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寿命の旋律が聞こえる私と、残り100日の君  作者: 明石竜


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第2エピソード「運命のズレ」

 翌朝、私は自転車に乗らなかった。

 あの交差点を通るのが、なんとなく怖かった。正確には、また聞こえてしまうのが怖かった。あのカウントダウンが。昨日とは別の誰かから。

 歩いて登校しながら、昨夜のことを考えていた。

 自分の旋律が、短くなっていた。

 夢だったらよかった、とは思わない。夢か現実かで迷うほど、私はのんきじゃない。あれは確かに聞こえた。確かに変わっていた。

 問題は——それが、何を意味するのか、だ。

 もし本当に、人の運命を変えるたびに自分の寿命が削られるなら。

 私はどのくらい、削ったのか。

 どのくらい残っているのか。

 考えたくなかった。でも考えずにはいられなかった。

 通学路の桜並木が、まだ三分咲きのまま風に揺れている。朝の光の中で、その色は薄くてやわらかかった。私はそれを見上げながら、ふと思った。

 灯さんは、この桜が満開になるのを見られるだろうか。

 残り100日——七月の初め頃。桜はとっくに散って、梅雨が終わる頃だ。

 胸に、重たいものが落ちてくる感じがした。


 教室に入ると、福田さんが真っ先に振り返った。

「顔色マシになった?」

「うん、おかげさまで」

「良かった。昨日マジで心配だったんだよ。保健室行かないって言うから」

 福田さんは小柄で、話すときにいつも顔をぐっと近づけてくる。悪気はない。むしろとても親切な子だ。でも今日は少しだけ、その距離感がつらかった。

 近すぎると、旋律がよく聞こえる。

 福田さんの旋律は安定していた。長くて、穏やかで、ゆったりと流れる音。私より長く生きるだろう、となんとなく思う。それが少しだけ、うらやましかった。

「陰山さんって、なんか変わったよね」

「え?」

「最近。なんか……遠い感じがする」

 福田さんが少し首をかしげて言った。傷つける気はないんだろうと思う。ただ、正直に感じたことを言う子なのだ。

「そうかな」

「うん。悩みとかある? 聞くよ」

「大丈夫です。ありがとう」

 笑顔を作った。うまく作れているかどうかはわからない。

 一限が始まる前に、私は窓の外を見た。曇りはじめた空。今日の午後は雨が降るかもしれない。

 そのとき、廊下に目が行った。

 ガラス越しに、見知った顔が通り過ぎていく。

 灯さんだった。

 二年生の教室は一つ上の階なのに、なぜこの廊下に——と思う前に、灯さんがこちらを見た。目が合った。

 彼女は少し驚いたように眉を上げて、それから小さく手を振った。

 私も、反射的に手を振り返した。

 それだけだった。でも胸の奥がほんの少し、あたたかくなった気がした。


 昼休み、屋上へ続く扉の前に灯さんはいた。

「どうしてここに?」

「わかった? 屋上好きなんだよね、わたし。一年生の教室、屋上への階段のすぐ近くでしょ。だからよく通るの」

 さらっと言う。私が一年生の教室の場所を教えていないのに、知っている。聞いてみると、「朝、廊下で見かけて確認した」とのことだった。

「澪ちゃん、昼ごはん食べた?」

「まだです」

「じゃあ一緒に食べよう。ここ、鍵開いてるから入れるんだよ」

 錠に手をかけると、がちゃりと開いた。

 古い高校の屋上は、金属製のフェンスと、排気口と、放置されたプランターがいくつかあるだけのさびしい場所だった。でも視界は開けていて、遠くに山の稜線が見えた。

「きれいでしょ。天気いい日は特に」

「よく来るんですか?」

「うん。一年生のとき、ここで昼ごはん食べてたら落ち着くって気づいて。今でもたまに来る」

 そう言いながら、フェンスにもたれて空を見上げた。曇り空だけど、かすかに青が見える。

「澪ちゃんって、夏好き?」

「普通です」

「わたしは好き」

 灯はフェンスの向こうを見た。

「夏ってさ、なんか自由な感じするじゃん」

 少し間があった。

「今年の夏、海行きたいんだよね」

 澪は黙っていた。

 灯は続けた。

「海でさ、夜に花火とかやって」

 そう言って笑う。

「あと、星も見たい」

 少し間があった。


「それでさ」


 灯は振り向く。

「来年の夏も行けたらいいな。澪ちゃん、来年も友達でいてくれる?」


 来年の夏。

 灯は、なんでもない顔でそう言った。


 私には、その言葉がひどく遠いものに聞こえた。

 澪の耳に、灯の旋律が聞こえる。

 短い。

 残り100日。

 澪は何も言えない。

 灯は笑ったまま、言う。

「澪ちゃんも一緒に行こうよ」


 私たちはしばらく、並んで立ってお弁当を食べた。話すでもなく、沈黙でもなく、ちょうどいい距離感。こういう時間が、私は好きだった。

「澪ちゃんって、一人でいること多い?」

「そうですね。大人数が少し……苦手で」

「なんで?」

 正直に答えるかどうか、少し迷った。

「音がうるさくなるから」

「音?」

「人が多いと、いろんな音が混ざって、頭が疲れるんです」

 嘘ではなかった。旋律のことは言っていないけど、結果として事実だった。

「なるほど」

 灯は、また空を見た。

「わたしもそういうの、なんとなくわかる気がする。人がいっぱいいるところって、気を遣うじゃん。見えないところで合わせてたりして、疲れる」

「灯さんも?」

「うん。だからここが好き。誰もいないから」

 彼女はそう言って、私の方を見た。

「あなたがいるときはだいじょうぶだけど」

 なんでもない言い方だった。でも私の耳には、じんわりと残った。

 そのとき——

 灯さんの旋律が、変わった。


 変わった、というより、伸びた。

 ほんのわずか。昨日より、少しだけ長く感じる旋律。

 私は息を止めた。

 気のせいではなかった。確かに違う。昨日の夕方に聞いた音と、今の音では、長さが違う。

 伸びている。

 どうして。

 私が何か特別なことをしたわけでもない。今日は一緒にお弁当を食べただけだ。危険を回避させたわけでも、何かを助けたわけでもない。

 それなのに、灯さんの旋律は昨日より伸びている。

「どうかした?」

「……灯さん、今日、何かいいことありましたか?」

 突拍子もない質問だった。灯さんは目をぱちくりとさせた。

「いいこと?」

「なんでもないことでも。ちょっと嬉しかったとか、気分が上がったとか」

 灯さんはしばらく考えていた。


「あのね、今日の朝、澪ちゃんと目が合って手を振ったじゃない?」

「はい」

「なんか、それだけで嬉しくなっちゃって。こんな短い時間でこんなに気にしてる自分、おかしいのかなって思ったけど」

 彼女は照れくさそうに笑った。

「昨日助けてもらったからかな。なんか……澪ちゃんのこと、もっと知りたいなって思ったんだよね」

 私は、その言葉を聞きながら、旋律の変化を考えていた。

 嬉しいことがあると、旋律が伸びる。

 昨日、事故を回避したことで——旋律が一度リセットされて。そして今日、灯さんが笑ったことで——少し伸びた?

 そんなことが、あるのか。

 でも確かに、今私が聞いている音は、昨日よりも長い。

 ということは——

 灯さんが笑うたびに。嬉しいと思うたびに。生きたいと感じるたびに。

 旋律は少しずつ、伸びるのかもしれない。

 100日が、101日になる。102日になる。

 可能性がある。

「澪ちゃん、また変な顔してる」

「ごめんなさい。考え事してました」

「何考えてたの?」

「……灯さんのこと、です」

 正直に言った。灯さんは少し目を丸くして、それからまた笑った。

「わたしのこと?」

「はい」

「どんなこと?」

「灯さんが笑うと、音がきれいになる気がして」

 言ってから、しまったと思った。変な人だと思われる。でも灯さんは笑いを引っ込めずに、むしろ少しだけ目を細めた。

「音?」

「うまく言えないんですけど。なんか、明るい感じになる音」 「そっか」

 灯さんは空を見上げた。 

「澪ちゃんって、詩みたいなこと言うんだね」

 澪は少し首をかしげた。

 灯は笑う。

「なんかさ」

「澪ちゃんの話って、音楽みたい」

「そうですか?」

「うん。嫌いじゃない、そういうの。澪ちゃんって音楽好き?」

「普通です」

「わたしは好き」

 灯はそう言って少し笑う。

 そのとき、風が強く吹いた。灯さんの黒髪が流れた。空の向こうで、雲が動いている。

 私はそっと、自分の旋律に耳を澄ました。


 聞こえた。

 昨日より、短い。

 偶然かもしれない。

 でも、そうとしか思えなかった。

 昨夜確認したときより、さらに少しだけ削られている。

 今日は何もしていない、と思っていた。でも——もしかして、こうして灯さんと話すだけでも、何かが動いているのかもしれない。灯さんの旋律を伸ばすことと、自分の旋律が削れることが、何らかの形でつながっているのかもしれない。

 どのくらい削られているのか、正確にはわからない。

 でも確かに、昨日より短い。

 今の私の寿命は——何日分、残っているんだろう。

 問いかけて、すぐに打ち消した。考えたって仕方がない。わかりようがない。

 でも——

 もし灯さんのために動くたびに、自分の命が削られていくとしたら。

 それでも、助けるのか。

 答えは出なかった。出せなかった。

 ただひとつだけ確かなのは——今この瞬間、灯さんの旋律が昨日より長いということだった。


 その日の放課後。

 私は一人でいつもの通学路を歩きながら、試してみることにした。

 目を閉じて。耳を澄ます。

 ゆっくりと、自分の旋律を呼び起こす。

 聞こえた。

 私の旋律。

 静かで、まっすぐで——昨日より、また少し短い。

 でも消えてはいない。

 まだ続いている。

 私はもう一度、灯さんの旋律を思い出した。ろうそくの炎みたいに揺れていた音が、今日の昼休み、少しだけ安定していた気がした。あの変化は本物だったはずだ。

 灯さんが笑うたびに、旋律が伸びる。

 そして私の旋律は、その分だけ——あるいはそれとは別の何かによって——削れていく。

 因果関係がはっきりしているわけじゃない。でも、つながっている気がする。

 私は立ち止まって、空を見上げた。

 夕方の空はもうオレンジ色に染まっていて、雲の端が金色に光っていた。きれいだな、と思った。こういう空を見るたびに、この先も見ていたいと思う。

 それでも——

 灯さんの旋律が消えるところは、見たくなかった。

 なぜそう思うのか、自分でもうまく説明できない。昨日まで会ったこともなかった人だ。たった二日で、こんなに気になるなんてどうかしている。

 でも。

「また話したい」と言ってくれた。

「澪ちゃんのこと、もっと知りたい」と言ってくれた。

 残るもの、が好きだと言っていた。

 灯という字は、炎が消えずにいることだ。

 私は歩き出した。

 まだ答えは出ていない。でも、答えが出る前に何かが起きそうで、それが怖かった。


 自宅に戻ってすぐ、カバンを置く前に、私はもう一度だけ旋律を確認した。

 習慣にはしたくなかった。でも、しないではいられなかった。

 昨日の夜に聞いたときより。

 今日の昼に聞いたときより。

 また、少し短い。

 今日の間に、二度削れた。

 一度目は——たぶん、昼休みに灯さんの傍にいたとき。

 二度目は——今この確認をしたとき、ではなくて、たぶん帰り道に、灯さんの旋律を意識したとき。

 つまり、危険から救うような大きな行動だけじゃない。

 灯さんの運命に、どんな形であれ触れるたびに、私の何かが削られていく。

 だとしたら——

「最悪だ」

 思わず声が出た。

 最悪、というのは状況が、じゃない。

 こんなにも、気になってしまっている自分が。

 やめられるとは、たぶん思っていない。

 それが一番、最悪だった。


 夜中の二時に、スマホが鳴った。

 見ると、知らない番号だった。

 出ようかどうか迷って——出た。

「澪ちゃん?」

 灯さんの声だった。

「……どうしたんですか、こんな時間に」

「ごめん、起こしちゃった?」

「いえ、起きてました」

 少し間があった。

「眠れなくてさ。なんか、変な夢ばっかり見るの。最近」

「どんな夢?」

「音の夢」

 私は、息を止めた。

「音?」

「うん。なんか、音楽みたいな夢。でもどんどん小さくなっていく音。消えそうで消えない感じの」

「……怖い夢ですか?」

「怖いというか、悲しい感じ。誰かに何かを言いたくて言えないような」

 灯さんはしばらく黙っていた。

「馬鹿だよね、こんな夢の話を、昨日会ったばかりの子に電話して話すなんて」

「馬鹿じゃないです」

 すぐに言った。灯さんが少し笑う気配がした。

「澪ちゃんの声きくと落ち着く」

 少し間があった。

「なんでだろ。昨日会ったばっかなのに」

 答えはなかった。私も、答えを持っていなかった。

「眠れそう?」

「……うん。もう少ししたら」

「じゃあ、また明日ね」

「うん。また明日」

 電話が切れた。

 私はスマホを胸の上に置いて、天井を見上げた。

 灯さんは、自分の旋律の夢を見ている。

 消えそうで消えない音。

 誰かに何かを言いたくて、言えない夢。

 胸が、しめつけられた。

 私は目を閉じた。

 旋律が、二つ聞こえた。灯さんのと、私のと。

 どちらも、揺れていた。

 どちらも——まだ、続いていた。


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