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心と人生  作者:
第二章
14/14

第2章/5話

翌朝、目が覚めた瞬間、胸の奥に重たい石が沈んでいるのがわかった。

夢を見たわけじゃない。

眠れなかったわけでもない。

ただ、眠ったはずなのに、心だけが休めていない。


枕元のスマホは裏返したまま置いてあった。

昨夜、元カノのストーリーを見たあと、

画面を伏せたまま布団に潜って、

そのまま何も見ないふりをした。


見なかったことにできるなら、そうしたかった。

でも、見たものは消えない。


海。

窓の外に広がっていた青。

潮の匂い。

定食屋の窓から見えた光。

彼が「また行こう」と言った声。


それが全部、夜に沈んだ。


迎えに来てくれた。

送ってもらった。

また明日もがんばろ。


元カノの言葉は、軽い絵文字ひとつで飾られていたのに、

私の胸には重く刺さったままだった。


布団から出て、洗面台で顔を洗う。

冷たい水が頬を打って、少しだけ目が覚める。

鏡に映った自分は、思っていたより普通の顔をしていた。


普通の顔。

普通の生活。

普通の月曜日が、また来る。


その“普通”が、いちばん残酷だった。


学校へ行く準備をしながら、

私は何度もスマホに手を伸ばしそうになって、

そのたびにやめた。


見てしまったら、

また心が揺れる。

揺れて、崩れて、

立てなくなる気がした。


本当は、何も知りたくなかった。

知りたいくせに。

知らなければ、期待してしまうから。

知ってしまえば、傷つくから。


どちらにしても苦しい。


家を出ると、空は薄い灰色だった。

昨日みたいな青空はない。

風も、昨日より冷たかった。


駅までの道を歩く間、

私はずっと、昨日の海を思い出していた。


“昨日の海”がもう遠い。

時間がたったわけじゃないのに、

遠い。


それが、怖かった。


教室に入ると、

いつものざわめきがあった。

誰かが宿題の答えを写していて、

誰かが眠そうに机に突っ伏していて、

誰かが昨日のテレビの話をしている。


私はその輪に入って笑った。

笑うのは得意だった。

しんどいときほど、笑える。


自分の席に鞄を置いた瞬間、

背中に軽い衝撃があった。


「おはよ」


彼の声。


振り向くと、彼が立っていた。

眠そうでもなく、疲れている様子もなく、

いつも通りの顔をしている。


胸がきゅっと縮む。


「おはよ」


声が震えないように、

できるだけ普段通りに返した。


「昨日、寒かったな。風ヤバかった」


彼は何気なく言う。


その“昨日”が、

私と海へ行った昨日のことなのか、

元カノを迎えに行った昨日のことなのか、

私にはもう区別がつかなくなっていた。


「……寒かった」


私がそう答えると、彼は私の前髪を軽くつまんだ。


「お前、髪ボサいで。寝癖」


そう言って笑う。


その指先が近い。

近いだけで、心臓が跳ねる。

でも、跳ねたくない。


昨日の夜、私は崩れたのに、

彼は何も知らない顔で、

同じ距離で触れてくる。


「ちょ、やめて」


私は笑いながら手を払った。


笑ってしまう自分が、

いちばん嫌だった。


授業が始まっても、

黒板の文字が頭に入ってこなかった。


彼の後ろ姿が視界に入るたび、

昨夜のストーリーの文字が重なる。


迎えに来てくれた。

送ってもらった。


目の前の授業と、

頭の中の映像が、

ずっとズレたまま進んでいく。


休み時間、廊下が騒がしくなる。

他クラスの子が行き来して、

笑い声が重なって、

教室が狭くなる。


その中で、彼が席を立った。


「ちょっと行ってくるわ」


「どこ」


聞くつもりじゃなかったのに、

声が出てしまった。


彼は振り返って、


「んー、ちょい用事」


そう言って、軽く手を上げて出ていった。


“ちょい用事”

その言い方が、昨日の夜と同じに聞こえた。


昨日も彼は、

私にそういうふうに、

軽い言葉だけを残して去っていった。


その後の時間を、

私は知らない。


廊下の向こうから、誰かの笑い声が聞こえた。

女の子の声。

元カノの声かもしれない、と思った瞬間、

胸が反射的に痛んだ。


見に行きたくない。

でも、見てしまいたい。


私は机の端を指で強く押さえた。

爪の白さが戻るまで、押さえた。


数分後、彼は戻ってきた。

何事もなかったように。


その“何事もなかったように”が、

私を一番追い詰めた。


昼休み。

私は教室の隅でお弁当を食べていた。

友達の会話は耳に入ってくるのに、

内容は頭に残らない。


彼が近づいてきて、

私の机の端に肘をついた。


「なあ、今日放課後、図書室行くん?」


「行く」


「俺も行こかな」


軽く言うその言葉に、

胸が跳ねる。

嬉しい。

でも、怖い。


「好き」って言えないくせに、

「来て」って言えないくせに、

私は心の中でだけ何度も思う。


一緒にいたい。

でも、一緒にいたら壊れる。


「お前さ」


彼が突然、小声になった。


「昨日、なんか変やった」


息が止まる。


「変って?」


声が平らになるように気をつけた。

気づかれたくない。

でも、気づいてほしい。

その矛盾が喉の奥で絡まる。


「なんか……海おっても、たまにぼーっとしてたやん」


昨日の私を、彼は見ていた。

しんどさを、うっすら感じていた。


でも彼は、

その理由に辿り着けない。


私は笑って誤魔化した。


「海、眩しかっただけ」


彼は「そっか」と言って、

納得したように頷く。


その瞬間、

胸が痛くなった。


そんな嘘で納得してしまう関係。

そんな嘘で、今日も続いていく関係。


私はそれを望んでいる。

本当は。


授業が終わり、放課後。

昇降口へ向かう廊下で、

私はふと足を止めた。


向こう側。

別のクラスの前。

元カノが友達と立っていた。


元カノは私に気づいて、

ほんの一瞬だけ目を向けた。


目が合った。


そして、

彼女は何も言わずに笑った。


その笑いが、

昨夜のストーリーの絵文字と同じに見えた。


何も言っていないのに、

言われた気がした。


“昨日の夜も、今日の今も、私は知ってるよ” と。


私は目を逸らして、

足を速めた。


彼が後ろから追いついてくる。


「おい、早いって」


「塾遅れる」


「まだ時間ある」


彼はいつも通りの調子で笑う。

私はそれに合わせて笑う。


泣きたくなるくらい、

その笑い方が自然だった。


駅へ向かう道。

夕方の空は低くて、

雲が重たく垂れていた。


「なあ」


彼が言う。


「今日も送ったろか」


昨日も送ってくれた。

海へ行って、家へ送ってくれた。

そのあと、元カノのところへ行った。


私はその事実を知っている。

でも彼は、私が知っていることを知らない。


「……うん」


返事が遅れたのを、彼は気にしなかった。


バイクの後ろに乗る。

ヘルメットの中は少し息苦しい。

彼の背中は近い。


昨日は、この背中が嬉しかった。

今日は、この背中が怖い。


信号で停まるたび、

私は言いたい言葉を飲み込む。


昨日の夜、どこ行ったん。

なんで迎えに行ったん。

なんで送ったん。

私は何やったん。


でも、それを言った瞬間、

この関係は終わる気がした。


彼は悪くない。

悪いのは、勝手に期待して勝手に傷つく私。


そう思い込むしかなかった。


家の前に着いて、

彼はいつも通り言う。


「ちゃんと寝ろよ」


「うん」


「あんま無理すんな。眠いなら帰れ」


「うん」


全部、優しい。

全部、当たり前みたいに優しい。


その優しさが、

私を生かして、

私を殺す。


彼が走り去ったあと、

私はまたスマホを開いてしまった。


見ないと決めたのに。

決めたのに。


元カノのストーリーが上がっていた。


コンビニの前。

夜の光。

彼のバイクの影。

短い文字。


『今日もありがと』


呼吸が浅くなる。


私は画面を閉じた。

もう見たくない。

もう知りたくない。


なのに、

胸の奥が言う。


見たい。

知りたい。

彼の全部を。


好きって、

こんなに汚いんだろうか。


布団に倒れ込む。

天井が白い。

何も答えてくれない。


私は思った。


昨日、海がきれいだった。

だからこそ、

今日が暗い。


昨日、彼が優しかった。

だからこそ、

今日が痛い。


このまま、

私はどこまで耐えられるんだろう。


好きでいるだけで、

こんなに自分が削れていくのに。

それでも私は、

彼の名前を心の中で呼んでしまう。


明日もきっと、

私は笑う。


何も知らないふりをして。

気づかないふりをして。

壊れないふりをして。


そうやって、

少しずつ壊れていく。

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