第1エピソード「カウントダウンの旋律」
人の寿命には、音がある。
世界は、音でできている。
そして今、誰かの命が終わろうとしていた。
四月の朝、私——陰山澪は自転車を押しながら坂道を歩いていた。いつもなら乗ったまま下るのに、今日は気分が乗らなかった。
正確に言うと、音が多すぎて集中できなかった。
登校ラッシュの時間帯。歩道を行き交う人、人、人。そのひとりひとりから、旋律が聞こえてくる。
さやさやと続く穏やかなもの。まるで春の小川みたいに、滔々とした音。あのスーツ姿のサラリーマンは、たぶん五十年以上は生きる。聞いているだけで、なんとなくわかる。
少し不安定なもの。揺れるような、かすれるような音。あの自転車の女性は……最近、体の調子でも悪いのかな。
私は耳を塞ぎたくなるのをこらえて、ヘッドフォンをずらした。外の音を少しだけ取り込む。そうすると不思議と、旋律がかき消されていく。完全にではないけれど、やわらぐ。危険が近づくと、旋律は乱れる。ときにはカウントダウンのような音になることもある。
これが、私の日常だ。
人の寿命が「音楽」として聞こえる——なんて書くと、ちょっとロマンチックな特殊能力みたいに聞こえるかもしれない。でも実際は、ただ疲れる。朝から晩まで、見知らぬ人たちの「生きている時間」を耳の奥に感じ続けるんだから。
能力を手に入れたのは、三年前。中学一年の秋だった。気づいたら聞こえていた。どうして、とか、なんのために、とか、そういうことはわからないまま、今日まで来てしまった。私は、聞こえてしまった音を見過ごしたことがない。見過ごしたら、きっと眠れなくなるからだ。
坂道を抜けて、駅前の交差点に差し掛かる。信号が赤になる。
私は自転車を止めて、横断歩道の前で待った。
そのとき——---
聞こえた。
音が。
今まで一度も、聞いたことがないような音が。
カウントダウンだ、と私はすぐに思った。何かが終わりに向かっていく音。でも普通の旋律みたいに流れるものじゃない。もっと鋭くて、もっと速くて、もっと激しい。まるで何かが削れていくような——。人の寿命の旋律は、ふつうはほとんど変わらない。
なのに——
10。
9。
8。
数字が、頭の中に落ちて来た。音が数字になるなんて初めての経験で、私は咄嗟に周囲を見回した。
7。
6。
5。
横断歩道の向こう側。歩道の端に、女の子がいた。
スマートフォンを見ながら、ふらふらと歩道の端に近づいている。白いイヤホン。ゆったりした制服。長い黒髪が、朝の風に揺れていた。
4。
3。
「——待って!」
声が出ていた。気づいたら走っていた。自転車を放り出して、横断歩道を渡らずに車道沿いに走って、女の子のいる方へ回り込む。
2。
「危ない!」
私は女の子の腕を、思い切り引いた。
1——
ゴウ、と風が耳をかすめた。
黒い自転車が、猛スピードで歩道を突っ切っていく。イヤホンをつけた男子高校生が、スマホを片手に持ったまま、ものすごい勢いで坂道を下ってきていた。ブレーキをかける様子もなく、交差点の前で右に曲がって、そのまま走り去っていく。
シュウ、と音が消えた。
私と女の子は、歩道の真ん中に立っていた。私が引っ張ったせいで、女の子は少しよろけている。
数秒後、周囲の人たちが何事かとこちらを見ていることに気づいた。
「——え、」
女の子が、顔を上げた。
初めて顔を見た。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。少し呆然としたような表情が、そのまま固まっている。
「いまの……」
「自転車が来てたんです。かなりスピードが出てて、曲がりきれなかったら当たってたかもしれない」
女の子は振り返った。すでに自転車の姿も見えない。それから、自分の腕を見た。私が掴んだ、腕を。
「あなたが、引っ張ってくれたの?」
「はい」
「……ありがとう」
ぺこりと頭を下げた。
私はそのとき初めて、気づいた。
カウントダウンが、止まっていた。
あれだけ激しく、削れるように鳴り響いていた音が、ぴたりと止まっている。
代わりに聞こえるのは——旋律だ。穏やかな、でも少し揺れている旋律。
どくん、と私の心臓が跳ねた。
女の子の名前は、日向灯というらしかった。
同じ高校の二年生。私より一学年上だった。
そういうことが明らかになったのは、交差点の近くのコンビニの前で、私たちが少し言葉を交わしたからだ。灯さんは「お礼がしたい」と言って、ジュースを一本買ってきてくれた。
コンビニの自動ドアが開いた。
店を出ようとしたときだった。小さな男の子が入口の段差でつまずいた。
灯さんは反射的に手を伸ばした。
「大丈夫?」
男の子は恥ずかしそうにうなずいた。
灯さんは少しだけしゃがんで、男の子の靴についた砂を払った。
「気をつけてね」
「ありがとうございます」
「こっちこそ。本当に気づいてなかった」
灯さんはおかしそうに笑った。笑うと目が細くなって、印象が変わる。
「ぼーっとしてたの。昨日から、頭の中ぐるぐるしてて」
「そうなんですか」
「うん。でも、おかげで目が覚めた」
そう言って、また笑う。
私はずっと、彼女の旋律を聞いていた。
穏やかな音。でも確かに揺れている。まるで蝋燭の炎みたいに、風が吹くたびに揺れる。
どのくらいの長さなんだろう。
聞こえる旋律の長さが、そのまま寿命の長さに対応している——というほど単純でもない。もっと感覚的なことで、長く続く安定した音は何十年もあるように感じるし、短くかすれる音は……短い。
灯さんの旋律は。
私は思わず、眉を寄せた。
短い。
明らかに、短い。
「どうかした?」
「いえ、なんでもないです」
とっさにごまかして、ジュースのプルタブを引いた。
人に「あなたの寿命が短い」なんて言えるわけがない。第一、私が聞こえているものが正確かどうかも、本当のところはわからない。今まで、旋律が「終わる」瞬間を実際に見たことはない。ただ、短い音を聞いた人が、後で大変なことになっていたことは——一度だけ、あった。
それだけだ。
気にしすぎだ、と私は自分に言い聞かせた。
「あの、名前、まだ聞いてなかった」
「陰山澪です。一年生です」
「澪ちゃんか」
灯さんは少し考えるように首をかしげた。
「いい名前だね。澪って、航路の跡、って意味でしょ。船が通った後に残る道」
「……知ってるんですか」
「たまたま調べたことがあって」
彼女は遠くを見るように目を細めた。
「残るもの、って好きだな、わたし。すぐに消えちゃうものより」
なんでもないように言った言葉が、なぜか私の胸に引っかかった。
「灯さんは……どんな字を書くんですか」
「ともす、の灯。火偏に丁寧の丁」
「灯……」
ろうそくの灯のような、不安定な旋律。
私は胸の奥で、ちくりとしたものを感じた。
学校に着いてから、私はずっと、あの旋律のことを考えていた。
一時間目の古典。先生の声が遠い。
二時間目の数学。教科書のページが頭に入ってこない。
あのカウントダウンは何だったのか。
今まで、旋律は「流れるもの」だった。始まりと終わりがあって、連続して聞こえるもの。でも今朝のあれは違った。カウントダウンの形をしていた。10、9、8——終わりに向かってはっきりと刻まれていく、数字のような音。
あれは、死に向かうカウントダウン、だったのか。
つまり私は、灯さんが事故に遭う直前の「音」を聞いた。そして私が引き止めたことで、その音が消えた。
初めてのことだった。
三年間、この能力と向き合ってきて、こんなことは一度もなかった。旋律が聞こえても、私にできることは何もなかった。というより、できるとは思っていなかった。
でも今朝、私は動いた。
そして——結果が出た。
給食の時間、私は一人でぼんやりと外を眺めながら、パンに手をつけないでいた。
「陰山さん?」
声をかけてきたのは、隣の席の福田さんだ。
「なんか顔色悪くない?」
「そう?」
「顔が青いよ。保健室行く?」
「大丈夫です」
実際のところ、少し体が重かった。朝から頭が痛くて、胸の奥がずっとざわざわしている。気のせいかもしれないと思っていたけど——
午後になって、私はトイレで鏡を見た。
顔色が悪い、というより、疲れた顔をしていた。目の下にうっすらと隈が出ている。
なんだろう。
もしかして……と思う。
もしかして、今朝の出来事のせいで、何かが変わった?
放課後、校門を出たところで、灯さんがいた。
「待ってた。もう少しちゃんとお礼がしたくて」
「いえ、本当に大丈夫です」
「でも澪ちゃん、元気なさそう」
私が答える前に、灯さんはもう歩き出していた。「ちょっとだけ付き合って」という声が、振り返りながら言われた。
なんとなく、断れなかった。
駅の近くに、古い喫茶店があった。灯さんは迷わずそこに入っていく。常連らしく、マスターと顔見知りのようだった。
窓際の席に向かい合わせで座って、ホットの紅茶が来た。
「澪ちゃんって、なんで気づいたの?」
唐突に聞かれた。
「今朝、自転車が来ること。わたし気づいてなかったし、ほかの人も誰も止めてなかった。なのにあなただけ、走ってきた」
「……たまたまです」
「たまたま?」
「見えたんです。自転車が」
嘘ではなかった。見えていた。音で察知して、目で確認した。
でも灯さんはしばらく私を見ていた。何かを確かめるように。
「変わった人だね」
「そうですか?」
「うん。いい意味で」
彼女は窓の外を向いた。午後の光が斜めに差し込んで、その横顔を照らしている。
「わたし、最近ずっと、変な感じがしてるんだよね」
「変な感じ?」
「死ぬかも、って感じ」
灯さんはそう言って笑った。
でもその笑い方は、少しだけ震えていた。
私は紅茶のカップを持ったまま、固まった。
「大げさに聞こえるかもしれないけど、なんか、自分がここにいないみたいな。ぼんやりする感じが続いてて。昨日も今日も、全然集中できなくて。朝もスマホ見ながら歩いてたのは、なんとなく現実から目を逸らしたかったのかもしれない」
「……それ、誰かに相談しましたか?」
「してない。うまく言えないし」
灯さんは笑った。寂しそうな笑い方だった。
「もしかして、今日あなたに助けてもらわなかったら、本当に死んでたのかな、って思う。馬鹿みたいだけど、そんな気がして」
馬鹿みたいじゃない。と私は思った。
本当にそうだったかもしれない。
ただし、それは私が介入したから変わったのかもしれない。そして私が介入しなければ——
頭が、じんと痛んだ。
「澪ちゃん」
灯は少しだけ真面目な顔をした。
「無理してるでしょ」
「ごめんなさい、少しだけ頭が……」
「やっぱり体調悪いじゃん!」
灯さんがテーブル越しに身を乗り出してくる。
「病院行きなよ」
「大丈夫です。帰れば治ります」
「本当に?」
「……たぶん」
灯さんはしばらく私を見つめていた。それから、ふっと笑った。
「なんか不思議だな。今朝初めて会ったのに」
「私もそう思います」
「また会える?」
唐突な言葉だった。
「また?」
「うん。また話したい。あなたと」
理由は言わなかった。言葉だけが、そこにあった。
私は少し考えて——頷いた。
「また話しましょう」
灯は少し笑った。
「澪ちゃんと、もっと早く会いたかったな」
その夜。
自分の部屋で、私は天井を見上げていた。
頭痛はまだ続いている。体が重い。
なんとなく、試してみたくなった。
目を閉じて、耳を澄ます。
旋律を聞く。
いつも私は、自分の旋律を聞こうとしない。なんとなく怖いからだ。でも今夜は——聞いてみた。
聞こえた。
自分の旋律が。
ゆったりと流れる音。穏やかで、安定していて——でも。
私は息を呑んだ。
いつもより、短い。
ほんの少しだけ。でも確かに、短くなっている。
今まで感じていた自分の旋律と比べると——明らかに、違う。
心臓が、どくどくと音を立てた。
まさか。
まさか、今朝のことで?
私が灯さんを引き止めたこと。灯さんの運命を変えたこと。それが私の寿命に、影響した?
ありえない、と思いたかった。
でも——もしそうなら。
もし人の運命を変えるたびに、私の寿命が削られていくなら。
今朝の私は、何かを失った。
そして灯さんの旋律は、まだ短い。
100日、という感覚が、頭の隅に浮かんだ。根拠はない。ただそう聞こえる。旋律の長さが、感覚として数字に変換されたような——。
残り100日。
灯さんには、まだ100日しかない。
「どうすればいい」
声に出たのは、気づいたら言っていた。
誰も答えない部屋の中で、私はしばらく天井を見つめていた。
旋律は続いている。灯さんの旋律が、耳の奥に残っている気がした。
ろうそくの炎みたいに、揺れながら——。
窓の外。
春の夜が、静かに深まっていく。
私はまだ、答えを見つけられないまま、目を閉じた。
灯さんの旋律が、ゆっくりと、消えないでいた。




