第一章 / 第1話
帰りのチャイムが鳴ったあと、
教室はゆっくり空になっていった。
窓から射し込む光は、
夕方の色に変わりつつあって、
机の影を細長く伸ばしていた。
プリントを眺めるふりをして、
私はその影の形が変わっていくのを見ていた。
— 本当は、何も頭に入っていなかった。
提出期限は明日だというのに、
文字がただの黒い線にしか見えない。
心が、どこか別の場所で立ち止まっているみたいだった。
⸻
「まだ帰らんの?」
声が背後から落ちた。
思考がほどける。
振り返らなくても、
誰の声かはわかった。
ゆっくり顔を上げると、
彼が立っていた。
片手にヘルメットを握り、
制服の袖をだらしなく折り返し、
軽い息遣いで笑っていた。
「帰るん?」
私の返答を待ちながら、
いつも通り机の上に荷物を置く。
「……課題」
やっとそう言うと、
彼は肩を落としながら笑った。
「真面目やな」
その言い方が
少しだけ悔しくて、
でも少しだけ嬉しかった。
彼は迷いなく窓際の席に座る。
そのとき、
勝手に空気が変わった気がした。
本当に、何も変わっていないのに。
⸻
「帰り、送ったるで」
言葉は軽い。
いつも通り。
でも、そのたった一文が
胸をひどく乱す。
「いい。歩いて帰る」
私はそっけなく言う。
心が勝手に拒むように。
期待したらだめだと
自分に言い聞かせるための癖みたいだった。
「あーまたそれ」
彼は苦笑する。
怒るでもなく、
諦めるでもなく、
ただいつもの調子。
その態度が
優しいんだって気づくのは、
だいぶあとになってからだった。
⸻
二人で廊下へ出る。
夕陽が床を染めている。
階段を降りる足音だけが響く。
誰も話さないのに、
沈黙がぜんぜん嫌じゃなかった。
昇降口に着くと、
彼は靴を履き替え、
迷いなく駐輪場へ歩き出す。
黒いバイク。
いつもの場所にある。
またがると同時に、
振り返らずに言った。
「掴んどき」
それは
私が断る隙を与えない言い方で、
でも押し付けでもなく、
ただそこに置かれた言葉だった。
制服越しに背中へ触れる。
バイクが動き出す。
風が頬を掠める。
耳元に排気音が響く。
その時間が好きだった。
でも言わない。
言ったら壊れる気がした。
壊れてしまうのは
この距離の心地よさか
それとも私自身か
答えはどこにもなかった。
⸻
家の角に差しかかった信号で止まったとき、
夕焼けが街灯の上を染めていた。
「明日のプリント、寝る前に半分やり」
名前でも何でもない言葉。
でも私の胸には
名前より重たく響いた。
「うん」
小さく返す。
それしか言えなかった。
それしか許されていない気がした。
⸻
「また明日な」
家の前で降ろされ、
ヘルメット越しの声が届く。
軽く手を上げて、
彼はバイクを走らせていく。
私は玄関の前でしばらく立ち尽くしていた。
名前を呼ばれなかったことが
不思議じゃなかった。
むしろ
その曖昧さに守られている気がした。
誰かに名前を呼ばれる距離までいったら、
なにかが壊れてしまいそうで。
ただ静かに息をついた。
こういう日々が
ただ続いていくものだと
信じていた。
そのときの私は
まだ何も知らなかった。
胸がざわつく理由も、
言葉が喉にひっかかる理由も、
“いいよ”という拒絶が
期待の裏返しだったことも。
全部知らないふりをしていた。
それが、
一番楽だった。




