近は思わず顔を上げたものの、国王の表情を見て問い返すことを諦める。ローゼンはアリシアへ事情を記した短い手紙だけを残し、準備が整うと予定されていた政務を側近たちへ任せて王宮を出た。
エレナが目を覚ました頃には、父親はすでに王都を離れていた。
◇
エドガーが父の不在を知ったのは、それからしばらく経ってからだった。
午前の政務を終えて国王の執務室を訪れると、いつも扉の前にいるはずの侍従から、ローゼンは早朝のうちに隣国へ向かったと知らされた。さらに同行した近衛兵の人数まで確認したところで、エドガーは父親が通常の外交訪問をするつもりではないと察した。
「その人数を連れて、父上は一人で向かったんですか?」
「王族の方では陛下お一人です。先ほど、すでに国境を越えられたとの連絡が届いております」
エドガーは執務室へ入り、父親が読んでいた報告書へ目を通した。第二王子派がエレナとの婚約を利用し、存在しない軍事支援や経済支援まで国内で語っていたことを知ると、父親が隣国へ向かった理由は理解できた。エレナが傷つけられたことだけではなく、自国そのものが他国の王位争いへ勝手に組み込まれている。
「馬を用意してください。今から父上を追います。馬車では間に合わないので、供も騎乗できる者だけで構いません」
「陛下をお止めになるのでしょうか?」
「父上が何をするつもりなのか、僕もまだ知りません。それより、我が国の名前まで使われている以上、父上だけの問題ではないでしょう。僕にも確認する権利があります」
エドガーは必要な書類を持たせると、そのまま王宮を出た。父親が率いる一行へ追いつくため街道を急ぎ、国境へ近づくにつれて先行するローゼンの話を耳にするようになる。かなりの兵を率いた国王が突然現れたことで、隣国側も対応に追われているらしい。
そしてエドガーが国境を越えた頃には、ローゼンはすでに隣国の王都へ入っていた。
◇
隣国の王宮前には、普段とは比較にならないほど多くの兵士が集まっていた。国王の訪問を迎えるために出てきた官吏たちは、馬車から降りたローゼンよりも、その後ろから続く近衛兵の列へ何度も視線を向けている。騎兵が王宮前の大通りへ整列し、さらに王都の外にも部隊が待機していると知った隣国側は、これを通常の護衛として扱うべきか判断できずにいた。
両国には無視できない国力差がある。ローゼン本人が率いる一団を門前で武力によって止めれば、何が起こるか分からない。国王の突然の訪問だけでも異例であるのに、そこへ軍事的な衝突まで重ねる判断を現場の者が下せるはずもなく、結局ローゼンは大きな抵抗を受けることなく王宮の正門まで進んだ。
「国王陛下が謁見の間でお待ちです。護衛の皆様には正門前でお待ちいただくようお願いしたいのですが、この人数を王宮内へお通しすることはできません」
「近衛は連れて入る。そちらの王には、私から説明する」
「ですが、他国の兵士をこれほど大勢入れることは――」
「止めたいなら止めればいい。その場合、私はここで帰る。今後の国交については改めてこちらのみで検討するがな」
官吏は返答できなかった。ローゼンはそれを了承と受け取り、近衛兵を伴って正門を通る。中庭、回廊、階段、謁見の間へ続く廊下へ次々と兵士が配置され、白い石造りの宮殿には外国の軍服が増えていった。剣を抜く者も、門を破壊する者もいなかったが、窓から中庭を見下ろしても主要な通路へ目を向けてもローゼンの兵士が立っており、王宮に仕える者たちは息を詰めるように彼らの間を歩いていた。
「これは一体どういうつもりだ!」
謁見の間へ入ったローゼンを待っていた隣国の国王は、玉座から立ち上がるなり声を荒らげた。広間の壁には歴代国王を描いた絵画が並び、その下には重臣や近衛兵が集まっている。開かれた扉の向こうにまで外国兵が整列している状況では、ローゼンが話し合いだけを目的としていると言われても簡単には信用できなかった。
「他国の王宮へこれほどの兵を入れることが、どういう意味を持つのか分かっているのか?」
「分かっている。こちらから剣を抜くつもりはないし、そちらが抜かない限り誰にも抜かせない。第二王子を呼んでもらおう」
ローゼンが退く様子を見せないため、隣国の国王は怒りを押し殺しながら第二王子を呼ばせた。しばらくして現れたルイスは、王宮へ入るまでに並んでいた外国兵を見てきたらしく、緊張した面持ちで父王の前へ進み、その横に立つローゼンへ頭を下げた。
「エレナとの婚約を破棄すると告げたそうだな。本人から聞いているが、お前の口からも確認しておきたい」
「私からエレナ王女へお伝えしました。愛する女性ができた以上、気持ちを偽って結婚する方が彼女に対して不誠実だと考えたからです」
「好きな女ができたことまで責めるつもりはない。気持ちがなくなったのなら、結婚する前に終わらせたこと自体は間違いではないだろう」
予想していなかった返答だったのか、ルイスはわずかに顔を上げた。ローゼンは婚約を元へ戻すよう求めるつもりなどなく、娘を愛していない男へ嫁がせる気もない。持参した報告書を近くの卓上へ置き、話を本題へ移した。
「私が聞きたいのはこっちだ。お前が王位を継げば私の国から軍事支援を受けられる、経済的な援助も得られる。そんな話が、お前を支持する貴族たちの間で随分と広まっていたらしいな」
「私がそのような約束をしたわけではありません。支持者の中には、婚姻によって両国の関係が深まると考えた者もいたのでしょう」
「お前が出席している席でも何度も話されている。それを一度でも否定したのか?」
ルイスはすぐに答えなかった。ローゼンが持参した記録には、第二王子派の会合で交わされた発言だけでなく、その場に誰がいたのかまで記されている。本人が支援を約束した証拠こそなくても、自分に有利な噂が広がっていることを知らなかったという言い訳は難しかった。
「婚約を続けろと言っているんじゃない。今さらお前に娘を渡すつもりもない。娘との婚約を使って支持を集めておきながら、国内でもっと都合のいい婚姻ができそうになったら終わりにする。随分と勝手なことをしてくれたな」
「エレナ王女を利用したつもりはありません。私自身が貴国から支援を受けられると公言したわけでもありませんし、セレスティーヌとのことも政治だけで決めたものではありません」
「なら、なぜ訂正しなかった。私が自分の即位を支持していると思わせておいた方が、お前にとって都合が良かったからだろう」
ルイスは口を閉ざした。図星だったからだ。
隣国の国王も息子へ視線を向けたが、その場で擁護する言葉は出てこない。第二王子派がエレナとの婚約を利用していたこと自体は、ここへ集められた重臣たちにとっても完全な初耳ではなかった。
そのとき、謁見の間の外が騒がしくなった。
開かれた扉の向こうで近衛兵たちが道を空け、旅装のままのエドガーが広間へ入ってくる。急いで馬を走らせてきたらしく、普段なら乱れ一つない髪には風を受けた跡が残り、外套にも街道の埃が付いていた。
「父上、先に行くなら一言くらい残してください。追いつくのに苦労しました」
「エドガー、どうしてここにいる?」
「父上が大勢の近衛を連れて隣国へ向かったと聞けば、追いかけるしかないでしょう。報告書も読みました。ここからは僕にも関係があります」
隣国側の重臣たちの間に、わずかな空気の変化が生まれた。国王の行動を知った王太子が急いで追ってきたとなれば、父親を連れ戻すためだと考えた者もいたらしい。エドガーは彼らの期待を気にする様子もなくローゼンの隣まで歩き、持参した書類を父が置いた報告書の横へ重ねた。
「ルイス殿下。妹との婚約を終わらせたことについて、僕から撤回を求めるつもりはありません。ですが、我が国があなたの即位を支持しているかのように扱われていた件は別です。僕が国王になったあとも支援が続くと話していた方までいるようですね」
「それについても、私から命じたことではありません」
「では、この場で訂正しておきます。父上だけでなく、僕もあなたの王位継承を支持していません。将来僕が即位したとしても、その話を理由に方針を変えるつもりはありません」
第二王子派の貴族たちから表情が消えた。ローゼン一人の怒りなら、年月が経って国王が代替わりしたあとに関係を修復できる可能性も残されている。次代の国王となるエドガーまで同じ意思を示したことで、彼らが利用してきた大国からの後ろ盾は完全に失われた。
隣国の国王はしばらく息子を見たあと、ローゼンへ向き直った。
「第二王子についてはこちらで処分する。そなたの国の名を無断で利用した件についても、王家として正式に謝罪しよう。必要であれば賠償についても協議する。これ以上、両国の関係を損なうことは望んでいない」
「賠償はいらない。領土も金もいい。むしろ迷惑料としてこちらが支払うべきだろう。
「では、何を望んでいる?」
「今ここで第一王子を正式な次期国王と定めてもらう」
広間へ集まっていた貴族たちが一斉にざわめいた。第二王子を支持してきた者ほど反応は大きく、ルイス自身も驚きを隠せないままローゼンを見る。隣国の国王もすぐには答えず、険しい表情で玉座の前に立っていた。
「それは我が国の王位継承に関わる問題だ。他国の国王が口を出していいことではない」
「こちらを王位争いへ利用しておいて、都合が悪くなれば内政だから口を出すなというのか?」
「だからといって、そなたが次の国王を決めていい理由にはならない」
「私が決めるつもりはない。そちらに選んでもらう」
ローゼンは相手国王から目を逸らさず、そのまま言葉を続けた。
「第一王子を次期国王として正式に定める。それが受け入れられないなら、今日をもって我が国との国交を断つ。大使も引き揚げさせ、王家同士の交流も終わりにする。現在そちらへ認めている交易上の優遇も、今後は必要ない」
広間のざわめきが大きくなった。ローゼンの国は隣国にとって重要な交易相手であり、穀物や資源の流通だけでなく、周辺国との外交にも大きな影響を持っている。対するローゼン側は複数の国と交易路を持ち、隣国との取引が途絶えたとしても代替先を確保できる。関係を失ったときにどちらがより大きな打撃を受けるのかは、この場で説明する必要もないほど明らかだった。
「要求を受け入れなければ国交を断つというのなら、選択とは呼べないだろう」
「第二王子を王位継承に残すのも、第一王子へ一本化するのも、そちらの自由だ。こちらにも、どの国と付き合うかを選ぶ自由がある。私は第二王子が次の国王になる可能性を残した国と、これまでどおりの関係を続けるつもりがない。それだけだ」
隣国の国王は今度こそ言葉を失った。形式上、ローゼンは王位継承を命令していない。自国の外交方針を示し、その条件を受け入れるかどうかを相手へ委ねている。それでも両国の力関係を考えれば、実際に残されている道がどれほど少ないかは誰にでも分かった。
国王の視線がエドガーへ移る。
「王太子殿下も、父君と同じ考えなのか?」
「父上が国交を断つと決めた場合、僕が即位したあとに覆すつもりはありません。今回の件が解決されないまま、代替わりだけを待てば関係を戻せると思われても困りますから」
エドガーの返答によって、国王は視線を伏せた。重臣たちの間でも小さな話し合いが始まり、第二王子派の貴族たちまで積極的な反対を口にできなくなっている。国内の王位継承へ外国から条件を突きつけられる屈辱と、大国との関係を失う現実的な損失を比べれば、国王として選ばなければならない答えは限られていた。
「第一王子を呼べ。本人を交えた上で、王位継承について決定する」
国王が命じると、ルイスの表情から余裕が消えた。しばらくして呼ばれてきた第一王子は、突然集められた事情を聞かされ、自分の知らないところで弟が外国との婚姻を王位争いへ利用していたことに驚きを見せた。それでも弟を責め立てることはなく、父王と重臣たちの協議が終わるまで静かに待った。
長い協議の末、隣国の国王は第一王子を正式な王太子とし、次期国王へ定めることを宣言した。同時にルイスを王位継承から外し、第二王子派がローゼンから支援を得られるかのように広めていた話についても王家から訂正を出すことを決める。ルイスは最後まで何も言わず、その決定を聞いていた。
エレナとの婚約によって得ていた外国との繋がりは失われた。セレスティーヌとの婚姻によって公爵家を取り込み、国内でさらに勢力を広げようとしていた計画も、争っていた王位そのものから外されたことで意味を失う。ルイスが自ら終わらせた婚約は、五年間その関係によって得ていた政治的な利益まで一緒に失わせる結果となった。
「これで国同士の話は終わりだ。ルイス、娘には今後こちらから連絡を取らないでもらう。エレナの方から望まない限り、手紙も訪問も必要ない」
目的を果たした以上、王宮へ兵士を残す理由もなく、正門、中庭、回廊を埋めていた近衛へ順次撤収するよう命令が伝えられた。
王宮を出たところで、エドガーはようやく父親が連れてきた兵士の全体を目にした。中庭から正門まで自国の近衛が並び、大通りにも騎兵が待機している。急いで追ってきたため到着時には確認する余裕がなかったが、これだけの人数が他国の王宮へ入れば、相手がほとんど占領と受け取っても無理はなかった。
「父上。念のため聞きますけど、最初からここまで連れてくるつもりだったんですか?」
「人数は出発前に決めていた」
「僕が追いつかなかったら、一人で全部やるつもりだったんですね」
「そのつもりだった。お前が来るとは思っていなかったからな」
エドガーは父親の横を歩きながら、呆れたように息を吐いた。それでも父の判断を責める言葉は口にしない。自分が同じ立場なら王宮を兵士で埋めるところまではしなかっただろうが、妹との婚約を利用され、自国の名前まで勝手に王位争いへ使われたことにはエドガー自身も腹を立てていた。
「次にこういうことをするときは、せめて僕にも知らせてください。父上を追って国境を越える羽目になるとは思いませんでした」
「次がないことを願っている」
「それについては僕も同感です」
父子は並んで王宮をあとにした。
◇
ローゼンとエドガーが帰国した頃には、王都の空はすっかり暗くなっていた。王宮の居住区ではアリシアとエレナが二人の帰りを待っており、広間へ入ってきた父と兄を見ると、エレナは座っていた長椅子から立ち上がった。前日より目元の腫れは引いていたものの、まだ普段の明るさまでは戻っていない。
「パパ、お兄様まで一緒だったの?朝起きたらパパが隣国へ行ったって聞いて、びっくりしたんだけど」
「僕も知らされていなかったんだ。父上が先に行ってしまったから、あとから追いかけた」
「ローゼン、私への手紙一枚で済ませるのはどうかと思うわ。せめて出発する前に直接話してくれてもよかったでしょう」
アリシアから言われ、ローゼンはさすがに反論しなかった。エレナのそばへ残ってもらいたかったこともあり、寝ている二人を起こさず出発したのだが、帰国後まで黙って済ませられるとは考えていなかった。
「それで、向こうで何をしてきたの?」
「第二王子と話をしてきた。お前との婚約が、向こうの王位争いに利用されていたことも確認した」
ローゼンが隠さず伝えると、エレナは驚いたように目を見開いた。エドガーが隣へ座り、第二王子派がローゼンから軍事や経済の支援を受けられると広めていたことを説明する。エレナは途中で口を挟まず、兄の話が終わるまで黙って聞いていた。
「私との婚約って、そんなふうに使われてたんだ……」
「あなたと過ごした時間まで全部嘘だったなんて、私たちには分からないわ。でも、知らないところで利用されていたことまで、あなたが背負う必要はないのよ」
アリシアが娘の手へ自分の手を重ねると、エレナは少し俯いてから頷いた。ルイスへの気持ちが一晩で消えるはずもなく、五年間信じていた相手との関係が終わった悲しみも残っている。それでも、自分が何かを間違えたから捨てられたのではないと分かっただけで、昨日よりは顔を上げられるようになっていた。
「それで、ルイスさんはどうなったの?」
「王位継承から外れた。第一王子が正式な次期国王になる」
「どうして私の婚約の話から、そこまで大きくなったの?」
「第一王子を次期国王にするか、こちらと国交を断つか選んでもらった」
ローゼンが答えると、エレナは父親の顔をじっと見つめた。隣にいるエドガーへ視線を移すと、兄は否定することなく小さく頷いている。
「パパ、それって本当に選んでもらったことになるの?」
「向こうの国王が第一王子を選んだ。私が決めたわけではない」
「そういう話なのかな……」
エレナは困ったように眉を下げたものの、やがて口元を緩めた。父親が自分のためにどれほど怒ったのかは、これ以上説明されなくても十分に伝わってくる。隣国へ兵士まで連れていったと聞けば驚きはしたが、それを責める気持ちにはならなかった。
「ルイスには、今後お前から望まない限り連絡しないよう伝えてある。会いたくなったときはお前が決めればいいし、会いたくないならそのままでいい」
ローゼンの話を聞いて、エレナは少し安心したように笑った。その表情を見た父親の顔まで分かりやすく緩み、隣に座っていたエドガーもようやく肩から力を抜いた。
その夜は家族四人で夕食を取ることになった。大きな晩餐室ではなく、普段家族だけで使っている小さな食堂へ集まり、エレナが食べやすい料理を中心に並べてもらう。最初こそ隣国での話が続いたものの、エドガーが父を追いかけるため朝から馬を走らせ続けたと愚痴をこぼし、ローゼンが自分は悪くないと言い返す頃には、エレナも何度か笑うようになっていた。
「私、しばらく婚約はいいかな。誰かを好きになるのも、今はちょっと疲れちゃった」
食事が終わりかけた頃、エレナがそう口にすると、ローゼンの表情が目に見えて明るくなった。
「エレナがそうしたいなら、しばらくは何も考えなくていい。五年でも十年でも、ここにいればいい」
「ローゼン、十年は長すぎるでしょう。エレナが決めることなんだから、あなたが期間を延ばさないの」
「私は娘の意思を尊重しているだけだ。結婚を急がせる理由もない」
ローゼンは至極真面目な顔で言い切った。少なくとも本人の中では、娘の意思を尊重した結果として出た言葉らしい。エレナは父親らしい答えに苦笑し、エドガーもそれ以上は何も言わなかった。今は次の婚約について考えるより、傷ついたエレナが普段の生活を取り戻していく方が大切だった。
食事が終わる頃には、エレナも兄の話に笑えるほどには落ち着いていた。やがてエドガーとともに食堂を出ていく娘を見送り、ローゼンはようやく長かった一日が終わったと思いながらアリシアと寝室へ戻った。
「ローゼン。そこに座って」
先ほどまでと変わらない声だったため、ローゼンは言われるまま椅子へ腰を下ろした。
「朝起きたらあなたはいない。残っていたのは短い手紙だけ。あとから調べたら、近衛を大勢引き連れて国境を越えていたそうね」
「急いだ方がいいと思ったんだ」
「そのまま他国の王宮へ兵を入れた、と」
ローゼンは黙った。どうやら人数まで正確に伝わっているらしい。
「私が何も言わなかったから、許されたと思った?」
「……少しは」
「エレナの前であなたを叱るわけにいかないでしょう」
そこでようやく、ローゼンは自分が勘違いしていたことを悟った。
アリシアは帰国してからずっと平然としていた。食卓でも普段と変わらず、ローゼンとエドガーの話を聞き、エレナが笑えば一緒になって笑っていた。あれは夫の行動を気にしていなかったからではない。失恋したばかりの娘の前で、両親まで揉める必要はないと考えていただけだった。
「国境を越える前に一言くらい相談できたでしょう。あなた一人の身に何かあったらどうするの。しかも、相手が兵を動かしていたら何が起きていたか分からないのよ。あなたの行動で戦争に発展したらどうするのよ!」
「悪かった。次からは必ず相談する」
「次はありません!」
「分かった、すまなかった。軽率な事をした」
その夜、ローゼンは寝室から追い出された。
翌日の夜も、その次の夜も、ローゼンが夫婦の寝室へ戻ることは許されなかった。王宮には来客のために整えられた部屋がいくつもあるため、寝る場所に困るわけではない。寝台も十分に広く、調度品にも不足はなく、侍従たちは国王が不自由しないよう必要なものをすぐに揃えてくれた。それでも長年アリシアと使ってきた寝室とは勝手が違い、夜になるたび客室へ向かわなければならない生活は、思っていた以上に居心地が悪かった。
昼間のアリシアは普段とほとんど変わらなかった。朝食の席ではローゼンの向かいに座り、必要な話があれば普通に声をかけ、エレナがいるところではいつものように家族の会話へ加わっている。ローゼンも最初の二日ほどは、この様子ならすぐに許してもらえるだろうと考えていたのだが、夜になって寝室へ向かおうとすると、その期待はあっさり裏切られた。三日目になっても状況は変わらず、四日目には自分の着替えまで客室へ運ばれているのを見つけ、今回ばかりは簡単に済ませてもらえないのだとようやく理解した。
家族にも長く隠しておけるものではなかった。五日目にはエドガーが、朝から妙に疲れた顔をしている父親と客室から出てきた侍従を交互に見たあと、何かを察したように口元を緩めていた。事情を尋ねてくることはなかったが、その日の政務中に何度か生温かい視線を向けられ、ローゼンとしては直接からかわれるよりも居心地が悪い。六日目になると、何も知らないエレナから「パパ、最近どこで寝てるの?」と不思議そうに尋ねられ、さすがに娘へ事情を説明するわけにもいかず、仕事の都合だと曖昧に誤魔化すことになった。
それでもローゼンは、アリシアへ寝室へ戻してくれと強く求めることだけはしなかった。今回の件で自分が怒られた理由くらいは理解している。隣国で取った行動そのものを後悔してはいなかったが、国王である自分が何の相談もなく大勢の兵を動かし、妻へ短い手紙一枚を残しただけで国境を越えたことについては、さすがに反省するところがあった。エレナのことで頭に血が上っていたとはいえ、アリシアからすれば朝起きたときには夫が大勢の兵とともに他国へ向かっていたのだから、怒るのも当然だった。
アリシアが夫を寝室へ戻したのは、そんな生活が始まってから一週間後のことだった。いつものように客室へ向かおうとしていたローゼンを呼び止め、今後同じようなことをする場合は必ず事前に相談するよう改めて約束させたうえで、ようやく夫婦の寝室へ入ることを許したのである。ローゼンも今度ばかりは余計な理屈を並べず、素直に妻との約束を受け入れた。
他国の王位継承にまで手を突っ込み、兵を引き連れて王宮へ乗り込んだローゼンだったが、妻の寝室の扉だけは力ずくで開けることができなかったのだった。
評価&ブクマありがとうございます!励みになります。
前書きの通り、長編あります。(分かりやすいように代表作にもしています)
アリシアを主人公とした話です。時系列はエレナが生まれる前後の話になっています。
『一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?』
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