第一章 / 第8
あの日から、数週間が過ぎた。
何か大きな出来事があったわけじゃない。
爆発するような喧嘩をしたわけでも、
「もう無理」と泣き叫んだわけでもない。
ただ、毎日が、
少しずつ違う音を立てて進んでいく。
朝、学校の門をくぐると、
息が少し白くなりそうな気がした。
秋と冬の境目みたいな空気。
制服のブレザーを握る指先に、
冷たさがまとわりつく。
昇降口で靴を履き替えていると、
背中からいつもの声が落ちてきた。
「お前また、寝てへん顔しとる」
振り向くと、
彼がそこに立っていた。
前髪をつまんで、
軽く引っぱる。
「寝たし」
いつも通りに返す。
「嘘。目ぇ死んどる。ゾンビみたい」
ひどい言い方をするくせに、
その目はちゃんと私のことを見ていた。
そのことが、嬉しくて、苦しかった。
——ほんまは、あんまり寝れてない。
あの夜から、
布団に入ると余計なことばかり考えるようになった。
彼のこと。
元カノのこと。
ストーリーに映っていたコンビニの灯り。
あの白い蛍光灯と、
レジ前で笑っていた二人の距離。
全部まとめて、
頭の中で何度も再生される。
「大丈夫やって。ちゃんと寝てる」
それでもそう言うのは、
“変わっていない” を守りたかったから。
変わってしまったのは、
私の方だけなんじゃないかって
そう信じ込むことで、
なんとか立っていたかった。
教室に入ると、
いつもの席。
いつもの景色。
黒板の文字が少しかすれて見えるのも、
チョークの粉が舞っているせいだと思うことにした。
彼は斜め前の席で、
いつも通り椅子を後ろにぎいっと倒して座る。
「英語の小テスト、終わったな」
「終わってない。むしろ始まってもない」
そんなくだらない会話を繰り返していると、
一瞬だけ、本当に“何も変わっていない” みたいな気がする。
その感覚に、
私は少しだけ縋っていた。
けれど、
視線の端で、
彼の目がふっとどこかを向く。
教室のドア。
その向こうの廊下の先。
別のクラスの方向。
そこに誰がいるのか、
私は知っている。
元カノの顔が思い浮かぶ。
思い浮かんでしまう自分が、
少し嫌だった。
*
休み時間。
トイレへ行く途中、
廊下の向こうから、
聞き覚えのある声がした。
「〇〇、ちょっと来てー」
元カノの声だった。
私はとっさに、
廊下の端に寄って窓の外を見るふりをした。
ガラス越しに見える校庭は、
体育の授業で生徒が走っている。
その手前を、
彼が小走りで通り過ぎていく。
笑って、
何かを言っている。
元カノの方を向いて。
その横顔を、
私は横目でちらっと見てしまった。
ただ呼ばれて、
ただ返事をして、
ただ会話しているだけ。
それ以上の意味なんて、
どこにもないのかもしれない。
それなのに――
胸の奥の、小さな箱みたいな場所が、
きゅっと締まった。
「見なければよかった」
そう思ったところで、
もう遅い。
知ってしまったことは、
元には戻らない。
トイレに行って鏡をのぞくと、
思っていたより顔色が悪かった。
自分で自分のことに驚くくらい、
目の下にうっすら影ができている。
「ほんまにゾンビやん」
彼がさっき言った言葉を思い出して、
ひとりで苦笑する。
ゾンビみたいでも、
学校には来るし、
授業も受けるし、
彼とも話す。
それが、
今の私にできる
“普通の生活” の唯一の形だった。
*
放課後。
今日は文化祭準備もなくて、
久しぶりに完全な自由時間だった。
昇降口で靴を履き替えていると、
外の空が淡いオレンジと紫に変わりかけていた。
窓越しに見える中庭に、
彼の姿が見える。
別のクラスの友達と、
何か話して笑っている。
特別なことじゃない。
いつもある光景のひとつ。
それなのに、
その輪の中に元カノの姿が見えた瞬間、
心臓がどくんと鳴った。
遠くだから、
声までは聞こえない。
でも、表情だけで、
雰囲気でわかってしまう。
ああ、
この距離感は、
私が入る余地のないやつだと。
「おーい」
名前を呼ばれて振り向くと、
私はもういつもの位置に戻される。
「帰る?」
「帰る」
「送ったるわ」
あまりにも自然に言われて、
断る理由を探すほうが難しかった。
断ることは、
“何かあった” と認めてしまうことな気がして。
バイク置き場まで一緒に歩く。
彼は相変わらず、
私を気にかける言葉を軽く投げてくる。
「今日寒くね? 手、かじかんでそう」
「大丈夫やって」
「手袋買えよ。ゾンビも凍死するぞ」
「ゾンビ推しすぎやろ」
そんな会話が続く。
ヘルメットをかぶり、
後ろに乗る。
ほんの少しだけ、
背中との距離をあける。
気づかれない程度の、
ほんの数センチ。
その数センチを、
私の中では必死に保っていた。
風が冷たくて、
指先が痛くなる。
信号で停まるたびに、
彼の横顔が街灯の光に照らされる。
その輪郭を、
私はずっと覚えていたいと思った。
「なあ」
信号待ちの間、
ふいに彼が口を開く。
「最近、元気ない」
驚いて、
ヘルメットの中で瞬きをする。
「別に。普通やし」
「普通って言うやつ、全然普通ちゃうねんな」
「なにそれ」
「いや、なんとなく。 なんか、顔がな」
彼の声は真剣でも重くもない。
でも、
ちゃんと見てくれていることだけは伝わった。
見てほしいような、
見てほしくないような。
矛盾した気持ちが
胸の中でぐるぐる回る。
「寝てへん?」
「……ちょっとだけ」
言葉が、
つるっと滑り出た。
これ以上踏み込まれたら
多分、泣く。
そう思った瞬間、
彼はふっと笑った。
「やっぱりな。 まあ、無理すんなや」
その一言で、
喉の奥まで込み上げていたものが
少しだけ引っ込んだ。
「……うん」
短く返す声が震えたのを、
彼が気づいたかどうかはわからない。
それ以上、彼は何も聞かなかった。
追及されなかったことに、
ほっとする自分と、
少しだけさみしい自分がいた。
*
家の前に着くと、
空はすっかり暗くなっていた。
街灯の下でヘルメットを外しながら、
私は小さく息を吐く。
「今日も、ありがとう」
「おう。 また明日」
バイクが走り出す。
テールランプの赤い光が、
交差点の向こうで小さくなっていく。
私は、
その光が完全に消えるまで
玄関の前で立ち尽くしていた。
ドアを開けて、
いつものようにただいまと言う。
返事は遠くから聞こえるだけ。
部屋に入って、
鞄を投げ出し、
制服のままベッドに倒れ込む。
天井を見つめて、
ゆっくり息を吐く。
今日も彼は、
いつも通りだった。
いつも通りのように、
私の名前を呼んでくれて、
髪をくしゃくしゃにして、
家まで送ってくれた。
それなのに、
胸の中には
ずっと拭えない不安が居座っている。
スマホを手に取る。
画面をつけて、
何となくSNSのアプリを開く。
ストーリーの欄には、
いくつか友達のアイコンが並んでいた。
元カノのアイコンがある。
どうしようか迷って、
結局、そのまま画面を閉じた。
見ればまた、
余計なことを考える。
あのコンビニの灯りが蘇る。
彼の横顔と、「送ってもらってまーす」の声が
同時に頭に響く。
それが怖かった。
布団にもぐり込んで、
スマホを枕元に伏せる。
目を閉じると、
さっきまでの彼の声や表情が
鮮明に浮かんでくる。
元カノのことも、
元カノのいるクラスの方向を見る視線も、
全部まとめて。
「変わってへん、はず」
自分に言い聞かせるように、
小さく呟いた。
でも本当は知っている。
変わっていないのは、
“変わらないふり”を続けている私の態度だけだ。
彼の世界は、
私の知らないところで
少しずつ形を変えていく。
別のクラスで、
別の会話で、
別の笑い声で。
その変化に、
私はまだ触れたくなかった。
触れた瞬間、
私の中の何かが
壊れてしまう気がしたから。
だから今は、
見ないふりをする。
聞こえないふりをして、
「何も変わっていない」と
自分に言い聞かせる。
それはきっと、
やさしい嘘であり、
残酷な現実でもある。
この頃の私はまだ知らなかった。
この“変わらない日々”を続けようとするほど、
逆に関係は静かにずれていくこと。
そしてそのずれが、
いずれはっきりと形になって、
私の前に立ちはだかることを。
私はまだ、
何も知らないふりをして眠りにつこうとしていた。




