第2章/2話
文化祭が終わって数日。
学校全体が静かになった気がした。
掲示物が半分むしり取られたまま放置されている廊下を歩きながら、
私は今日も塾へ向かった。
受験が近いのに、
どうにも集中できない日が続いていた。
元カノに言われた言葉が、
まだ胸の奥に刺さったままだった。
――あの子のこと、深入りせんほうがいいよ。
忘れたふりをしていた。
でも、
本当は忘れてなんかいない。
「深入りしてへんし」
心の中で否定しながら、
自分でもその言葉が嘘なのはわかっていた。
少し冷えてきた夕方の風に当たりながら塾に着き、
受付でカードを通す。
自習室は思ったより空いていて、
ちらほらと数人が参考書をめくっていた。
窓側の席に座り、
英単語帳を開く。
読み進めるたび、
文字がただの記号みたいに見えてくる。
頭がどこかに行ってしまう。
文化祭の日。
元カノの視線。
彼の笑顔。
ストーリーに上がっていた二人の写真。
何度思い出してしまうんだろう。
ため息を一つ落として、
私は単語帳を閉じた。
――集中しよ。
今日くらいは。
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
「お前、ここおったんや」
真後ろから声が落ちた。
反射的に振り向くと、
彼がそこに立っていた。
驚いたせいで呼吸が止まり、
胸の奥で心臓がひとつ跳ねた。
こんなところで会うなんて想像してなかった。
「え……なんで?」
「なんで、って。塾やから来ただけやし」
あっけらかんと言いながら、
彼は私の席のすぐ後ろに立った。
距離が近い。
椅子を支えていた私の肩すぐ後ろに、
彼の影が落ちている。
その距離のせいで、
ふわりと何かの匂いがした。
柔軟剤とも違う、
香水ほど強くもない。
けれど確かに“彼の匂い”としか言いようがないもの。
これまでだって近くにいたはずなのに、
文化祭のざわめきの中でも、
バイクの後ろに乗っているときでさえも、
私はこんなふうに直接“気づいた”ことがなかった。
胸の奥がぎゅっと熱くなる。
「びっくりしたん?」
彼が小声で笑う。
「……するやろ、普通」
声が少し震えたことに、
きっと彼は気づいていない。
「まあ座れよ。
お前がここおるの見つけたから、つい来ただけや」
その“つい”がどんな意味なのかなんて、
聞けるわけがなかった。
彼は私の向かいの席にストンと座り、
リュックから参考書を取り出した。
「勉強しよ。
お前、絶対サボる顔してるし」
「してへんし」
「顔に書いてる。“逃避中”って」
「書いてへんわ」
そう言いながら、
私は単語帳をもう一度開いた。
だけど、
さっきまでただの記号に見えていた文字が、
今は全然頭に入ってこない。
原因はわかっている。
机に向かっている彼の横顔が視界に入るたび、
さっき感じた匂いの感覚が蘇る。
「集中できひんの?」
不意に声をかけられて、
私はペンを握る手を変に強く握った。
「できるし」
「じゃあページ見せてみ?」
「嫌や」
「やっぱりできてへんやん」
彼は笑う。
その笑いがあまりにも軽くて、
私は余計に苦しくなる。
――どうしてそんな普通でいられるん。
匂いや距離でこんなにドキッとしてるのは、
私だけなんだろうな。
その差が、
残酷なくらいはっきりしていた。
沈黙が落ちる。
講師がプリントを運ぶ音だけが自習室に響く。
彼はしばらく問題を解いていたけど、
やがて私の机の端を指でつついた。
「なあ」
「なに」
「文化祭、楽しかった?」
唐突な質問だった。
「まあ……普通?」
「お前、写真撮ってへんかったよな。載せてへんやろ」
「うん。撮ったけど、まあ……」
言葉が濁る。
載せられなかった理由を
ここで言えるわけがない。
彼はそれ以上聞かず、
少し視線を落として
「ああ」とだけ言った。
その短い返事が、
胸の奥で引っかかった。
何かを察したんだろうか。
何を?
私が見たストーリーのこと?
元カノの言葉?
それとも……私の気持ち?
そんなはずない。
期待するな。
わかってる。
「今日も送ったろか」
彼が軽く言う。
「……うん」
言った途端、
胸の奥がきゅっと痛くなった。
近くにいてほしいのに、
近くに来られるほど苦しくなる。
矛盾の中で息をしているみたいだった。
「じゃあ、あとちょっと頑張れよ。
俺、ちょい外で他のプリントもらってくるわ」
そう言って立ち上がった彼の背中を見送る。
歩き去るときに揺れた空気が、
また彼の匂いを残した。
心臓が跳ねる。
――あかん。
こんなん、余計にしんどくなる。
でも目は彼を追ってしまう。
手は震えるのに、
頭は彼のことばかり考えてしまう。
元カノの言葉は冷たかったけど、
その通りなのかもしれないとも思った。
深入りしたら、
苦しいのは自分だ。
わかってても、
彼の声も笑い方も匂いも、
全部が離れない。
自習室の窓に映る自分の顔が、
思っていたより赤かった。




