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心と人生  作者:
第一章
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第一章 / 第6話

翌朝、

いつも通りの時間に目覚ましが鳴った。


いつも通りの音量で、

いつも通りのテンポで。

でも、耳に入ってくる感覚だけが

少し違っていた。


スマホを止めて、

しばらく天井を見つめる。


眠れなかったわけじゃない。

ちゃんと寝たはずなのに、

身体の奥が重たい。


布団から出るまでに、

いつもより時間がかかった。


支度をして、

鏡の前に立つ。


髪を結びながら、

鏡に映った自分の顔を見る。


「……なんか、だるそう」


思わず口に出る。

誰かに言うわけでもない独り言。


目の下に薄くクマができている気がする。

それを誤魔化すほど、器用でもない。


制服の襟を整えて、

鞄を肩にかけた。


靴を履いて家を出ると、

朝の空気がすっと肺の中に入っていく。


空は青くて、

雲がいくつか浮かんでいる。

天気はいい。


——なのに、

心の空模様だけが曇っていた。



学校に着いて、

教室の扉を開ける。


中ではすでに何人かが集まっていて、

昨日の続きのように文化祭の話をしていた。


「おはよー」


誰かが声をかけてくれて、

私も「おはよ」と返す。


自分の席へ向かって歩いていく途中で、

窓際の席に目がいった。


彼が、

プリントを広げたままあくびをしていた。


こちらに気づくと、

ひょい、と片手を上げる。


「おはよ」


その声は、

何も変わっていない。


彼の顔も、

仕草も、

いつものままだった。


「……おはよ」


私も、

いつもと同じように返す。


それしかできなかった。


席に着いて、

カバンの中からノートを取り出す。


彼が立ち上がって、

私の机に一枚のプリントを置いた。


「昨日の、途中まで一緒にやってたやつ。写す?」


「え、いいの?」


「どーせお前、真面目に全部やろうとして進んでへんやろ」


図星だった。


「……ありがと」


そう言ってプリントを受け取る。


彼は私の反応に満足したのか、

「ちゃんと見ろよ」と笑って自分の席に戻った。


そのやりとりだけ見れば、

何も変わっていない。


抱きしめ合った夜も、

元カノと話していた昼休みも、

ぜんぶ夢の中の出来事だったみたいに、

日常は普通に続いていく。


その事実が、

少し怖かった。



昼休み。


今日は外が暖かかったので、

私は校庭の端のベンチに座って弁当を開けた。


グラウンドの真ん中では、

どこかのクラスがダンスの練習をしている。

音楽が途中で止まったり、

掛け声が裏返ったりして、

それを見ているだけで少しおかしかった。


箸を動かす手は、

それでもどこかぎこちない。


「ここ空いてる?」


ふいに、

真横から声がした。


顔を上げると、

彼が弁当の入ったコンビニ袋を片手に持って立っていた。


「……うん」


断る理由もないから、

私は少し横にずれる。


彼は何の気負いもなく、

隣に腰を下ろした。


「中、人多かったわ。席全部埋まってた」


「そうなんや」


「お前、ひとりでここおるとか珍しいな」


そう言いながら、

コンビニのおにぎりの包装を器用に剥がしていく。


「たまには外もいいかなって思って」


「ふーん」


それ以上踏み込んでこない。

その距離感が、

ありがたくて、

少し寂しかった。


ふたりで黙って弁当を食べていると、

グラウンドから笑い声が上がった。


「昨日さ」


彼がぽつりと言った。


「元カノと話してたやろ?」


先に口に出したのは私だった。


聞きたくないくせに、

気になりすぎて、

結局、自分から聞いてしまった。


彼は少し驚いたように目を丸くして、

「見てたん?」と笑った。


「たまたま」


嘘とも本当ともつかない返事。


「なんか、話あって呼び止められてん」


「ふーん」


なるべく、

興味なさそうに声を出したつもりだった。


「別に、なんもないで」


そう付け足すように彼が言う。


「そんなの、聞いてないし」


反射的にそんな言葉が出てしまって、

自分で自分に驚いた。


彼は少しだけ黙ってから、

おにぎりにかぶりついた。


どこかで会話を変えたかったのに、

上手く話題が見つからなかった。


グラウンドで踊っている人たちを眺めながら、

時間だけが流れていく。


「……お前ってさ」


突然、彼が言った。


「何考えてんのか分からんな」


からかうような、

でもどこか真面目な声だった。


「自分でも分からん」


そう返すと、

彼は吹き出した。


「それやったら、しゃあないわ」


私の胸の中で、

何かがきゅっと縮まった。


——抱きしめ合った夜のことも、

——私だけがずっと覚えている。


彼の中で、

昨日も今日も、

同じ「日常」の一部として並んでいるんだろう。


それが、

当たり前なんだろう。


理解はできる。

でも、納得はできなかった。



放課後。


いつも通り、

昇降口に向かって歩いていると、

背後から名前ではない声が飛んできた。


「なあ」


振り返ると、

彼がヘルメットをぶら下げて立っていた。


「今日、帰りどうするん」


聞かれなくても分かっている。

多分、

この流れなら「送ったるで」の一言が続くのだろう。


「……友達と帰る」


昨日と同じ嘘を、

今日もついた。


口に出した瞬間、

胸の奥がちくりと痛む。


「またそれ」


彼は苦笑して、

でもそれ以上何も言わなかった。


「じゃあ、先行ってるわ」


軽く手を上げて、

駐輪場のほうへ歩き出す。


私は彼の背中を見送りもせず、

昇降口の外へ出た。


夕焼けが、

少しずつ夜へと変わっていく時間帯。


空のグラデーションだけが綺麗で、

それが余計に虚しかった。


校門を出て、

昨日とは違う道を選ぶ。


細い裏道には行かなかった。

あの暗がりを通ったら、

昨日の感触を鮮明に思い出してしまいそうで怖かった。


住宅街の少し広めの道を歩きながら、

ポケットに手を入れる。


指先が、

彼の制服の布越しに感じた感触を

まだ覚えていた。


それでも、

何も変わっていないふりをする。


教室でも、

廊下でも、

校庭でも。


私と彼の関係は、

周りから見れば

きっとただの「仲がいいクラスメイト」でしかない。


抱きしめられた夜も、

雨の日に並走してくれた帰り道も、

眠れなかった日に呼び出した電話も。


全部、

私の中だけで

少しずつ特別になっていくだけだ。


誰にも見えない場所で膨らんでいく感情を、

誰にも見せられないまま抱えて歩く。


それが、

今の私の日常だった。


家のドアを開ける。

靴を脱ぐ。

「ただいま」と言って、

いつものように自分の部屋へ向かう。


ドアを閉めて、

ベッドに倒れ込んだ。


天井を見つめながら、

小さく息を吐く。


何も変わっていない。

何も変わっていないはずなのに、

胸の奥だけが確実に

昨日までとは違っていた。


そのことを知っているのは、

世界中で私一人だけだ。


それが少し、

誇らしくて、

とても、苦しかった。


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