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心と人生  作者:
第一章
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第一章 / 第4話

その道は、

普段はほとんど通らない裏道だった。


住宅街のあいだを縫うように伸びた細い道で、

昼間でも少し薄暗い。

まして、夕方を過ぎた今は、

街灯の光がところどころに滲んでいるだけだった。


帰り道、

彼のバイクを降りたあと、

家の前まで送ろうとしてくれた彼と、

私はその道を歩いていた。


「こっちのほうが近道やで」


そう言いながら、

彼は当たり前みたいに前を歩く。


私は少しうしろを歩きながら、

彼の背中を見つめていた。


コンビニの袋を片手にぶら下げている。

中身は、

何となく寄り道したときに買った、

どうでもいいお菓子と飲み物だ。


どうでもいいはずなのに、

それを一緒に買った時間が

変に愛おしかった。


道の両端には、

古い塀や小さな植木鉢が並んでいる。

遠くで、車の走る音だけが聞こえていた。


ふいに、

彼が立ち止まった。


振り返ったその顔は、

街灯の光と影の境目にあって、

表情まではよく見えなかった。


「どうしたん?」


自分で口に出して、

すぐに心臓が跳ねた。


——ほんとは私が

止まりたかったのかもしれない。


胸の奥に引っかかっていた言葉が、

喉のところまでせり上がってきていた。


でも、その言葉を

口に出してしまったら、

何かが変わる気がした。


変わった先に何があるのか、

想像するのが怖かった。


「……あのさ」


声が少し震えた。


「ん?」


彼は何も知らない顔で

首を傾げる。


「抱きしめていい?」


自分の声とは思えなかった。

あまりにも小さくて、

心細くて、

でもそれでもちゃんと届いてしまった。


彼は一瞬だけ沈黙した。


暗がりの中で、

彼の目がゆっくりと瞬く。


「いいで」


あまりにもあっさりとした返事だった。


その軽さが、

逆に苦しくなった。


——私だけ、

こんなに必死なのに。


それでも、

後戻りはできないところまで来ていた。


私は、

彼との距離を一歩だけ詰めて、

そっと腕を伸ばした。


お願いを口にして、

恐る恐る彼の背中に手を回した。

できるだけ密着しないように、

気をつけながら。


服の感触。

骨格のライン。

細い肩甲骨のあたり。


触れてしまったことで、

距離が数値に変わってしまう気がして、

怖かった。


すると彼が、

ふっと笑った気配がした。


「こんなんで、いいの?」


次の瞬間、

私の身体はぐっと引き寄せられた。


彼の腕が、

想像以上に強い力で

背中を抱きしめてくる。


背中が逸れるほど、

きつく。


息が一瞬止まり、

そのあとで、

胸の奥の何かがふわっと広がった。


彼の彼女ではない。

それなのに、

力強く抱きしめられている。


密着するほどの距離――

その事実が、

ただただ嬉しかった。


嬉しい、なんて言葉じゃ足りないくらい、

頭の中が真っ白になった。


胸の奥から、

何かあたたかいものが

じわじわと広がっていく。


「こんなふうにしても、いいんだ」


そう許された気がして、

私もそっと、力を込めた。


彼の背中に回した腕に、

自分の力が少しずつ乗っていく。


彼は、

ただ私のお願いを聞いただけかもしれない。

きっと、

私のことなんて、

そういう意味では好きじゃないのかもしれない。


それでも私は――

その一瞬を、

まるで特別なもののように受け取ってしまった。


勘違いだと、分かっているのに。

それでも、そうせずにはいられなかった。


あの時の、

言葉にできなかった感情や温もり。

抱きしめられた反動でふわりと舞った彼の匂い。

肌に触れた外の空気と、少し湿った風。

遠くから微かに聞こえてきた騒音――。


すべてが、

なぜだか今でも鮮明に、頭の中を流れていく。


しばらくして、

彼が腕の力を少しだけ緩めた。


「満足した?」


冗談めかした声。

それなのに、

心臓の鼓動が余計に早くなる。


「……別に」


素直になれない返事しかできない。


「そっか」


彼はそう言って、

最後にぽん、と

背中を軽く叩いた。


距離が離れる。

途端に、

さっきまでの温度が嘘みたいに感じられた。


暗闇の中で、

彼の顔はよく見えなかった。

だからこそ、

余計に胸が苦しかった。


小さな箱に、この気持ちだけがぎゅっと閉じ込められているみたいだ。

どんどん膨らんでいくのに、どうしても解放できない。

出口のないまま、ただ詰まっていくような――そんな苦しさ。

溢れ出しそうなのに、

それを許してもらえないような――そんな感情が、

ずっと胸の中に置かれたままになっている。


「行こか」


彼が何事もなかったかのように言う。


「……うん」


私は、

さっきまで抱きしめられていた自分の身体が、

自分のものじゃないみたいに感じながら、

彼のあとを歩いた。


細い、暗がりに包まれた道。

あの場所で、彼と抱きしめ合ったことを、

私はきっと、

これからもずっと忘れない。


それが特別だったのは、

たぶん、

私の中だけの話だ。


それでいい、と思った。

そう思うしか、なかった。


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