第一章 / 第2話
その日は、なかなか眠れなかった。
ベッドに横になって、
部屋の天井をぼんやり見つめる。
カーテンの隙間から入ってくる街灯の光が、
天井に薄い線を描いている。
明日は平日で、
早く寝ないといけないのは分かっているのに、
頭の中だけが妙に冴えていた。
スマホを手に取って、
ホーム画面を開いたり閉じたりする。
特に通知も来ていないのに、
指先が勝手に動いてしまう。
——こんな時に限って、誰からも連絡は来ない。
ため息をついて、
ベッドから身体を起こした。
窓を少しだけ開けると、
夜の冷たい空気が流れ込んでくる。
それが心地よくて、
なんとなくベランダに出てみようと思った。
スリッパをつっかけて、
そっとベランダの戸を開ける。
外は静かだった。
風の音と、
遠くを走る車の音だけが聞こえる。
空を見上げると、
薄い雲の間に、
小さな星がいくつか散っていた。
大した景色じゃないのに、
その夜だけやけにきれいに見えた。
ベランダの手すりに両肘を置いて、
ぼうっと街を眺める。
マンションの窓に灯りが点いていたり、
もう消えて真っ暗になっていたり。
ふと、視線が下に落ちた。
マンションの前の道路。
一本だけ立っている街灯の下に、
黒い影があった。
最初は誰だか分からなかった。
でも、目が慣れてくると、
その人影の輪郭が見えてくる。
ヘルメットを片手に持って、
バイクの横に立つ人。
制服のジャケットのシルエット。
——彼だった。
胸の奥がきゅっと縮まる。
彼は顔を上げて、
ベランダのほうを見た。
暗くて表情までは見えないのに、
こっちを探しているのは分かる。
それから、
片手をゆっくりと上げて、
ひらりと振った。
その瞬間、
私のスマホが震えた。
びくっと肩が跳ねる。
画面を見ると、
表示されている名前に心臓が跳ねた。
日向 陽真
——なんで。
そんなことを思いながらも、
すぐに通話ボタンを押していた。
「……もしもし」
『降りてこれるか?』
受話口から聞こえてきた声は、
さっきベランダから見た影と同じくらい、
馴染みのある音だった。
「え?」
思わず聞き返してしまう。
『眠れへんのちゃうかな思って』
その理由が、
当たり前みたいに言われる。
眠れないことなんて、
誰にも言っていないのに。
「……なんで分かるん」
思わずそう聞くと、
彼は少し笑って、
『知らん。何となく』
とだけ答えた。
なんとなくで、
こんな夜にわざわざ来るのだろうか。
そう思いながらも、
胸の奥がふわっと軽くなっていく。
「……今、下?」
『うん』
そう言われるまでもなく分かっていた。
さっき見た影が、
証拠のように目の裏に焼き付いている。
少し迷うふりをしたあと、
私は小さく息を吸って言った。
「……行く」
『気ぃつけて降りてこいよ』
電話が切れた。
スマホを握りしめたまま、
部屋に戻って上着をつかむ。
心臓が無駄に忙しい。
玄関の鍵を静かに開け、
ゆっくりと外に出る。
階段を降りていく途中、
自分の足音が大きく聞こえた。
変に緊張している自分がおかしくて、
でも、それを笑う余裕はなかった。
マンションのエントランスを抜け、
外に出る。
街灯の光が、
少し滲んで見えた。
その下に、彼がいた。
ジャケットのポケットに手を突っ込んで、
バイクにもたれかかるように立っている。
私に気づくと、
いつものように、少しだけ顎を上げて言った。
「おつかれ」
「……なんで来たん」
本当は「来てくれて嬉しい」と言いたかった。
でも、口から出たのは、その逆の言葉だった。
「暇やったから」
彼は平然と嘘をつく。
そんなことないくせに。
片道どれだけかかるか知ってるくせに。
「暇でも、わざわざ来る距離ちゃうやろ」
そう返すと、
彼は少し笑って、
「そうかもしれんけど」
と、曖昧に濁した。
それ以上、深追いしてはいけない気がした。
そこから先は、
何かが変わってしまう境界線みたいだった。
「眠れへんの?」
彼が聞く。
「……ん。なんか」
上手く説明できなくて、
言葉がそこで途切れる。
しんどいとか、
不安とか、
理由のない焦りとか。
全部まとめて「なんか」でごまかした。
彼は、
それ以上理由を聞いてこなかった。
代わりに、
バイクのシートを軽く叩いて言った。
「乗る?」
「……今?」
「今」
あまりにもあっさりと言われて、
思わず笑ってしまった。
「意味分からん」
「ええやん、意味とか。乗るか乗らんかだけや」
そのたった一言が、
胸の奥にすとんと落ちてきた。
私は小さく頷いて、
バイクの後ろにまたがる。
ヘルメットを被る間、
心臓の音ばかりが耳に響いていた。
背中にそっと触れると、
彼が一瞬だけ身体を強張らせてから、
すぐにエンジンをかけた。
道路に出ると、
夜風が頬を切っていく。
遠くのコンビニの看板が光っている。
信号の色が、
オレンジから赤、赤から青へと変わっていく。
何も話さない時間が続いた。
でも、不思議と怖くなかった。
「寒ない?」
信号待ちのとき、
彼がふと聞く。
「大丈夫」
実際は少し寒かった。
でも、背中に触れた温度が
寒さと交換されていくような気がした。
「眠れへんときはさ」
青になって走り出しながら、
彼がぽつりと言う。
「こうやって一周したら、
だいたいどうでもよくなる」
「そんなもんなん?」
「そんなもんや」
根拠のない言葉なのに、
なぜか信じたくなった。
ゆっくりと元の場所へ戻っていく。
マンションの前に着くと、
彼はエンジンを切り、
ヘルメットを外しながら言った。
「ちょっとは眠れそう?」
私は少し考えてから、
正直に答えた。
「……さっきよりは」
「そか」
彼は満足そうに笑った。
「眠れへんときは、また呼べよ」
その一言が、
やけにまっすぐ胸に刺さった。
意味のない優しさなのかもしれない。
ただの親切なのかもしれない。
でも、
その夜の私にとっては、
唯一の救いだった。
「……ありがと」
やっと言えたその言葉は、
夜風に紛れて、すぐに消えた。
彼は
「おう」
とだけ返して、
バイクに跨り、
振り返らずに走り去った。
私は、
しばらくその背中が消えた方向を見つめていた。
名前は呼ばない。
呼ばれない。
けれど、
その夜の電話とバイクの音は、
今でも胸のどこかに残っている。
ただ、それだけの話だ。




