第2章/5話
翌朝、目が覚めた瞬間、胸の奥に重たい石が沈んでいるのがわかった。
夢を見たわけじゃない。
眠れなかったわけでもない。
ただ、眠ったはずなのに、心だけが休めていない。
枕元のスマホは裏返したまま置いてあった。
昨夜、元カノのストーリーを見たあと、
画面を伏せたまま布団に潜って、
そのまま何も見ないふりをした。
見なかったことにできるなら、そうしたかった。
でも、見たものは消えない。
海。
窓の外に広がっていた青。
潮の匂い。
定食屋の窓から見えた光。
彼が「また行こう」と言った声。
それが全部、夜に沈んだ。
迎えに来てくれた。
送ってもらった。
また明日もがんばろ。
元カノの言葉は、軽い絵文字ひとつで飾られていたのに、
私の胸には重く刺さったままだった。
布団から出て、洗面台で顔を洗う。
冷たい水が頬を打って、少しだけ目が覚める。
鏡に映った自分は、思っていたより普通の顔をしていた。
普通の顔。
普通の生活。
普通の月曜日が、また来る。
その“普通”が、いちばん残酷だった。
学校へ行く準備をしながら、
私は何度もスマホに手を伸ばしそうになって、
そのたびにやめた。
見てしまったら、
また心が揺れる。
揺れて、崩れて、
立てなくなる気がした。
本当は、何も知りたくなかった。
知りたいくせに。
知らなければ、期待してしまうから。
知ってしまえば、傷つくから。
どちらにしても苦しい。
家を出ると、空は薄い灰色だった。
昨日みたいな青空はない。
風も、昨日より冷たかった。
駅までの道を歩く間、
私はずっと、昨日の海を思い出していた。
“昨日の海”がもう遠い。
時間がたったわけじゃないのに、
遠い。
それが、怖かった。
教室に入ると、
いつものざわめきがあった。
誰かが宿題の答えを写していて、
誰かが眠そうに机に突っ伏していて、
誰かが昨日のテレビの話をしている。
私はその輪に入って笑った。
笑うのは得意だった。
しんどいときほど、笑える。
自分の席に鞄を置いた瞬間、
背中に軽い衝撃があった。
「おはよ」
彼の声。
振り向くと、彼が立っていた。
眠そうでもなく、疲れている様子もなく、
いつも通りの顔をしている。
胸がきゅっと縮む。
「おはよ」
声が震えないように、
できるだけ普段通りに返した。
「昨日、寒かったな。風ヤバかった」
彼は何気なく言う。
その“昨日”が、
私と海へ行った昨日のことなのか、
元カノを迎えに行った昨日のことなのか、
私にはもう区別がつかなくなっていた。
「……寒かった」
私がそう答えると、彼は私の前髪を軽くつまんだ。
「お前、髪ボサいで。寝癖」
そう言って笑う。
その指先が近い。
近いだけで、心臓が跳ねる。
でも、跳ねたくない。
昨日の夜、私は崩れたのに、
彼は何も知らない顔で、
同じ距離で触れてくる。
「ちょ、やめて」
私は笑いながら手を払った。
笑ってしまう自分が、
いちばん嫌だった。
授業が始まっても、
黒板の文字が頭に入ってこなかった。
彼の後ろ姿が視界に入るたび、
昨夜のストーリーの文字が重なる。
迎えに来てくれた。
送ってもらった。
目の前の授業と、
頭の中の映像が、
ずっとズレたまま進んでいく。
休み時間、廊下が騒がしくなる。
他クラスの子が行き来して、
笑い声が重なって、
教室が狭くなる。
その中で、彼が席を立った。
「ちょっと行ってくるわ」
「どこ」
聞くつもりじゃなかったのに、
声が出てしまった。
彼は振り返って、
「んー、ちょい用事」
そう言って、軽く手を上げて出ていった。
“ちょい用事”
その言い方が、昨日の夜と同じに聞こえた。
昨日も彼は、
私にそういうふうに、
軽い言葉だけを残して去っていった。
その後の時間を、
私は知らない。
廊下の向こうから、誰かの笑い声が聞こえた。
女の子の声。
元カノの声かもしれない、と思った瞬間、
胸が反射的に痛んだ。
見に行きたくない。
でも、見てしまいたい。
私は机の端を指で強く押さえた。
爪の白さが戻るまで、押さえた。
数分後、彼は戻ってきた。
何事もなかったように。
その“何事もなかったように”が、
私を一番追い詰めた。
昼休み。
私は教室の隅でお弁当を食べていた。
友達の会話は耳に入ってくるのに、
内容は頭に残らない。
彼が近づいてきて、
私の机の端に肘をついた。
「なあ、今日放課後、図書室行くん?」
「行く」
「俺も行こかな」
軽く言うその言葉に、
胸が跳ねる。
嬉しい。
でも、怖い。
「好き」って言えないくせに、
「来て」って言えないくせに、
私は心の中でだけ何度も思う。
一緒にいたい。
でも、一緒にいたら壊れる。
「お前さ」
彼が突然、小声になった。
「昨日、なんか変やった」
息が止まる。
「変って?」
声が平らになるように気をつけた。
気づかれたくない。
でも、気づいてほしい。
その矛盾が喉の奥で絡まる。
「なんか……海おっても、たまにぼーっとしてたやん」
昨日の私を、彼は見ていた。
しんどさを、うっすら感じていた。
でも彼は、
その理由に辿り着けない。
私は笑って誤魔化した。
「海、眩しかっただけ」
彼は「そっか」と言って、
納得したように頷く。
その瞬間、
胸が痛くなった。
そんな嘘で納得してしまう関係。
そんな嘘で、今日も続いていく関係。
私はそれを望んでいる。
本当は。
授業が終わり、放課後。
昇降口へ向かう廊下で、
私はふと足を止めた。
向こう側。
別のクラスの前。
元カノが友達と立っていた。
元カノは私に気づいて、
ほんの一瞬だけ目を向けた。
目が合った。
そして、
彼女は何も言わずに笑った。
その笑いが、
昨夜のストーリーの絵文字と同じに見えた。
何も言っていないのに、
言われた気がした。
“昨日の夜も、今日の今も、私は知ってるよ” と。
私は目を逸らして、
足を速めた。
彼が後ろから追いついてくる。
「おい、早いって」
「塾遅れる」
「まだ時間ある」
彼はいつも通りの調子で笑う。
私はそれに合わせて笑う。
泣きたくなるくらい、
その笑い方が自然だった。
駅へ向かう道。
夕方の空は低くて、
雲が重たく垂れていた。
「なあ」
彼が言う。
「今日も送ったろか」
昨日も送ってくれた。
海へ行って、家へ送ってくれた。
そのあと、元カノのところへ行った。
私はその事実を知っている。
でも彼は、私が知っていることを知らない。
「……うん」
返事が遅れたのを、彼は気にしなかった。
バイクの後ろに乗る。
ヘルメットの中は少し息苦しい。
彼の背中は近い。
昨日は、この背中が嬉しかった。
今日は、この背中が怖い。
信号で停まるたび、
私は言いたい言葉を飲み込む。
昨日の夜、どこ行ったん。
なんで迎えに行ったん。
なんで送ったん。
私は何やったん。
でも、それを言った瞬間、
この関係は終わる気がした。
彼は悪くない。
悪いのは、勝手に期待して勝手に傷つく私。
そう思い込むしかなかった。
家の前に着いて、
彼はいつも通り言う。
「ちゃんと寝ろよ」
「うん」
「あんま無理すんな。眠いなら帰れ」
「うん」
全部、優しい。
全部、当たり前みたいに優しい。
その優しさが、
私を生かして、
私を殺す。
彼が走り去ったあと、
私はまたスマホを開いてしまった。
見ないと決めたのに。
決めたのに。
元カノのストーリーが上がっていた。
コンビニの前。
夜の光。
彼のバイクの影。
短い文字。
『今日もありがと』
呼吸が浅くなる。
私は画面を閉じた。
もう見たくない。
もう知りたくない。
なのに、
胸の奥が言う。
見たい。
知りたい。
彼の全部を。
好きって、
こんなに汚いんだろうか。
布団に倒れ込む。
天井が白い。
何も答えてくれない。
私は思った。
昨日、海がきれいだった。
だからこそ、
今日が暗い。
昨日、彼が優しかった。
だからこそ、
今日が痛い。
このまま、
私はどこまで耐えられるんだろう。
好きでいるだけで、
こんなに自分が削れていくのに。
それでも私は、
彼の名前を心の中で呼んでしまう。
明日もきっと、
私は笑う。
何も知らないふりをして。
気づかないふりをして。
壊れないふりをして。
そうやって、
少しずつ壊れていく。




