第3章:小さな試練
ある日の昼下がり、里美が用意したお弁当を勧めても山田さんは首を振り続けた。スプーンを手に取りながらも、口元に近づけるとそっと背を向けてしまう。普段は穏やかな声の山田さんが、どこか孤独と戸惑いを纏っているのを里美は感じた。彼の拒否反応に里美は焦りを覚えつつも、むしろその気持ちに寄り添うことを選んだ。
スプーンをしまい、テーブル越しに手を差し出すと、山田さんは最初戸惑ったが、やがてその手を優しく握り返してきた。二人は言葉を交わさず、ただしばらくの間手を握り合ったまま時を過ごす。やがて里美は「お腹が空いたら教えてくださいね」と穏やかに囁いた。沈黙の中に響いたその一言に、山田さんの瞳が少しだけ潤んだように見えた。
午後は気分転換として、室内を一周する散歩に出かけることにした。杖と車椅子を併用しながらゆっくりと進む二人の周囲には、小さな観葉植物やぬくもりのある暖色の壁が続いている。途中で窓の外に目を向けると、庭の花壇には紫陽花が色鮮やかに咲いていた。季節の香りが優しく鼻をくすぐり、山田さんの表情にもかすかな笑みが戻ってきた。
帰室後、里美は台所でおやつを手作りしながら心を落ち着かせた。手先を動かしながら考えたのは、どうすれば次はもっと心地よく食事を進められるかということばかりだった。思考と手仕事が同時に進む時間は、里美自身の支えにもなっている。試練を前にしても、創意工夫をして乗り越える日々が続いていった。