プロローグ
ずっと好きだった人を、
いちばん遠い場所に置いたのは、私自身だった。
帰り道の車内、
窓に映る自分の顔は、
誰かの人生を借りたみたいに薄く見えた。
膝の上には式場でもらったカタログ。
白いドレスたちは、
どれも他人の物語の一部に思える。
薬指に触れた金属の感触が
まだ皮膚に残っている。
形を測るだけの仮の指輪なのに、
それだけで決まってしまった未来みたいに感じた。
「緊張してんのかと思ったわ」
運転席の人が笑ってそう言った。
私は曖昧にうなずく。
緊張している、と思う。
でもそれだけじゃない。
喉の奥のほうで、
別の何かがずっと固まっている。
夕暮れが、市街地の建物を切り取っていく。
スーパーの看板、
ドラッグストアの自動ドア、
行き交う人たちの影。
その日常のざらつきが、
なぜだかやけに胸に刺さる。
低いエンジン音。
軽い音色のバイクが、車線をすり抜けていった。
黒いヘルメット。
前傾姿勢。
細い背中。
似ている気がした。
違う人かもしれない。
でも、胸が反応するのは止められなかった。
「どうしたん?」
前を見たまま、彼が問う。
「なんでもないよ」
私は外を見たまま答える。
ほんとうに、なんでもない。
たぶん。
けれど、
バイクの音が胸の奥を叩く瞬間がある。
そのたびに、
いまの景色と昔の景色の境目が曖昧になる。
放課後の空気。
薄暗い教室。
くだらない会話。
笑い声。
指先が触れそうで触れなかった距離。
名前を呼びたいのに、呼ばなかった理由。
――何も起きなかった記憶ほど、よく残るらしい。
その人は私を拒んだわけじゃなかった。
約束をしたわけでも、
裏切ったわけでもない。
ただ普通に優しくしてくれただけ。
距離が近くて、
そのくせ何も期待させない、
曖昧な優しさ。
私は勝手に期待し、
勝手に傷つき、
勝手に逃げた。
その逃げ方が、
今につながっている気もするけれど、
まだうまく言語化はできない。
「そろそろ親にも挨拶せなあかんな」
彼の声が、
ゆるんだ記憶の糸を戻す。
「ああ、そうやな」
ちゃんと返すと、
彼が安心したみたいに息をついた。
この人は、
私の過去を聞いても顔色を変えない人だ。
どうしてそうなったのかは、
私たち以外には分からないだろう。
たぶん、
私はこの人と結婚する。
指輪を受け取り、
式の日取りを決め、
誰かに祝われ、
暮らしを積み重ねていく。
その未来は、
望んでいないわけじゃない。
でも、
どれだけ“これから”を語っても、
消えないものがある。
高校のときのあの人への気持ちは、
恋でも、
片想いでもなく、
ただ“名前をつけるには形が曖昧すぎる感情”として
胸の底に残っている。
バイクの背中越しに見た景色も、
飲み込んだ言葉も、
手放したくなかった自分も。
私は、
好きだった自分を
きれいなものとして保存しているのかもしれない。
その一方で、
そのきれいさに自分が追いつけなくなったことも
分かっている。
だから――
その人の名前は呼ばない。
呼んでしまえば、
何かが壊れる気がするから。
信号が青に変わり、
車が前へ進む。
背後を振り返る必要はない。
何も変わらないと分かっているから。
私はただ、
きれいだったものをきれいなまま終わらせたいだけだ。
それが、
私にできる
いちばん小さな贖いだと思う。
そして、
その贖いが、
今の私を生かしている。




