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心と人生  作者:
第二章
13/14

第2章/4話

土曜日の朝、空は驚くほど澄んでいた。

雲がひとつも見えず、冬の入り口にしてはめずらしく暖かい陽射しが落ちていた。


塾に行くつもりで家を出て、駅へ向かう道を歩いていたときだった。


「おい」


背後から名前を呼ばれた瞬間、胸が跳ねた。

振り返ると、ヘルメットを片手にした彼が立っていた。

いつもの制服姿ではなく私服で、それがまた少しだけ新鮮に見えた。


「今日ひまなん?」


「……まあ、ひまやけど」


「ほな、海行こや。天気ええし」


海。

突然すぎる誘いに驚いたのに、断るという選択肢は頭に浮かばなかった。


「……いいよ」


「よっしゃ。乗り」


彼はバイクのシートを軽く叩いた。


エンジンがかかると、バイク全体が低く震えた。

後ろに乗り、彼の背中に手を添えると、それだけで心がざわつく。


風が強くなり始めた坂道を進んでいくと、

街の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。


「寒ない?」


振り返らずに言う声が、風に溶けて聞こえた。


「大丈夫」


「手ぇ回してもええで」


少し笑っているような声。

その言い方が自然で、優しくて、逆に胸が苦しくなる。


私はそっと彼に腕を回した。

密着しないように気をつけながら。

でも、離れすぎると落ちてしまいそうで、

そのあいだの距離を探るように指先に力が入った。


海の近くに来ると、潮の匂いが風に混じり始めた。

地平線に続く青い一面が見えた瞬間、思わず息を呑んだ。


「おー、見えてきたな」


彼の声が弾んでいるように聞こえた。


バイクが停まると、彼はヘルメットを外しながら言った。


「やっぱ、海ええわ」


「うん……きれいやな」


冬の手前だというのに、海はやわらかい光に包まれていた。

波は静かで、寄せては返す音が砂浜に心地よく響く。


私たちはしばらく並んで立ち、

言葉を交わさずに景色を眺めた。


「最近さ、お前、顔つかれてんで」


唐突に言われ、びくりと肩が動いた。


「……そう?」


「そうやで。見てたらわかる」


私は海へ視線を落とした。


本当はしんどかった。

夜になると涙が出そうになる日もあった。

元カノのストーリーが胸をざわつかせ、

彼の笑顔を見るたび、

嬉しいと同時に苦しかった。


でも、それを言うわけにはいかなかった。


「まあ、無理するなよ」


あっさりと言ったその言葉が、

風より冷たく、

陽射しよりあたたかかった。


心の奥に触れられたようで、

返事が喉につかえて出てこなかった。


「腹減ってへん?なんか食うか」


「……うん」


彼は近くの海鮮定食の店を指さした。


店内は古い木の香りがして、

窓からは海が見えた。

観光客が少ない季節だからか、

店は静かだった。


「俺、刺身定食にしよ」


「じゃあ……焼き魚のやつ」


注文が届くまでの時間が、妙に長く感じた。


彼はストローの袋を指で転がしたり、

コップの水を何度も飲んだりしていた。

落ち着かないようにも見えた。


「なあ」


彼がふいに口を開いた。


「最近、あんましゃべってへんかったやん。なんか、あったん?」


心臓が一瞬止まった気がした。


あった。

たくさんあった。

彼と元カノのストーリー、

ふたりの距離、

知りたくなかったことばかり。


でも私は首を横に振った。


「なんもないで。大丈夫」


「……そっか」


本当は大丈夫じゃなかった。

でも、大丈夫だと言うしかなかった。


料理が来ると、彼は箸を持ちながら言った。


「うまそやなこれ。絶対当たりやん」


「ほんまやな」


味の記憶よりも、

彼と並んで食べているという事実ばかりを

脳が拾っていった。


ふたりで食べるご飯なんて、

滅多になかった。


食べ終わると、彼は「海もう一回見て帰ろか」と言った。


波打ち際を歩いていると、

太陽が少し傾き始めていた。


「お前、またどっか行こうや。気晴らしなるし」


その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。


「……うん。行こ」


短く返すことしかできなかった。


気持ちが溢れそうで、

それを悟られたくなくて、

言葉を抑えた。


帰り道、彼は後ろにいる私に


「眠かったら肩つかんといてな、落ちるで」


と笑った。


その笑い声が耳に残り、

風に混じって胸に染み込んだ。


家の前に着くと、彼は手を軽く上げて言った。


「今日は楽しかったわ。また連絡する」


「ありがとう」


バイクの音が遠くなり、

角を曲がって消えるまで見送った。


体のどこかにあたたかいものが残っていた。

昼間の光の欠片みたいに。


シャワーを浴び、

髪を乾かし、

ようやくベッドに倒れ込んだころ。


スマホが光った。


嫌な予感で、心臓が静かに沈んだ。


SNSの通知。

開きたくないのに、

画面をなぞる指が止まらなかった。


元カノのストーリー。


夕暮れのコンビニ前。

バイト終わりの制服姿。

そして――彼のバイクの影。


『迎えに来てくれた☺︎』


心臓がきゅっと縮む。


続くストーリーには、

彼女の家の前と思われる暗い道路が映っていた。


『送ってもらった。また明日もがんばろ☺︎』


音もなく、心の中で何かが崩れていった。


今日。

彼と海を見て、

笑って、

ご飯を食べて、

あの時間が胸に残っているのに。


その同じ日の夜、

彼は元カノを迎えに行き、

家まで送っていた。


私には向けられない優しさを、

彼は誰かに惜しみなく渡す。


その事実が、

胸に海水みたいに沁みて、

息が苦しくなった。


スマホを伏せ、

布団を頭までかぶった。


昼間の海の光景が遠ざかる。


あの青さがきれいだった分、

この夜はひどく暗く感じた。


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