第二章 / 第6話
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
チャイムが鳴ってからしばらく経っているのに、
まだ誰かの笑い声が廊下の奥に残っている気がする。
けれど、それもすぐに消えて、
校舎全体が一日の終わりを受け入れるみたいに静まり返っていた。
窓の外はすでに薄暗く、
校庭の向こうに並ぶ街灯が、ひとつずつ灯り始めている。
白い光が順番に増えていくのを、
私は何となく眺めていた。
鞄を肩にかけながら、
無意識に彼の姿を探している自分に気づく。
探しているつもりなんてなかった。
今日は話す気もなかったし、
一緒に帰ろうなんて、
最初から思っていなかったはずなのに。
でも、視線は勝手に動く。
人の隙間を縫うみたいに、
彼がいそうな場所をなぞってしまう。
それがもう、癖みたいになっていた。
昇降口の近くで、彼を見つけた。
友達と数人で話していて、
いつも通りの笑い方をしている。
肩の力が抜けた、
何も背負っていないみたいな表情。
その輪の中に、
私はいない。
その事実を、
わざわざ言葉にしなくても、
胸が先に理解してしまう。
少しだけ、
ほんの少しだけ、胸が痛んだ。
靴を履き替えていると、
彼がこちらに気づいて歩いてきた。
視線が合った瞬間、
胸の奥がきゅっと縮む。
「もう帰るん?」
何気ない声。
いつもと同じトーン。
「うん」
「今日は俺、先帰るわ」
その言葉は、
あまりにも自然に落ちてきた。
説明も、含みも、
特別な間もなかった。
「用事あるからさ」
「そっか」
それだけで会話は終わった。
理由を深く聞くことも、
引き止めることもできなかった。
聞こうと思えば、聞けた。
引き止めようと思えば、できた。
でも、
そうしなかった。
してしまったら、
何かが変わってしまいそうで怖かった。
彼は悪くない。
ただ、今日はそういう日だっただけ。
彼の中では、
それ以上でも以下でもない。
そう頭ではわかっているのに、
心は勝手に別の意味を探そうとする。
「先帰る」
その言葉の裏側に、
見えない何かを置いてしまう。
「じゃあ、気ぃつけてな」
「うん。そっちも」
彼は軽く手を上げて、
友達の方へ戻っていった。
何事もなかったみたいに。
その背中を見送りながら、
私はほんの一瞬だけ立ち尽くした。
足が、
次にどこへ向かえばいいのかわからなくなったみたいに。
今日は、
一人で帰る。
たったそれだけのことなのに、
胸の奥がすうっと冷えていくのがわかった。
校門を出ると、
夜の空気が一気に押し寄せてきた。
昼間よりもずっと冷たくて、
頬に当たる風が痛い。
いつもなら、
彼の背中を見ながら歩く道。
バイクの音を聞きながら進む道。
信号で止まるたびに、
他愛ない会話を交わす道。
今日は、
私の足音だけが響いている。
歩くリズムが合わない。
早くも遅くも感じる。
この道が、
こんなに長かったことを、
今まで知らなかった。
信号待ちで立ち止まり、
ふとポケットのスマホに触れた。
画面を確認する前から、
何も来ていないことがわかっている。
彼からも、
誰からも。
それが正しいはずなのに、
なぜか胸がざわついた。
「先帰る」
その言葉が、
何度も頭の中で繰り返される。
先に帰る場所。
先に向かう人。
先にいる誰か。
考えなくていいことばかりを、
考えてしまう自分が嫌だった。
嫌なのに、
止められなかった。
家に着く頃には、
体の芯まで冷えていた。
指先が少し痺れている。
玄関の鍵を開けて、
誰もいない家に入る。
「ただいま」
返事はない。
当たり前なのに、
その当たり前がやけに重い。
部屋の電気をつけて、
鞄を置いて、
そのままベッドに腰を下ろした。
制服のままでも構わなかった。
今日は、
何かをする気になれなかった。
テレビもつけず、
音楽も流さず、
ただ静かな部屋に身を置く。
静かすぎて、
自分の呼吸の音が気になる。
シャワーを浴びて、
髪を乾かす。
鏡に映る自分は、
少し疲れて見えた。
目の下の影。
肩の力の抜けた姿勢。
無意識に下がった口角。
「大丈夫」
また、
同じ言葉を呟いていた。
誰にも届かない言葉を、
何度も、何度も。
布団に入る。
電気を消す。
暗闇が一気に広がる。
安心するはずなのに、
胸の奥が落ち着かない。
スマホを手に取って、
また置く。
見るつもりはなかった。
今日は見ないと、
帰り道で何度も自分に言い聞かせた。
それなのに、
暗闇の中で目を閉じた瞬間、
どうしても、
気になってしまった。
彼は、
もう帰っただろうか。
それとも、
まだどこかにいるだろうか。
答えなんて、
知らなくていい。
知ったところで、
何も変わらない。
そう思いながら、
手は勝手に動いていた。
スマホの画面が、
暗闇の中で白く光る。
その光が、
やけに冷たく感じる。
SNSを開く。
ストーリーの表示。
一番上に、
元カノのアイコンがあった。
一瞬、
指が止まった。
見たら、
またしんどくなる。
それは、
もう何度も経験している。
でも、
見ないままでいられるほど、
私は強くなかった。
画面をタップする。
夜の街灯の下。
二人並んだ影。
はっきりとは写っていないのに、
誰と誰かは、すぐにわかった。
元カノと、
彼。
近すぎる距離。
笑っている顔。
画面越しなのに、
胸がぎゅっと縮む。
次のストーリー。
コンビニの前。
彼の横顔。
元カノのピース。
「今日も一緒」
短い文字。
頭の中が、
一気に静かになった。
さっきまであった音も、
思考も、
全部、遠くへ行ってしまったみたいだった。
――先帰るって、
そういうことやったんや。
勝手に納得して、
勝手に傷つく。
わかっているのに、
そう思わずにはいられなかった。
布団の中で、
スマホを胸に抱えたまま、
天井を見つめる。
彼と一緒に帰らなかった夜。
一人で歩いた道。
静かな部屋。
全部が、
この一枚の写真に繋がってしまった気がした。
私は、
何だったんだろう。
ただの友達。
ただの知り合い。
都合のいい存在。
そんな言葉が、
次々に浮かんでは消える。
どれもしっくりこなくて、
でも否定もできない。
考えたくないのに、
考えが止まらない。
布団を深く被って、
目を閉じる。
そのとき、
胸の奥で張りつめていたものが、
ふっと緩んだ。
まぶたの奥が熱くなって、
一筋の涙が、
静かにこぼれ落ちた。
声は出なかった。
嗚咽もなかった。
ただ、
涙だけが、
頬を伝って枕に染みていく。
止めようとも思わなかった。
誰にも見られない夜だから、
少しだけ、
正直になってもいい気がした。
彼の名前を、
心の中で呼びそうになって、
やめた。
呼んだところで、
何も変わらない。
そうわかっているからこそ、
胸が苦しかった。
私はそのまま、
涙が乾くのを待つみたいに、
目を閉じた。
眠りに落ちる直前、
最後に浮かんだのは、
彼の横顔だった。
先に帰ったはずの彼。
私の知らない場所にいる彼。
夜は、
静かに深くなっていく。
私だけを、
置き去りにしたまま。




