Epilogue.お似合いの二人
クレア・ヴィスコンティの死体が上がった。
早朝の出来事だった。クレアはいつも通り護衛を付き従えて、オニール邸へ行くと言って車で家を出た。
移動の途上、銃弾の雨が車を襲った。護衛たちの尽力でクレアは車を出て逃亡を図るも、逃げ切ることは叶わなかった。主だった外傷は頭部を撃ち抜かれた一箇所のみで、即死だったと見られている。
襲撃犯たちは全員特定され、ヴィスコンティ・ファミリーによって漏れなく地獄に送られた。彼らは一様に〈C〉を名乗るストリートギャングの残党であった。
その情報を、リザは病床で聞いた。
アンクとの戦闘の後、リザは家ではなく病院へ向かった。出血が酷く、このままでは主人の顔を拝んだ瞬間に失血死すると判断したためである。
這々の体で病院に着いたリザはすぐさま手術室に担ぎ込まれ、それ以降の記憶はない。目が覚めたのは三日後で、その時にはもうクレアは殺されていた。
ゲーム〈紅のオメルタ〉は、アンクがクレアを救出するシーンから始まる。護衛の手で車から逃げ延び、刺客に追いつかれた所にアンクが駆けつける。
治安の悪いマフィアの世界、守られる身分の主人公、主人公と攻略対象の関係。それらを敵襲という形でスリリングに素早く展開しており、どの要素も外せない見事なイントロダクションだ。
そう、どの要素も外せない。
護衛であるアンクが欠けた時、ヒーローの登場シーンは簡単に悲劇へ転げ落ちる。
リザにアンクを殺す気はなかったものの、戦いの結果はその逆だった。
クレアを襲う悲劇は、予期できたはずだ。だがその可能性に思い至り得るリザは、負傷の果てに眠りこけていた。
その報告を聞いた夜、誰も居ない病室で、リザは疼く左手を抱えて泣いた。
左手には障害が残るかもしれないと言われた。現時点でどうなるかはわからず、今は絶対の安静を言い渡されている。
だが、この規模の傷なら確実に痕が残る。それはやがて古傷になり、雨が降る度に己の存在を主張するだろう。守れなかった過去の代償。背負うべき十字架。
──申し訳ありません。
誰への謝罪なのか。謝りたい人はたくさん居た。そうして後悔の海に心を浸している内に、その日は気を失うように眠ってしまった。
精神的な消耗の影響か、傷の治りは遅かった。入院は長引き、その間オニールの人間が見舞いに来てくれたが、ベアトリーチェの姿はその中にない。
付き人の見舞いに主人が来ることなど望むべきでないのは理解しているが、元気なお姿を拝見したかった。
ようやく動けるようになり始めた頃、ヤオがユン姉弟を連れて見舞いに現れた。
「カワイコチャン! オツカレ!」
ユン・ディの豪快な挨拶の隣で、ユン・ジェが小さく手を振ってくれる。
「わざわざすみません……」
すると、ユン・ディが流暢に中国語を喋り始めた。気遣ってくれているのはわかるが、何を言っているのかさっぱりだった。
「存外元気なようで安心したぞ、小狗」
にやりと笑いながらヤオが言う。消沈していた分、こうして彼がいつも通りに接してくれるのは思ったよりも心を晴れやかにしてくれる。
「その呼び方、そろそろやめてもらえますか」
「お前がユン・ジェ並みに優秀になれば、考えてやる」
そう言って、ヤオは傍らに置かれた椅子に腰を下ろした。
「今日俺が来てやったのは、伝書鳩をするためだ」
すると、空かさずユン・ジェが、
「ヤオ様、心配そうにしてたじゃないですか」
とツッコミを入れる。ヤオは表情一つ崩さず「黙れ」と制したが、ユン・ジェが珍しく可愛げのある笑みを浮かべていた。真偽はどちらにあるのやら。
「小狗、ミス・オニールについては?」
「お嬢様ですか? ええ、特になにも……」
「親友であるミス・ヴィスコンティを亡くし、ひどく憔悴しているそうだ。自室から一歩も出ず、食事も満足に取ろうとしない」
リザはほとんど条件反射で立ち上がろうとしたが、ユン・ディの巨大な手によって押さえつけられた。
「馬鹿犬、まだ安静だろうが」
「っ……すみません、体が勝手に」
「どんな体だ。まったく……こうなるだろうと皆が予想したから、今日までオニールの人間はこれを伝えなかったんだ。そして、それを今伝える意味。わかるな?」
「……心得ました。今すぐ行ってきます」
今度は自らの意思で立ち上がろうとしたが、やっぱりユン・ディのドでかい手に止められた。
「今すぐ行けと言いに来たのでは?」
「そうしたいのはわかるが、今は体を万全にしろ。お前のご主人様は精神的に弱って自死を選ぶようなタマか? 違うだろう」
ヤオの言う通りだった。我が主人は強い。脆い部分を併せ持ってこそいるが、そちらに引っ張られてしまうことは絶対にない。断言できる。
「ヤオ、何から何までありがとうございます」
「妹を気遣うのは当たり前だ。愛しのお嬢様を連れて、また遊びに来い」
彼らが去っていくのを見送ったあと、リザは床に着いた。よく眠り、よく食べ、とにかく回復に専念する。
二日後、退院の許可を貰ったリザは最速で準備を済ませてメイド服に袖を通し、病院を後にした。既に仕事着のリザを看護師たちは心配そうに見ていたが、ハツラツと歩く自分の姿を見ると看護師たちは何も言わずに送り出してくれた。
タクシーでオニール邸に戻り、帰還を喜んでくれるオニールの人々への挨拶も程々に主人の部屋へ向かう。閉じられた扉の前に、冷め始めた朝食の盆が置かれている。
リザはそれを回収し、胃に優しいパン粥を用意して主人の部屋へ戻った。躊躇している暇はない。ドアをノックする。
「リザ・ストーンです」
返事はない。
「入ります」
部屋は存外明るく、荒れている様子もなかった。カーテンが開かれており、昼間の明かりが屋内に優しく差し込んでいる。
だが、かすかに臭った。少なくとも、いつも入室していた部屋とは違う空気が流れている。
寝間着姿の少女が、窓の外を眺めていた。
佇まいには覇気がなく、艶のあった金髪は傷んでいる。
くるりと振り返った彼女は、痩せた白い顔をかすかに微笑ませた。
「おかえり、リザ」
「ただいま戻りました」
もっと酷い状態を想像していたリザは、最初こそ安堵した。
だが、主人がこれ程弱った姿を見せるのが初めてであるのを思えば、遅れてやってきた心痛がリザを苦しめた。
「積もる話もございますが、食事にしましょう。お嬢様さえよければ、その後お風呂に」
「言う通りにするわ」
主人はパン粥をぺろりと平らげ、風呂にも大人しく入った。
入浴中に部屋を換気し、寝具を洗濯する。彼女が長い時間をベッドの上で過ごしていたのは容易に察せられた。その間誰であれ主人は人を寄せ付けなかったのだ。自分以外は。
──果たして、それは良いことなのか。
主人が自分を特別に想っている。それを嬉しく感じているのも、また事実だった。
風呂から上がった主人は、平生の美貌と落ち着きをまたたく間に取り戻したようだった。
それが取り繕ったものか、本当に憔悴を洗い清めてきたのか。リザであっても、そのポーカースマイルの判断はつかない。
ただ、自分の前で無理してほしくはないと、それだけは思っていた。
「リザ、お願い」
すべきことは理解していた。風呂上がりの彼女の髪を梳く。主従が過ごす日々の象徴。ようやくここに戻って来ることができた。
「パン粥はあなたが作ったの?」
「はい」
「美味しかった。久しぶりに生きてるって感じたわ」
「ありがとうございます」
耳で、目で、手で、主人を感じる。どのような言葉をかけるべきなのか。クレアを失った悲しみは自分も共有している。だが、その悲しみの重さは互いに違う筈で。
そうして迷っている内に、主人の方が口を開いた。
「外の空気が吸いたいわ」
◇
『お似合いの二人とは言えないわね』
ケヴィン・オニールが心に抱く、クレア・ヴィスコンティに対する秘密の想い。かつてそれを易々と見抜いたベアトリーチェは、いたずらな笑みを浮かべてそう言った。
『天国?』
『天国が引き合わせたお似合いの二人。クレアの隣に立つには、兄様はちょっと頼りないかも』
言い返すことはできなかった。自分が頼りないのはよくわかっていた。
だから、変わりたかった。自分こそがクレアを天国に連れて行くんだ。もちろん変な意味じゃない。二人で生き抜いて、その先で行ければいいと思っていた。
先に行かれるなんて、思ってもみなかった。
「クソッ……」
クレアの死を悲しんだのは、なにも家族や親友だけではない。
ベアトリーチェの兄であるケヴィンもまた、悲しみの渦に飲まれるやるせない日々を送っていた。
かつては皆が集っていた食卓に、今はケヴィンだけが座っている。
オニール邸も静かなもので、食事の時間ではないとはいえこの閑散ぶりである。慌ただしい情勢下で皆忙しくしたり、喪に服したりとそれぞれの時間を過ごしていた。
「クソッ!」
あまり人が居ないところで声を荒げることが増えていた。灰皿には吸い殻の山が建っている。
彼が家でくすぶっている内に父であるフレデリックが撃たれ、ハワードが死に、信頼していたシャークリンがそれらの糸を引く黒幕として粛清された。顔見知りだったシャークリンの息子も既に始末されたと聞いている。
すべてはケヴィンの居ない場所で起こり、悲劇を撒き散らしながら解決されていく。肩書きだけのナンバー2。惨めったらしい長男坊だ。
幼少の折、ケヴィンは敵対組織の人間に拉致された。
あの時もそうだ。途轍もない恐怖に襲われたが結局ケヴィンはなにもされず、周囲の大人たちが解決してくれた。
変わりたいとは思っている。それでも、自分が生きるこの世界が怖かった。
父のように、裏社会を渡り歩いていける気など到底しない。
なのに、父はもうそれほど長くはないという。幹部たちを差し置いて、息子の自分をボスにという話も上がっているそうだ。
時々なにもかもメチャクチャにしてやりたくなるが、そんな勇気もないのが常だった。後のことを考えて尻込みしてしまうのだ。
ため息を吐きながら立ち上がる。ここに籠もっていても気が滅入るばかりだ。開放的な中庭で煙草を吸っていた方がまだマシだろう。
ケヴィンは、クレアのことがずっと前から好きだった。
こんな自分にも、溌溂とした態度で接してくれるのが心地よかった。
それがクレアの人間すべてに対する態度で、自分に特別な感情を抱いているわけではないのも重々承知している。
それでも好きなものは好きだった。日だまりのような彼女。その温もりは、もう土の中だ。いや、天国に行ったんだ。そう信じなくちゃ、やってられない。
不思議と、ケヴィンはリザに会いたくなっていた。素っ気ない態度の彼女が時折見せる優しさ。無性に彼女のそれに触れたくなっている。
中庭に続く扉を開ける。すると、遠くに先客が居た。
ベアトリーチェとリザだ。
◇
冬から春に移り変わる中で、気温は徐々に上がり始めていた。
この時節の気温は日本と比べても低い方だと、風子の記憶が告げている。
だが、過ごしやすくなっていることに変わりはない。外の空気を吸う程度の時間なら、着込まなくてもいいだろう。
ドレスに漆黒の傘を手にした〈黒傘の君〉のスタイルで、ベアトリーチェは外に出た。うんと伸びをした主人の関節がぽきぽきと音を立てる。
「運動をされていなかったようですね」
「ええ。泣くので忙しかったけどね」
主人は平然と語っていたが、その奥にどれ程の苦悩があったのか。
こちらを向いたベアトリーチェの顔からは、笑みが消えていた。
「アンクを排除するという選択肢を念頭に置いたとき、クレアの命運が関わる可能性については考えた。考えた上で……わたしはそのままにすることを選んだの」
これは、いわゆる告解だろうか。
己の罪を聖職者の元で告白し、神からの赦しを得る儀礼。
クレアの死という大きな罪に関わっているという意味では、リザもまた主人の告解を聞くに値しない罪人であるのは明らかだった。
それでも、主人は語り続けた。
「こんな酷いことになるとは思わなかった……なんて言ったら嘘になる。だってね、考えてしまったの。彼女が消えたら、あなたの言う乙女ゲームの未来は完全に途絶える。わたしの家が脚本通りに没落していくことも回避されるんじゃないかって」
綴られる言葉に涙が混じり始める。まだ立ち直ってはいないのだ。今まさに、この方は立ち直るための準備をしておられる。
「わたしは最低のクズよ。あの子からプレゼントを貰って、なにを返そうか考えなきゃいけない時に、あの子の死とそれに伴う可能性なんて考えてたの。そんなことってあっていいと思う?」
主人は、握り締めた黒傘を地面に突き立てた。
「リザ、わたし夢ができたわ」
彼女らしくなく、大きな声を張り上げていた。
「お父様が回していたこの街は、はっきり言ってまだまだだわ。行政も警察もわたしたちの言うことを聞くけれど、完全じゃない。水が抜ける穴はたくさんあるし、補修だってままならない。そういうものを、誰かが叩き直さなくっちゃいけない」
ドレスの袖で涙を拭い、顔を上げた。
「わたしがこの街を支配する」
主人のおもてはいつになく凛々しく、刻まれた痛みへの悔恨と、下された決断への覚悟がありありと浮かんでいる。
──美しい。
さなぎが、蝶に変わる。羽化する蝶の羽の色が如何様なものか。リザはずっとそれを恐れていた。そのために、行動を続けて来た。
「もっと組織を強くして、第二第三のクレアを生み出さない街をわたしが作り上げる。それがあの子を見殺しにしたわたしにできる罪滅ぼし」
高らかに宣言する主人を前に、リザは自然と膝を突き、こうべを垂れていた。
背筋を、びりびりと多幸感が駆けていく。
──よくぞ、よくぞ。
この方は、辿り着かれた。
悪逆の道ではなく、正すための支配の道──王道へと行き着かれたのだ。
「リザ、あなたが必要よ」
顔を上げると、愛しき主人は艶然とした笑みを称えて私を見下ろしていた。
「わたしのために研ぎ澄まされた刃。わたしのために鍛え上げられた盾──石造りの蜥蜴、わたしのための石怪物」
リザはこの手で守れなかったものを想う。この手で奪ったものを想う。
そして、最も守るべきものだけが残された。
ならば、立ち塞がる一切を討ち滅ぼそう。
たとえ、この世を血の海に変えてでも。
「一緒に、来てくれる?」
迷うことなく、口にする。
「どこまでも、お供いたします」
そして、主人の手の甲にそっと口をつける。
私の人生が、ようやく始まった。
◇
主従の二人が話している様を見て、ケヴィンはどこか安堵を覚えていた。
外に出ているベアトリーチェを見るのはケヴィンも久しぶりだった。怪我を負ったというリザも元気そうだ。
妹はずば抜けて優秀で、時にケヴィンに厳しいところもあるが、本質的には優しい年相応の少女だった。ケヴィンは純粋に妹のことを尊敬し、好いている。
それに、リザ・ストーン。彼女は最近、印象がずいぶん変わった。
彼女たちと話せば、少しは気が紛れるだろうか。ケヴィンは声をかけようとする。
その時、リザがベアトリーチェの前にひざまずいた。
そして主人の手の甲へ、うやうやしく口をつける。
ただの忠誠の儀であり、父がやっているところを幾度も見たことがある。ある意味で慣れ親しんだ仕草である。
──なんだ?
彼女たちの行うそれは厳かでありながら、どこか官能的に映る。触れるどころか、踏み込むことすら許されない二人の領域。
彼女たちを中心に中庭に漂うそれは、まるで妖気としか言いようがなく。見つめるほどに、ケヴィンの背へと怖気をもたらす。
瞬間、足元が崩れ落ちるような錯覚を覚える。
──僕は、これを知ってる。
まだ生まれて間もない頃。記憶の奥底で封されていた、父親とその取り巻きの密会。
自分を拉致した者たちが発していた刺々しい殺気。
カジノゲームの最中に時折ベアトリーチェが見せる笑顔。
恍惚とした面持ちで契りを交わす、主人と従者。
我が家の庭に居る二人が、物理的な距離よりも遠く、圧倒的に遠くへと感じられる。その二人の奥に、巨大な気配の律動を、広がる地獄の禍々しい気を感じる。
怪物。
近づくことを許さない、お似合いの二人。
不意に、二人の視線がこちらに向けられる。立ち尽くしているケヴィンに気づいたのだ。
反射的に、ケヴィンは後ろに下がっていた。
もう煙草を吸う気にもなれず、煙草とマッチ箱を無造作にポケットに突っ込もうとするが、マッチ箱が地面に落ちた。
マッチはリザから貰った物だった。あの日、自分に優しい言葉をかけてくれたリザが。
──あそこに居る二人は、本当に僕の知る二人なのか。
答えをくれる者は居ない。
ケヴィンはマッチ箱を拾わずに屋内へ足を踏み入れる。
そして外に続く扉を、おそるおそる閉じた。
〈Fin〉




