Ep26.彼岸
天敵。
それは生物学において、生物が死ぬ要因となる別の生物種を指す。
リザとアンクは同じ人間。その自然に則れば、二人が天敵になることは本来あり得ない。
だが、この関係は人工だった。シナリオライターの筆の上で編み上げられた関係性は、この世界における天命として人と人を繋ぐ。
本能に従って生きるアンクゆえに、その自然を敏感に感じ取ったのだろう。リザ・ストーンの本能が、同じく彼を天敵と感じているように。
だが、リザの中に居る米山風子という不自然が、それを否定したがっていた。
リザは手にした片手鍋を投げつけ、同時に銃を抜き放って撃ちまくる。アンクはひらりと身をかわし、奥の部屋へと身を隠した。
その隙に、リザは尻尾を巻いて逃げ出した。
分が悪い。撃ち抜かれた腹部からは今も血が出続けている。一度退いて、確実に勝てる機会を探さなければ。
リザは一足飛びで階段を駆け下りて二階へ。どこかで迎え撃つことも検討しつつ、今はとにかく仕切り直す。更に階段を降りて踊り場を抜け、このまま一階へ。
鋭敏な気配を感じ、即座に身を引いた。
銃声が連続し、リザの元居た場所を弾丸が駆けた。このまま一階に降りていれば撃ち抜かれていた。
「逃さねえよ」
先回りされていた。三階から飛び降りて、その上ここまで走ってきたのだ。ハワードと対峙した際の脚力を思い出す。この男なら可能な芸当だろう。
「どうした、まだやる気出ねえのか。俺の顔面ボコボコにした時みてえな気迫見せてくれよ」
ドスの効いた声色。戦いを渇望する男の怒り。
まだ体は動ける。しかし、リザはその場に崩れ落ちてしまった。
『ちゃんと帰ってきなさい』
主人はそう言った。なによりも優先されなくてはならない指令だった。
『お前が俺に人生をくれた。だから……お前を、守らせてくれ』
ゲームの中で、アンクはクレアに告げた。それが私の想いになり、言葉になり、生きる理由になった。だが、今対峙するアンクは私が知っているアンクではない。
ベアトリーチェ様の未来を守ると決めた。だが、クレアとアンクの未来も守りたかった。
「ジジイどもだけじゃ供物が足りねえか。なら──」
言うな。それを言われれば、私は。
「あんたのご主人様切り刻めば、もう少しやる気出してくれるか」
この男を殺さなくては、主人の命令を守れない。
この男を殺さなくては、主人の命を守れない。
この男を殺さなくては。
──殺せ。
浮かんでいた涙を拭い、リザ・ストーンは吠えた。
両手に拳銃を構えて二階へ駆け上り、そのまま躊躇なく柵を跳び越える。そこは一階で待つアンクの直上である。リザは落下しながら両手の拳銃を撃ちまくる。
上からの襲撃を察知したアンクは飛び退いて回避し、階段の裏に身を隠した。
右手の拳銃が弾切れ。左で撃って牽制しつつ、右の銃をリロードする。
背後に気配。
アンクは階段の裏から回り込んで来ていた。
銃声が連続するが、リザは寸前で回避した。音を立てて広がったスカートが銃撃で裂ける。
「そうこなくっちゃなあ!」
ここはアンクの居住地である。地の利は圧倒的に相手の物だ。
団地に絶え間なく銃声が響き渡り、レンガ造りの壁に弾痕が穿たれる。だが、殺し合う二人にはいつまで経っても弾が当たらない。
──埒が明かない。
二人の視線が重なる。同じことを考えているのが手に取るようにわかる。
リザは弾切れの銃を捨て、落ちていたレンガを両手に握って距離を詰めた。
アンクもそれを望んでいたかのように銃を捨てると、黒い刃を有するリザのナイフを抜いて接近戦の間合いへ。
「……私のナイフ」
「取り返してみろよ、メイドさん」
リザが剛腕としか言いようのない膂力で以てレンガを振り抜いた。
ナイフとそう変わらない速度で駆ける鈍器に対し、アンクは回避に徹する。
アンクはあくまでカウンターを狙う構えだった。レンガを振り抜いた瞬間に狙いを定めて的確な一撃を入れて来る。
ナイフでの攻防を経たのもあり、既にリザの腕は小さな切創の積み重ねで血まみれだった。腹の銃創からも絶えず血が漏れ、めまいと倦怠に襲われ始めている。貧血だ。
──これ以上無駄な血は流せない。
超近接戦の間合いから、リザは一歩退いた。当然のようにアンクが追って来る。
左手に握ったレンガを、下から顔面目掛けて放り投げる。
振りかぶらない分速度は出ないが、リザに迫るべく猛進するアンクは自らレンガに衝突しに行った。顔面にクリーンヒット。
だが、それでもアンクは止まらない。死地に身を置く獣の獰猛な殺意は、止まるということを知らなかった。
リザの首元目掛け、刺突が繰り出される。
空いた左手で咄嗟に受け止める──突き刺さる瞬間、何かが切れた。
左手でナイフを受け止めるのは、前にアンクと戦った際にも取った戦法だった。
治ったとはいえ重傷箇所である。繰り返しのダメージがもたらすものは計り知れない。
──もう左は使えない。
だが、まだ右がある。
右手に握ったレンガで、アンクの側頭部をぶん殴った。あまりの威力にレンガが砕け散ると共に、リザの手に刺さるナイフからアンクの手が力なく離れる。
──やったか。
次の瞬間、リザの視界が赤く染まり、暗闇と化した。
口に溜まった血を吐きつけられた──目潰し。直撃を受け、リザは視界を潰された。
──拭わなければ。
だが、眼前で死の気配が爆発した。かすかに見えるのは、アンクが拳を振りかぶる姿。相手は徒手空拳。とはいえ、素手で人を殺せるのはリザも同じ。
「頂くぜ」
少年のごとき無邪気な呟き。回避は間に合わない。
アンクは振りかぶった拳を、ストレートに振り抜いた。
そして──リザは、首の前に右手を置く。
一瞬の静寂。
急所を狙って来る。それは確実だった。
殴るなら、どこか。
前に対峙したあの日、リザは拳で喉を潰すことを狙った。喉の回りには顎、咽頭、鎖骨と弱点が揃っており、拳を入れるには持って来いの場所である。
狙う場所は目でもこめかみでも、いくらでもあった。
ただ、殺しの感性が似通っていた。
喉元へまっすぐに打ち出されたアンクの拳は、リザの右手が的確に受け止めていた。
「……捕まえた」
リザの腕力は林檎を優に素手で握り潰すことができる。
握った獲物は放さない。壊すまで。
掴んだアンクの拳が腕力で歪み、骨の砕ける音が立つ。
リザはそこで手を離し、左手に刺さったナイフを抜き放つ。手に吸い付くような感覚。主人より賜りし特注の逸品。
アンクは遮二無二殴りかかってくるが、リザは腰をかがめて避けた。こうして彼を見上げるのは二度目だ。あの時は、父とボスに向かっていく銃弾を見送った。
今は違う。拳を空振りさせたアンクと、刺突の構えを取るリザ。
──躊躇うな。
それが、闘争を求め、戦いに生きようとする今のアンクのためになる。
胸骨の下から臓腑へ抜けていくように、縦に突き刺した。
確かな手応えがあった。致命的な場所を貫いている。
リザはナイフを抜く。噴き出す血と、赤く染まったナイフ。
──殺した。私が、この手で。
しでかしたことの重みが、今になって己を苛む。吸った命の重みを反映するように、握ったナイフがその重さを増す。
あまりにも、あまりにも多くをアンクから貰った人生だった。その私が、アンクの命を奪う。なんたる運命の皮肉か。
だが、アンクへの恩は米山風子のものだった。リザ・ストーンは育ての父を失っている。喪失と喪失。これで足し引きゼロということか。
悔恨の海に浸かるリザは、今正に死のうとしている眼前の男を見ることができずに居る。
ゆえに、気付けない。
「おい、どこ見てる」
アンクは、獰猛に笑っていた。
拳が振り抜かれる。回避が間に合わず、鎖骨を砕かれた。激痛で声にならない声が漏れ、緩んだ手からナイフが落ちる。
その勢いに乗じて、アンクの猛烈な連打が始まった。一撃一撃があまりに重く、脳が揺らされてリザの意識は朦朧とする。文字通りの命を賭した攻撃。アンクの傷と口からは、絶え間なく血が流れ続けている。
だが、その動きは単調だった。
リザは難なく回避して肉薄し、彼の首に腕を回して引き倒す。
このまま寝技で絞め殺す。失血死を待っていてもこの獣は止まらない。
アンクは必死に抵抗した。首に回した手が徐々に引き剥がされるが、彼の失血が進むにつれ徐々にパワーが落ちていく。失血しているのはリザも同じだが、急所と下腹部では怪我の重みが違った。アンクは次第に口から血の泡を噴き始める。
だが、狂犬はまだ暴れ続ける。
「っ……もうやめて! もう、あなたを苦しめたくない……!」
「嫌、だね」
自身の血で溺れているような状態のアンクが、必死に言葉を紡ごうとしていた。
それを聞き届けたくて──わずかに緩んだ瞬間、腕を引き剥がされてしまった。
「まだ、遊びたりねえんだ!」
起き上がったアンクは左で手刀を作ると、リザの下腹部の銃創へその先端を突き込んだ。壮絶な痛みにリザは絶叫する。
唐突に視界に現れる二本の指。
アンクは目潰しを狙っていた。
だがリザは反応する。手で受け止めて防ぎ、突き出された指を二本ともへし折る。
ひしゃげたアンクの右手が、不意に横に伸びた。視線をそちらにやると、リザのナイフが落ちている。
──取らせるか!
リザも手を伸ばす。お嬢様より賜ったナイフ。致命傷を負った左手だが、それでも掴めるという確信があった。
──お嬢様のナイフを握れなくて、私の左手が務まるか!
届く距離だった。
が、アンクの方がわずかに速い。彼の手がナイフを握り込む。
ナイフは、音を立てて地面に落ちた。
握り潰され、折れてひしゃげた手指。そんな手で、ナイフを握ることはできなかった。
「……怪力女」
リザはナイフをあらん限り強く握り締めると、絶叫と共にアンクの首に突き立て、裂いた。
降り注ぐ血の雨が二人を、地を、壁をしとどに濡らして赤に染める。血の海に浸かるリザのメイド服に、もはや白い布地は残されていない。
果たして、アンクはリザに覆いかぶさるように崩れ落ちた。
「久々に、楽しかった。やっぱ、強えな……メイドさん」
「……リザ・ストーンです」
「リザ…………どうすりゃ、あんた、みてえに」
アンクの声は、そこで途切れた。続きを待ったが、発されることはない。
人間の感覚の中で、死の間際まで残っているのは聴覚だとどこかで聞いた覚えがある。リザは届いていてくれという思いで、嗚咽と共に告げた。
「あなたのおかげです」
肌に触れる恩人の体温が、急速に冷えていく。
やり遂げた、生き延びたという達成感。守れなかったという悔恨。足し引きゼロ──しかし、引き切れない感情がこみ上げる。
泣いている余裕などない。涙の原料は血液だという。それが本当なら、失血を加速させてしまう。お嬢様の元に帰れなくなってしまう。
そうとわかっていても抑えられない血涙がリザの心身から溢れ、滴り、血の海を満ちさせる。
〈To be continued〉




