第一章 / 第7話
その日は、少し冷え込んだ日だった。
放課後の風が強くて、
校門を出たとき、前髪が何度も顔にかかった。
「飛んでまうで、それ」
隣で彼が笑う。
軽く手を伸ばして、私の前髪を指先で払った。
それだけで、胸がどきっとする。
「家、送ったるから乗れや」
いつものようにバイクにまたがりながら、
当然のように言う。
「……ん」
断る言葉が、
この日はうまく出てこなかった。
しんどい一日だったし、
文化祭の準備で身体もだるかったし、それに——
何より、
今日はもう少しだけ、彼のそばにいたかった。
ヘルメットを被って後ろに乗る。
背中にそっと手を置くと、
彼がエンジンをかけた。
道路に出ると、
夕暮れはほとんど終わりかけていて、
オレンジと紺色の境目みたいな空が広がっていた。
信号で止まるたびに、
交差点の明かりが彼の横顔を照らしては、すぐに影に沈む。
「今日、疲れたな」
彼がぽつりと言う。
「……うん」
「なんか、文化祭って準備のときが一番しんどくない?」
「本番よりね」
そう返すと、彼は「わかる」と笑った。
それだけの会話なのに、
そのやりとりがあまりにも当たり前すぎて、
逆に怖かった。
この当たり前が、
どこかで突然終わってしまうかもしれないことを、
薄々感じていたからかもしれない。
⸻
家の近くの角を曲がるとき、
スピードが少しだけ落ちた。
「今日、寄り道せんと真っ直ぐ帰るわ」
彼がそう言う。
「珍しいな」
思わず口にすると、
「たまにはな」と短く返ってきた。
言葉だけ聞けば、
私を優先してくれたようにも聞こえた。
そう思った瞬間、
自分に都合のいい解釈をしてしまったことが、
すぐに恥ずかしくなった。
家の前に着いて、
バイクが止まる。
ヘルメットを外しながら、
彼が言った。
「じゃあ、また明日な」
「うん。送ってくれてありがとう」
「ええって」
軽く手を上げて、
彼はまた走り出していった。
テールランプの赤い光が曲がり角で消えるまで、
私は玄関の前で立ち尽くしていた。
——やっぱり、嬉しい。
シンプルなその気持ちを、
誰にも見られないように心の奥で握りしめる。
玄関を開けて、
ただいまと言い、
部屋に直行する。
制服のままベッドにダイブした。
枕の匂いが一瞬だけ鼻腔をくすぐり、
そのまま深い眠りに落ちた。
今日は、いろんなものを考える余裕がなかった。
寝た瞬間に、世界が遠のいていくのを感じた。
⸻
ふっと、目が覚めた。
部屋は暗くて、
カーテンの隙間から街灯の光だけが細く漏れている。
身体が少し重たい。
寝返りを打つと、
枕元のスマホが青白く光った。
時間を見ると、
帰ってから三時間以上が過ぎていた。
「あ、寝てたんや……」
頭がぼんやりしたまま、
机に放り投げていたスマホを手探りで取る。
画面の端に、SNSの通知が光っていた。
何気なくアプリを開いて、
クセのようにストーリーの欄をタップする。
一番上に見慣れたアイコンが並んで、
その中に、
嫌でもすぐ視線を引きつけられてしまう名前があった。
——元カノ。
見ないほうがいい。
そう思うのに、
指は止まらなかった。
タップすると、
画面いっぱいにコンビニの光景が広がった。
蛍光灯の明かり。
レジ横のおでん鍋。
陳列されたチョコの棚。
その真ん中で、
元カノがアイスコーヒーを片手に笑っていた。
「バイトおわり〜」
軽い声が聞こえたあと、
カメラが横に動く。
そこにいたのは、
見慣れすぎた横顔だった。
——彼、だった。
私服に着替え、
店員と軽く話しながら笑っている。
元カノが茶化しているような空気。
画面の上には、小さく
「1時間前」
と表示されていた。
胸が少し冷える。
アプリを閉じようとして、
閉じられなかった。
ストーリーのバーがまだ残っていたから。
指がまた動く。
画面の上には、小さく
「6分前」
と表示されていた。
次の動画は、
コンビニの前の自動ドアだった。
外の街灯がふたりの影を照らしている。
元カノの笑い声と、
彼が照れたようにバイクを押しながらそらす視線。
「送ってもらってまーす」
その軽い声と文字が、
深い場所に突き刺さった。
たかが数秒。
それだけの動画なのに、
胸の奥がぎゅっと縮んだ。
スマホの画面を伏せるように閉じて、
天井を見た。
「……あほやな、うち」
誰に向けた言葉なのか、
自分でも分からなかった。
彼に向けたのか。
元カノに向けたのか。
こんなことで傷ついている自分に向けたのか。
多分、全部だ。
家の前で、
彼の「また明日な」を反芻していた自分が
急にひどく幼く思えた。
彼の中では、
今日の帰りも
元カノを迎えに行くのも
全部、同じ“日常”なんだろう。
そこに意味を付けたのは、
いつだって私だけだった。
「……うざ」
笑いながら言ったつもりが、
声は掠れていた。
布団を胸元まで引き寄せて、
顔を埋める。
音も光も消えていく。
眠気がまた身体を覆いはじめた。
世界は変わっていない。
変わったのは、
私の胸の内側だけだった。
その事実が、
どこか誇らしくて、
そしてとても苦しかった。




