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寿命の旋律が聞こえる私と、残り100日の君  作者: 明石竜


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1/3

第1エピソード「カウントダウンの旋律」

 人の寿命には、音がある。

 世界は、音でできている。

 そして今、誰かの命が終わろうとしていた。


 四月の朝、私——陰山澪は自転車を押しながら坂道を歩いていた。いつもなら乗ったまま下るのに、今日は気分が乗らなかった。

 正確に言うと、音が多すぎて集中できなかった。

 登校ラッシュの時間帯。歩道を行き交う人、人、人。そのひとりひとりから、旋律が聞こえてくる。

 さやさやと続く穏やかなもの。まるで春の小川みたいに、滔々とした音。あのスーツ姿のサラリーマンは、たぶん五十年以上は生きる。聞いているだけで、なんとなくわかる。

 少し不安定なもの。揺れるような、かすれるような音。あの自転車の女性は……最近、体の調子でも悪いのかな。

 私は耳を塞ぎたくなるのをこらえて、ヘッドフォンをずらした。外の音を少しだけ取り込む。そうすると不思議と、旋律がかき消されていく。完全にではないけれど、やわらぐ。危険が近づくと、旋律は乱れる。ときにはカウントダウンのような音になることもある。


 これが、私の日常だ。

 人の寿命が「音楽」として聞こえる——なんて書くと、ちょっとロマンチックな特殊能力みたいに聞こえるかもしれない。でも実際は、ただ疲れる。朝から晩まで、見知らぬ人たちの「生きている時間」を耳の奥に感じ続けるんだから。

 能力を手に入れたのは、三年前。中学一年の秋だった。気づいたら聞こえていた。どうして、とか、なんのために、とか、そういうことはわからないまま、今日まで来てしまった。私は、聞こえてしまった音を見過ごしたことがない。見過ごしたら、きっと眠れなくなるからだ。


 坂道を抜けて、駅前の交差点に差し掛かる。信号が赤になる。

 私は自転車を止めて、横断歩道の前で待った。

 そのとき——---

 聞こえた。

 音が。

 今まで一度も、聞いたことがないような音が。

 カウントダウンだ、と私はすぐに思った。何かが終わりに向かっていく音。でも普通の旋律みたいに流れるものじゃない。もっと鋭くて、もっと速くて、もっと激しい。まるで何かが削れていくような——。人の寿命の旋律は、ふつうはほとんど変わらない。

 なのに——

 10。

 9。

 8。

 数字が、頭の中に落ちて来た。音が数字になるなんて初めての経験で、私は咄嗟に周囲を見回した。

 7。

 6。

 5。

 横断歩道の向こう側。歩道の端に、女の子がいた。

 スマートフォンを見ながら、ふらふらと歩道の端に近づいている。白いイヤホン。ゆったりした制服。長い黒髪が、朝の風に揺れていた。

 4。

 3。

「——待って!」

 声が出ていた。気づいたら走っていた。自転車を放り出して、横断歩道を渡らずに車道沿いに走って、女の子のいる方へ回り込む。

 2。

「危ない!」

 私は女の子の腕を、思い切り引いた。

 1——

 ゴウ、と風が耳をかすめた。

 黒い自転車が、猛スピードで歩道を突っ切っていく。イヤホンをつけた男子高校生が、スマホを片手に持ったまま、ものすごい勢いで坂道を下ってきていた。ブレーキをかける様子もなく、交差点の前で右に曲がって、そのまま走り去っていく。

 シュウ、と音が消えた。

 私と女の子は、歩道の真ん中に立っていた。私が引っ張ったせいで、女の子は少しよろけている。

 数秒後、周囲の人たちが何事かとこちらを見ていることに気づいた。

「——え、」

 女の子が、顔を上げた。

 初めて顔を見た。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。少し呆然としたような表情が、そのまま固まっている。

「いまの……」

「自転車が来てたんです。かなりスピードが出てて、曲がりきれなかったら当たってたかもしれない」

 女の子は振り返った。すでに自転車の姿も見えない。それから、自分の腕を見た。私が掴んだ、腕を。

「あなたが、引っ張ってくれたの?」

「はい」

「……ありがとう」

 ぺこりと頭を下げた。

 私はそのとき初めて、気づいた。

 カウントダウンが、止まっていた。

 あれだけ激しく、削れるように鳴り響いていた音が、ぴたりと止まっている。

 代わりに聞こえるのは——旋律だ。穏やかな、でも少し揺れている旋律。

 どくん、と私の心臓が跳ねた。


 女の子の名前は、日向灯というらしかった。

 同じ高校の二年生。私より一学年上だった。

 そういうことが明らかになったのは、交差点の近くのコンビニの前で、私たちが少し言葉を交わしたからだ。灯さんは「お礼がしたい」と言って、ジュースを一本買ってきてくれた。

コンビニの自動ドアが開いた。

店を出ようとしたときだった。小さな男の子が入口の段差でつまずいた。

灯さんは反射的に手を伸ばした。

「大丈夫?」

男の子は恥ずかしそうにうなずいた。

灯さんは少しだけしゃがんで、男の子の靴についた砂を払った。

「気をつけてね」

「ありがとうございます」


「こっちこそ。本当に気づいてなかった」

 灯さんはおかしそうに笑った。笑うと目が細くなって、印象が変わる。

「ぼーっとしてたの。昨日から、頭の中ぐるぐるしてて」

「そうなんですか」

「うん。でも、おかげで目が覚めた」

 そう言って、また笑う。

 私はずっと、彼女の旋律を聞いていた。

 穏やかな音。でも確かに揺れている。まるで蝋燭の炎みたいに、風が吹くたびに揺れる。

 どのくらいの長さなんだろう。

 聞こえる旋律の長さが、そのまま寿命の長さに対応している——というほど単純でもない。もっと感覚的なことで、長く続く安定した音は何十年もあるように感じるし、短くかすれる音は……短い。

 灯さんの旋律は。

 私は思わず、眉を寄せた。

 短い。

 明らかに、短い。

「どうかした?」

「いえ、なんでもないです」

 とっさにごまかして、ジュースのプルタブを引いた。

 人に「あなたの寿命が短い」なんて言えるわけがない。第一、私が聞こえているものが正確かどうかも、本当のところはわからない。今まで、旋律が「終わる」瞬間を実際に見たことはない。ただ、短い音を聞いた人が、後で大変なことになっていたことは——一度だけ、あった。

 それだけだ。

 気にしすぎだ、と私は自分に言い聞かせた。

「あの、名前、まだ聞いてなかった」

「陰山澪です。一年生です」

「澪ちゃんか」

 灯さんは少し考えるように首をかしげた。

「いい名前だね。澪って、航路の跡、って意味でしょ。船が通った後に残る道」

「……知ってるんですか」

「たまたま調べたことがあって」

 彼女は遠くを見るように目を細めた。

「残るもの、って好きだな、わたし。すぐに消えちゃうものより」

 なんでもないように言った言葉が、なぜか私の胸に引っかかった。

「灯さんは……どんな字を書くんですか」

「ともす、の灯。火偏に丁寧の丁」

「灯……」

 ろうそくの灯のような、不安定な旋律。

 私は胸の奥で、ちくりとしたものを感じた。


 学校に着いてから、私はずっと、あの旋律のことを考えていた。

 一時間目の古典。先生の声が遠い。

 二時間目の数学。教科書のページが頭に入ってこない。

 あのカウントダウンは何だったのか。

 今まで、旋律は「流れるもの」だった。始まりと終わりがあって、連続して聞こえるもの。でも今朝のあれは違った。カウントダウンの形をしていた。10、9、8——終わりに向かってはっきりと刻まれていく、数字のような音。

 あれは、死に向かうカウントダウン、だったのか。

 つまり私は、灯さんが事故に遭う直前の「音」を聞いた。そして私が引き止めたことで、その音が消えた。

 初めてのことだった。

 三年間、この能力と向き合ってきて、こんなことは一度もなかった。旋律が聞こえても、私にできることは何もなかった。というより、できるとは思っていなかった。

 でも今朝、私は動いた。

 そして——結果が出た。

 給食の時間、私は一人でぼんやりと外を眺めながら、パンに手をつけないでいた。

「陰山さん?」

 声をかけてきたのは、隣の席の福田さんだ。

「なんか顔色悪くない?」

「そう?」

「顔が青いよ。保健室行く?」

「大丈夫です」

 実際のところ、少し体が重かった。朝から頭が痛くて、胸の奥がずっとざわざわしている。気のせいかもしれないと思っていたけど——

 午後になって、私はトイレで鏡を見た。

 顔色が悪い、というより、疲れた顔をしていた。目の下にうっすらと隈が出ている。

 なんだろう。

 もしかして……と思う。

 もしかして、今朝の出来事のせいで、何かが変わった?


 放課後、校門を出たところで、灯さんがいた。

「待ってた。もう少しちゃんとお礼がしたくて」

「いえ、本当に大丈夫です」

「でも澪ちゃん、元気なさそう」

 私が答える前に、灯さんはもう歩き出していた。「ちょっとだけ付き合って」という声が、振り返りながら言われた。

 なんとなく、断れなかった。

 駅の近くに、古い喫茶店があった。灯さんは迷わずそこに入っていく。常連らしく、マスターと顔見知りのようだった。

 窓際の席に向かい合わせで座って、ホットの紅茶が来た。

「澪ちゃんって、なんで気づいたの?」

 唐突に聞かれた。

「今朝、自転車が来ること。わたし気づいてなかったし、ほかの人も誰も止めてなかった。なのにあなただけ、走ってきた」

「……たまたまです」

「たまたま?」

「見えたんです。自転車が」

 嘘ではなかった。見えていた。音で察知して、目で確認した。

 でも灯さんはしばらく私を見ていた。何かを確かめるように。

「変わった人だね」

「そうですか?」

「うん。いい意味で」

 彼女は窓の外を向いた。午後の光が斜めに差し込んで、その横顔を照らしている。

「わたし、最近ずっと、変な感じがしてるんだよね」

「変な感じ?」

「死ぬかも、って感じ」

 灯さんはそう言って笑った。

 でもその笑い方は、少しだけ震えていた。

 私は紅茶のカップを持ったまま、固まった。

「大げさに聞こえるかもしれないけど、なんか、自分がここにいないみたいな。ぼんやりする感じが続いてて。昨日も今日も、全然集中できなくて。朝もスマホ見ながら歩いてたのは、なんとなく現実から目を逸らしたかったのかもしれない」

「……それ、誰かに相談しましたか?」

「してない。うまく言えないし」

 灯さんは笑った。寂しそうな笑い方だった。

「もしかして、今日あなたに助けてもらわなかったら、本当に死んでたのかな、って思う。馬鹿みたいだけど、そんな気がして」

 馬鹿みたいじゃない。と私は思った。

 本当にそうだったかもしれない。

 ただし、それは私が介入したから変わったのかもしれない。そして私が介入しなければ——

 頭が、じんと痛んだ。

「澪ちゃん」

 灯は少しだけ真面目な顔をした。

「無理してるでしょ」

「ごめんなさい、少しだけ頭が……」

「やっぱり体調悪いじゃん!」

 灯さんがテーブル越しに身を乗り出してくる。

「病院行きなよ」

「大丈夫です。帰れば治ります」

「本当に?」

「……たぶん」

 灯さんはしばらく私を見つめていた。それから、ふっと笑った。

「なんか不思議だな。今朝初めて会ったのに」

「私もそう思います」

「また会える?」

 唐突な言葉だった。

「また?」

「うん。また話したい。あなたと」

 理由は言わなかった。言葉だけが、そこにあった。

 私は少し考えて——頷いた。

「また話しましょう」

 灯は少し笑った。

「澪ちゃんと、もっと早く会いたかったな」


 その夜。

 自分の部屋で、私は天井を見上げていた。

 頭痛はまだ続いている。体が重い。

 なんとなく、試してみたくなった。

 目を閉じて、耳を澄ます。

 旋律を聞く。

 いつも私は、自分の旋律を聞こうとしない。なんとなく怖いからだ。でも今夜は——聞いてみた。

 聞こえた。

 自分の旋律が。

 ゆったりと流れる音。穏やかで、安定していて——でも。

 私は息を呑んだ。

 いつもより、短い。

 ほんの少しだけ。でも確かに、短くなっている。

 今まで感じていた自分の旋律と比べると——明らかに、違う。

 心臓が、どくどくと音を立てた。

 まさか。

 まさか、今朝のことで?

 私が灯さんを引き止めたこと。灯さんの運命を変えたこと。それが私の寿命に、影響した?

 ありえない、と思いたかった。

 でも——もしそうなら。

 もし人の運命を変えるたびに、私の寿命が削られていくなら。

 今朝の私は、何かを失った。

 そして灯さんの旋律は、まだ短い。

 100日、という感覚が、頭の隅に浮かんだ。根拠はない。ただそう聞こえる。旋律の長さが、感覚として数字に変換されたような——。

 残り100日。

 灯さんには、まだ100日しかない。

 「どうすればいい」

 声に出たのは、気づいたら言っていた。

 誰も答えない部屋の中で、私はしばらく天井を見つめていた。

 旋律は続いている。灯さんの旋律が、耳の奥に残っている気がした。

 ろうそくの炎みたいに、揺れながら——。


 窓の外。

 春の夜が、静かに深まっていく。

 私はまだ、答えを見つけられないまま、目を閉じた。

 灯さんの旋律が、ゆっくりと、消えないでいた。


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