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心と人生  作者:
第一章
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第一章 / 第5話

その日は、朝から何となく落ち着かなかった。


文化祭の準備が本格的になって、

教室の中はガムテープと段ボールと画用紙の匂いでいっぱいだった。

誰かが流したBGMが小さく鳴っていて、

それにかぶさるように笑い声が響いている。


私はといえば、

黒板の前の長机に座って、

配られたプリントのチェック欄を黙々と埋めていた。


「葵〜、それ終わったらこのポスターも頼んでいい?」


クラスメイトが軽い調子で声をかけてくる。


「いいよ」


返事をしながら、

ペン先はほとんど止まっていた。


視線だけ、

窓のほうへ向かう。


外はよく晴れていた。

グラウンドでは別のクラスが何かの出し物のリハーサルをしているらしく、

マイクテストの声や、中途半端な音楽が風に乗って届いてくる。


その向こう側。

校舎の影になっているところに、

人影が二つ並んでいた。


最初は気に留めなかった。

けれど、片方のシルエットを見た瞬間、

心臓が小さく跳ねた。


——あ。


彼だった。


その隣に立っているのが誰なのか、

認めるまでに少し時間がかかった。


髪の長さ。

姿勢。

笑ったときの首の傾き方。


ゆっくりと、

頭の中の記憶と輪郭が重なっていく。


元カノだった。


彼女は少し顔を上げていて、

なにか楽しそうに話していた。

彼も、それに合わせるように笑っていた。


距離は近すぎず、遠すぎず。

けれど、

「昔から知っている人間同士の距離」

というのは、一目で分かる。


胸の奥が、

ざわり、と揺れた。


何もおかしくない光景だ。

別に、

付き合っているわけでもない。

同じ学校の同じ学年で、

たまたま外で会って話しているだけ。


頭では分かっているのに、

心がうまく追いついてくれない。


ペンを持っていた右手に力が入りすぎて、

紙が少しだけしわになった。


「葵、そこまで細かく見んでいいって」


隣で作業していた子が笑いながら言う。


「……あ、ごめん」


慌てて目をそらし、

視線をプリントに戻した。


でも、

グラウンドの端で並んで話しているふたりの姿は、

視界の端からまったく消えてくれなかった。



昼休みのチャイムが鳴る頃には、

その光景は何度も頭の中で再生されていた。


教室の中は、

弁当を広げる音と、

机をくっつける音と、

誰かがふざけて笑う大きな声で満たされている。


私は弁当を広げたものの、

箸を持つ手がなかなか動かなかった。


「食欲ないん?」


向かいの席の子が聞いてくる。


「あるよ」


そう答えて、

無理やりひと口だけ口に運ぶ。

味が、よく分からなかった。


ふと、

教室の入り口に気配を感じて顔を上げると、

彼がプリントの束を片手に立っていた。


「これ、先生が配れって」


そう言って、

適当に近くの席の子に渡している。


私のところにも一枚回ってきて、

彼はついでみたいな顔で言った。


「さっきのやつ、ちゃんと確認した?」


「あ……うん」


「目つき悪かったから、なんかあったんか思ったわ」


軽い冗談のつもりなんだろう。

私は笑えていないのを自覚しながら、

「別に」とだけ返した。


彼はそれ以上、

何も聞いてこなかった。


その沈黙に、

少し救われた反面、

少し傷ついた。


——気づかないほうが、優しいのかもしれない。


そう自分に言い聞かせる。



放課後。


文化祭の準備は、

思ったより早く切り上げになった。


「続きはまた明日なー」


先生がそう言って教室を出て行き、

生徒たちもそれぞれの帰り支度を始める。


私は机の中を片付け、

カバンに教科書を無造作に突っ込んだ。


窓の外は、

もう少しで夕焼けになりそうな色をしている。


昇降口に向かう途中、

廊下の角を曲がったところで、

彼と鉢合わせた。


「おつかれ」


「……おつかれ」


短い挨拶。


彼はいつものように

片手にヘルメットをぶら下げている。


「今日、帰りどうするん」


自然な口ぶりで聞かれて、

私は一瞬だけ言葉に詰まった。


本当は、

いつもみたいに一緒に帰るのが嬉しいくせに。


頭のどこかで、

グラウンドで彼と元カノが並んでいた光景が、

もう一度よぎった。


「……友達と帰る」


自分でも驚くくらい、

すらっと嘘が出てきた。


彼は少しだけ目を見開いたあと、

「あ、そうなん」と言って笑った。


追及はされなかった。

それがほっとしたような、

物足りないような気持ちになる。


「じゃあ、また明日な」


彼はそう言って、

駐輪場のほうへ歩いていった。


私はその背中を見送らず、

逆方向の階段を下りる。


昇降口を出て、

校門を通り抜けるとき、

夕方の風が少し冷たく感じた。


遠くで、

バイクのエンジン音がする。


多分、彼だろう。

でも振り返らない。


代わりに、

いつもとは違う道を選んで歩き始めた。


住宅街に続く、

少し遠回りの道。


アスファルトの上に、

並んだ家々の影が伸びている。

どこの家からか、

晩ご飯の匂いが流れてきた。


歩きながら、

さっき見た光景が何度も蘇る。


元カノと話していた彼の笑顔。

それが、

私に向けられた笑顔と同じなのか、

違うのか。

そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。


——別にいい。

私なんか、彼女でもなんでもない。


そう言い聞かせる。

言い聞かせれば言い聞かせるほど、

胸の奥の小さな箱の中身が膨らんでいく気がした。


箱は閉じたままなのに、

中に詰め込んだ感情だけが

勝手に膨張していく。


どこにも行き場がないまま、

奥のほうで圧迫感だけが強くなる。


ただ見てしまっただけ。

声をかけられたわけでもない。

何か言われたわけでも、

何かされたわけでもない。


それなのに、

こんなにも胸が痛い。


「……何やってんだろ」


小さくつぶやいて、

歩幅を少しだけ早めた。


空は、

すっかり橙色になっていた。


私はそのまま、

家の方角だけを見て歩き続けた。


彼のことも、

元カノのことも、

できるだけ頭の外へ追いやりながら。


追いやりきれないことも、

ちゃんと分かっていたくせに。


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