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悪党専門の詐欺令嬢、檻を壊して未来を手にする

作者: 風谷 華
掲載日:2025/09/03

セリーナ・アルヴィエールは、退屈していた。


学問も舞踏も楽器も、やればすぐにできてしまう12歳の伯爵家ご令嬢。

難しいはずの数式も、初めて習うはずの旋律も、彼女の頭と指先にかかればたちまち形を成す。

家庭教師は毎度のように「天才的です」「素晴らしい」と称賛を惜しまなかったが、セリーナにとっては褒め言葉も、もはや風の音と変わらなかった。


講義を終えた教師が退出すると、静まり返った書斎に扇子を閉じる音が小さく響いた。

完璧な微笑を浮かべたまま、セリーナは机上の本を指で軽く叩く。

瞳の奥は深い湖のように澄みきり、波ひとつない。


――必要ありませんわ。もう十分ですの。


声に出さずとも、唇がかすかに動いた。

それは誰も聞くことのない、退屈の呟きだった。


その夜。


月光がカーテンの隙間から差し込み、寝室を青白く照らしていた。

広いベッドの傍らに置かれた小机の上に、見慣れぬ封筒が一通。


セリーナは眠る前に本を片づけようとして、それを見つけた。

封蝋はなく、ただ丁寧に折りたたまれているだけ。

従者も家族も気づかぬまま、どうやってここに置かれたのか。


「……まぁ、妙なこと」


そう呟きながら封を切る。


上質な紙に整然とした筆跡が並んでいた。

美しいはずの文字列なのに、温もりはなく、刃のように冷たかった。


『市場の香辛料商人と契約せよ』

『契約文に“数量は商人の責任にて保証する”と入れなさい』

『余計な感情は不要。成功したらすぐに退きなさい』


一字一句が事務的で、情感は微塵もない。

読み終えたセリーナは長い睫毛を伏せ、しばらく紙を見つめていた。


誰だろう。

私を都合よく動かそうとしている?

それとも、ただの悪戯?


扇子の先で封筒を軽く叩きながら、彼女は考える。

本来なら無視すべきだ。貴族令嬢を操ろうなどと愚かな真似。

だが――。


セリーナは唇をわずかに歪め、微笑に似た形を作った。


この退屈が、ほんの少しでも紛れるなら。

危うい遊びも――悪くない。


「……退屈は、壊せそうですわね」


静かな寝室に落ちた小さな声は、月光とともに溶けて消えていった。


⭐︎


翌日。


伯爵令嬢セリーナ・アルヴィエールは、護衛と侍女のリサを伴い市場へ姿を現した。

豪奢な馬車から降り立つと、ざわめきが広がる。

庶民の娘たちは小声で囁き、商人たちは目を輝かせて期待に胸をふくらませた。


「伯爵家のお嬢様が直々に……! これは大口の商談になるぞ」


セリーナは扇子を軽く揺らしながら、物珍しげな視線をすべて受け流す。

退屈を壊す遊びのため――ただそれだけのために、足を運んでいた。


香辛料の露店の前に立ち止まる。

小太りの商人が血色の良い顔を輝かせ、すぐさま恭しく頭を下げた。


「おお! アルヴィエール家のお嬢様!

こちらは王家御用達の香辛料でございます。滅多に手に入らぬ希少品でして……!」


セリーナは静かに視線を落とす。

王家御用達を名乗るなら、正規の証明書があるはず。

だが、商人の背後にそれらしい印は見えない。


――昨夜の手紙に記されていた人物。やはり。


「契約をお願いしますわ」

澄ました声でそう告げ、契約書を差し出す。


商人は内心ほくそ笑んだ。

令嬢といえど、買うのはせいぜい五つか十個。

見栄を張っても二十が限界だろう。

それなら在庫の混ぜ物を巧妙に混ぜ込めば、十分な儲けになる。


「ありがたき幸せ!」

彼は太い指で署名をした。


その契約書には――一文が加えられている。


――『数量は商人の責任にて保証する』


契約魔法は絶対だ。

署名をした瞬間、その文言に縛られる。


セリーナは扇子をぱたりと閉じ、柔らかな微笑を浮かべた。

そして、澄んだ声で告げる。


「千個、お願いしますわ」


セリーナの涼しい声に、商人は蒼白になった。

「せ、千……!? な、なぜそんな数を……!」


「契約にございますもの」

セリーナは扇子を軽く揺らしながら微笑む。

「数量は、商人の責任にて保証すると」


倉庫では従業員が右往左往し、袋を引きずり出しては数を数える。

「足りません! 五十もございません!」

「在庫が全然足りないぞ!」


その混乱をよそに、セリーナの侍女リサが冷ややかに倉庫の奥へ歩み寄る。

目ざとく帳簿を見つけ、無言で開いた。


そこに記されていたのは、混ぜ物の仕入れ記録。

さらに、“王家御用達”と銘打った虚偽の記載。

そして裏取引の明細までもが克明に残されていた。


「お嬢様」

リサは帳簿をセリーナに差し出し、恭しく頭を下げる。

「王家御用達は虚偽。混ぜ物と密輸が確認されました」


「まぁ」

セリーナは興味深そうに帳簿を一瞥すると、すぐに扇子をぱたりと閉じた。

「退屈しのぎにしては、随分と愉快ですわね」


商人は脂汗を流し、膝を震わせて叫んだ。

「だ、だまされた! 小娘に、まんまと……!」


その声は市場のざわめきに飲まれていく。

庶民たちは驚きと笑いを交えながら、混乱を面白半分に見守っていた。


馬車へ乗り込むとき、セリーナは小さく笑った。

「……ふふ」


退屈が――壊れた。


数日後。


「王家御用達を詐称、混ぜ物香辛料を密輸――悪徳商人、逮捕!」

新聞の大見出しが街を賑わせた。


記事を読むセリーナの指先が、紙面を軽く叩いた。

その仕草だけが、胸の奥で芽生えた快感を示していた。


⭐︎

香辛料商人の一件から数日後。


アルヴェール伯爵家の広間は、朗らかな笑い声で満ちていた。


アルヴェール夫妻とランベール夫妻――二組の夫婦は学園時代からの親友同士。

若き日の思い出話に花を咲かせる姿は、まるで学生時代に戻ったかのように楽しげだった。


「覚えているか? あの試験前の夜に、こっそり菓子を持ち込んだことを」

「ええ。結局先生に見つかって、皆で一緒に叱られたのよね」

「ははは! その後で先生まで一緒に食べてしまったのも、忘れられん」


紅茶を片手に大人たちは笑い合い、温かな空気に包まれていた。

子供たち――セリーナとクロードは、その隣のソファに並んで座っていた。


セリーナは扇子をゆるりと開閉し、完璧な令嬢の微笑を浮かべている。

外から見ればおとなしく母の隣で過ごす可憐な娘。

だが彼女の瞳は、遠い湖面のように澄みきり、波ひとつ立っていなかった。


「……退屈ですわ」

声には出さない。唇の端だけが小さく動いた。


そんな彼女に、隣から軽い声が届く。

「なぁ、セリーナ。抜け出さないか?」


クロードだった。

彼の顔には、いたずらを仕掛ける少年のような光が宿っている。


「まあ、抜け出すだなんて……」

セリーナは眉をわずかに寄せたが、扇子の陰で唇が緩んだ。


「ここで大人の話を聞いているより、よっぽど面白いさ。

庭で遊んでるってことにしておけばいい。護衛も一緒だし、誰も文句は言わないだろ?」


クロードは自然に立ち上がり、手を差し伸べる。

その仕草に、セリーナは少しだけ目を細めた。


「……仕方ありませんわね」


澄ました声でそう答え、扇子を閉じて立ち上がる。

けれど胸の奥には、久しく感じていなかった小さな高鳴りが芽生えていた。


「気をつけて行ってくるのよ」

母の声が背にかかる。

だがその声音には“庭にいる”と信じて疑わぬ安堵が混じっていた。


セリーナとクロードは護衛を従え、屋敷を抜け出した。

母たちはまだ、子供たちが庭で仲良く遊んでいると思っている――。


石畳の通りに出ると、色とりどりの屋台がずらりと並び、香辛料や焼き菓子の匂いが入り混じっていた。

庶民たちの声は活気にあふれ、アルヴェール邸の静けさとはまるで別世界だった。


「どうだ? 退屈しのぎにはなるだろ」

クロードは人混みを見渡し、いたずらっぽく笑った。


セリーナは扇子を揺らし、無表情を装って答える。

「まぁ……騒々しいだけですわ」

そう言いながらも、歩みを止めなかった。


子どもたちが並ぶ屋台の前で、クロードが立ち止まった。

油で揚げられた菓子が山のように積まれている。香ばしい匂いと甘い蜜の香りが鼻をくすぐった。


「これだ。ここの菓子が一番うまいんだ」

クロードは銅貨を渡し、二つ受け取ると一つをセリーナに差し出した。


「庶民の……?」

一瞬だけ眉をひそめる。

けれど、クロードの視線に押され、セリーナはためらいながら小さくかぶりついた。


「……!」

素朴な甘さに、思わず唇の端が上がる。

仮面のような微笑ではない、ごく自然な笑顔。


クロードはその表情に目を奪われ、胸の奥が熱くなる。


――可愛い。


心に浮かんだ言葉を、口には出せない。

ただ、セリーナの隣で黙って歩くだけ。


「どうかしましたの?」

セリーナが首を傾げる。


「い、いや。なんでもない」

クロードは慌てて顔をそらした。


⭐︎

セリーナ・アルヴィエールは十三歳になった。

大人としての社交界に足を踏み入れる年齢。

裾の長いドレスも仮面も、もう「遊び道具」ではなく、令嬢としての責任の象徴だった。


だが彼女にとっては、それすら退屈の延長にすぎない。

――少なくとも、手紙が届くまでは。


その夜、セリーナの枕元には再び封筒が置かれていた。


枕元に置かれた封筒を開くと、整った筆跡が目に入った。


『仮面舞踏会にて、財務官アーベルを欺きなさい』

『方法はあなたが選びなさい』


名前は明確に記されている。

だが、どうすればよいかの指示は何もない。


セリーナは瞳を細め、封筒を閉じた。


「……なるほど。王宮の舞踏会で欺け、という課題ですのね」


翌朝、侍女リサを呼び寄せる。

「アーベルについて調べなさい。噂話でも、裏の情報でもいいわ」


「承知いたしました」

リサはうやうやしく頭を下げ、その夜には裏通りの酒場に姿を消していた。


銀貨の入った小袋をカウンターに置き、低い声で告げる。

「財務官アーベルの帳簿を」


情報屋は歯の欠けた笑みを浮かべ、小冊子を渡す。

「へっ……豪勢な暮らしをしてやがるくせに、俸給じゃ説明つかねぇ。

裏金を受け取ってる噂は山ほどだ。しかも帳簿は王宮の保管庫にある。

お前さんたちじゃ鍵を開けられねぇだろうがな」


リサは無言で冊子を受け取り、そのまま背を向けた。


翌朝。


「お嬢様、調べはつきました。アーベル殿は裏金を受け取っている可能性が高い。

証拠の帳簿は王宮に保管されておりますが、厳重な鍵があり……」


「つまり、私の手には届かないのね」

セリーナは小さく扇子を揺らし、冷ややかに笑った。

「ならば――彼自身に触れさせればいいだけですわ」


⭐︎


王宮の大広間は、光の海だった。

黄金のシャンデリア、絹のドレス、仮面で顔を隠した令嬢と紳士たち。

音楽が流れ、ワルツが繰り広げられる。


セリーナは仮面をつけ、黒と深紅のドレスに身を包んでいた。

仮面の下の微笑は、いつもの完璧な令嬢のものではない。

今夜はただ、退屈を壊すための遊戯の女。


視線の先に、財務官アーベルの姿。

赤ら顔に脂ぎった笑みを浮かべ、若い令嬢を軽口で口説いている。

女好きで軽薄、その一方で政治の裏では強欲を振るう――リサの報告通りだった。


セリーナはワルツの合間に、さりげなく彼の腕に触れた。


「ごきげんよう、閣下」

仮面の奥から、甘やかな声。

「お耳に入れて差し上げたいことがございますの」


アーベルは瞬きし、目の前の仮面の令嬢をまじまじと見つめた。

「ほう……仮面の少女からの秘密のお誘いとは。聞こうじゃないか」


セリーナは一歩近づき、扇子で口元を隠しながら囁いた。


「……まだ処分なさっていないのですのね。

あの帳簿、王宮の保管庫に眠ったままでは危ういですわよ?」


その一言で、アーベルの顔色が真っ青になった。


「な、なぜそれを……!?」

喉を詰まらせる声。


セリーナは優雅に首を傾げ、囁きを続ける。

「ご安心あそばせ。今宵中に処分なされば、まだ間に合いますわ。

……ええ、誰にも気づかれずに、ね」


そして、何事もなかったかのように別の紳士へと歩み去り、仮面の輪に溶け込んだ。



冷や汗をかきながら、アーベルは舞踏会を抜け出した。

息を潜め、王宮の奥へ。

厳重な鍵を力任せにこじ開け、帳簿を引きずり出す。


「これさえなければ……!」

紙束を破ろうとした瞬間――。


「何をしている!」

衛兵の怒声。

数人の兵士が駆け寄り、アーベルを取り押さえる。


舞踏会の只中、王宮の保管庫で帳簿改ざんを図った現行犯。

逃れられる道理はなかった。



『財務官アーベル、王宮で帳簿改ざんを試み現行犯逮捕!』


見出しが街を賑わせる。

セリーナは記事を読み、扇子をぱたりと閉じた。


「……偶然、ですわね」


仮面の奥の微笑は、達成感に満ちた笑みだった。


⭐︎

煌びやかな宮廷の大広間。

黄金のシャンデリアが光を撒き散らし、絹と宝石の波がうねる。

セリーナは深紅のドレスに身を包み、十三歳の令嬢として初めて正式に社交界に足を踏み入れていた。


「まぁ……あれがアルヴィエール家のご令嬢」

「美しいわ……しかも頭脳明晰と噂の」

「わたしたちでは敵わない」


周囲の令嬢たちが囁く声を、セリーナは涼やかに受け流す。

仮面のような笑みを浮かべ、扇子をゆるやかに揺らしながら。


その時――。


大広間の空気が変わった。

王太子アルベルトが現れたのだ。

完璧な笑顔、気品、優雅な所作。

その一歩ごとに、視線とざわめきが彼を追う。


「殿下がこちらに……!」

「セリーナ様に向かわれている……!」


令嬢たちの息を呑む声が背後から響いた。


アルベルトはまっすぐにセリーナの前に立ち、柔らかに微笑んだ。

「アルヴィエール伯爵令嬢。ようやくお会いできましたね」


「光栄に存じます、殿下」

セリーナは礼を取り、完璧な淑女の微笑を浮かべる。


アルベルトは微笑みを崩さず、彼女の手を取った。

「どうか、この一曲を私に」


セリーナは扇子を閉じ、礼を尽くしてその手を受ける。

音楽が流れ、舞踏の輪が広がった。


アルベルトのリードは完璧だった。

所作の一つ一つが絵のように美しく、周囲の令嬢たちは羨望の眼差しを向ける。


けれど――セリーナの胸の奥で、冷たいものがざわついた。

なぜだろう。

笑顔は完璧で、言葉も優しい。どこにも恐れる理由などないはず。

なのに、その瞳と視線が交わった瞬間、背筋を冷たい針で刺されたように震えが走った。


(……怖い? 私が……?)


理由はわからない。

ただ、セリーナの心が告げていた。

――この人は危険。


アルベルトは彼女の一瞬の硬直を見て、薄く微笑んだ。

それは周囲には王子の優雅な笑みにしか見えない。

けれどセリーナには、恐ろしい魔王のように見えていた。


⭐︎

翌日、アルヴィエール邸の広間に、荘厳な空気が張りつめていた。

王宮の紋章を掲げた使者が、恭しく文書を差し出す。


「アルヴィエール伯爵殿、並びにご令嬢セリーナ様。

王太子アルベルト殿下より、正式にご婚約を望まれるとのお達しです」


父は息を呑み、母は口元を押さえて瞳を潤ませた。

「なんという栄誉でしょう……!」

「我が娘が殿下の婚約者に……!」


歓喜と誇りの声が広間を満たす。

使用人たちも目を輝かせ、祝意のさざめきを隠せなかった。


その中心に立つセリーナは、完璧な笑みを浮かべて礼を尽くした。

だが胸の奥では、冷たい絶望が波のように押し寄せていた。


(……王太子の婚約者になれば、私は王宮に住むことになる。

この屋敷も、庭も、森も――クロードと過ごした時間も。

すべて、檻の外に消えてしまう)


微笑は崩さない。

けれど瞳の奥に、ほんの一瞬、影がよぎった。


⭐︎


数日後、ランベール伯爵夫妻が邸を訪れた。

広間には再び朗らかな笑い声が響く。

ランベール伯爵夫妻はセリーナが王太子の婚約者に選ばれたお祝いに来てくれていた。


セリーナは形ばかりの笑みを浮かべていたが、心はどこか遠くにあった。

その横に立つクロードが、不意に彼女へ小声で囁く。


「セリーナ、森に行こう。……昔みたいに」


クロードが小声で囁いた。


セリーナは一瞬だけ息を呑み、扇子の陰で瞳を伏せた。

(……森。あそこはアルヴィエール伯爵邸の庭の一部。けれど王宮に入れば、もう二度と気軽に歩くことはできなくなる。)


心臓の奥に冷たい痛みが走った。

けれど顔には完璧な笑みを貼り付ける。

「……ええ、ご一緒いたしましょう。」


クロードが満足げに頷く。

二人は護衛を遠くに従え、屋敷の裏庭を抜けて森へ向かった。


小川のせせらぎが聞こえる。

鳥が枝から枝へ飛び移る音、遠くで鹿が走る足音。

森は昔から変わらぬまま、静かで温かな懐に二人を迎えていた。


セリーナは深呼吸をした。

(この空気も、もう味わえなくなる……。

檻に入ったら、私は自由を失う。

クロードと笑い合う時間も、すべて)


そう思うと、目の奥に熱いものがこみ上げた。

けれど令嬢の仮面は揺るがない。

扇子を揺らし、優雅な微笑で隠し通す。


小道に差し掛かったときだった。

地面に伸びた太い木の根が、セリーナの足元を絡めとるように突き出していた。


「きゃっ……!」


バランスを崩し、体が前に傾く。

その瞬間、強い腕が彼女を支えた。


「セリーナ!」


クロードが素早く抱きとめていた。

しっかりと腕に収まった体は、震えるほど近く、温かい。

鼻先にかすかに土と風の匂い、そして彼の体温。


見上げると、クロードの瞳が真剣に揺れていた。

「大丈夫か? また足元を見ないで歩いてたろ」


「……また、ですって?」

セリーナは扇子を強く握りしめながらも、わずかに唇を震わせた。


そう――昔もこうだった。

木登りで足を滑らせたときも、森の丘で転げ落ちそうになったときも、必ずクロードが支えてくれた。


けれど今は、胸の奥が違う音を立てていた。


(……私はクロードが好き)


唐突に、はっきりとした言葉になって浮かび上がった。

けれど同時に冷たい影が胸を覆う。


(でもクロードは違う。きっと私を幼馴染としか思っていない。

これは私だけの片想い。

――それでもいい。一緒にいられるだけで、私は)


クロードの瞳がまっすぐに覗き込んでくる。

その距離に耐えられず、セリーナは小さく息を吐き、そっと身を離した。


「……ありがとう、クロード」


彼は少し頬を赤らめ、気まずそうに頭をかいた。

「お前は昔から変わらないな。危なっかしいんだ」


セリーナは扇子を開き、仮面のような微笑を浮かべた。

けれど頬に残る熱は、いつまでも消えなかった。


転びかけた一幕のあと、二人は森の奥へ進み、小さな泉に辿り着いた。

澄んだ水面は鏡のように空を映し、鳥が水面をかすめるたび波紋が広がる。


「変わらないな」

クロードが水面に石を投げ、小さな跳ねを作った。

「ここで魚を捕まえようとして、二人でずぶ濡れになったこと、覚えてるか?」


「ええ。あの時は母にひどく叱られましたわ」

セリーナはくすくす笑った。

けれど胸の奥では、笑みと同時に痛みが広がっていた。


(……殿下の婚約者になれば、王宮に住むことになる。

この泉も、森も、クロードも――全部、私の日常から消えてしまう)


風が頬を撫でる。

けれど頬に残る熱は消えない。


クロードがふと、彼女の髪に手を伸ばした。

さっき転んだときに乱れた一房を、何気なく直す。

「ほら、まだ少し乱れてる」


その仕草に、セリーナの心臓は跳ねた。


セリーナがドキドキして固まっていると、クロードがふいに口を開いた。


「なぁ、セリーナ」

「なにかしら?」


クロードは少し黙り込み、握った手に小石を落とした。

小さな水音が広がる。

彼の横顔は、いつになく真剣だった。


「……王太子との婚約、やめられないのか?」


セリーナの胸が跳ねる。

けれど表情は崩さず、微笑を保った。

「殿下のお望みですもの。断る理由などございませんわ」


クロードは唇を噛み、彼女を真っ直ぐに見た。

「……俺と結婚しないか? 殿下の婚約者なんかじゃなくて。

お前は、自由でいい。俺が……守るから」


――時が止まった。

泉のせせらぎも、鳥の声も、遠くに消えた。


セリーナの胸に、喜びが一気に溢れた。

抱きしめたいほど嬉しかった。

(クロードが……私を? 本当に?)


だが理性が、氷の檻が、すぐにその想いを押し込めた。


「……だめですわ」

静かな声で、彼女は言った。


「あなたに迷惑をかけられません。殿下の婚約を破るなんて……クロードまで巻き込んでしまう」


クロードはなおも食い下がりそうな目をしたが、セリーナは首を横に振った。

「……ごめんなさい」


微笑を浮かべて。

けれどその笑みの裏で、心は歓喜と痛みに引き裂かれていた。


(本当は……こんなに嬉しいのに)


泉の水面は揺れ、セリーナの赤く染まった頬を映していた。


⭐︎

その夜。

セリーナの枕元に、一通の封筒が置かれていた。

幾度となく受け取ってきた、あの無機質な筆跡。

けれど今回は、文の調子がこれまでとは違っていた。


『セリーナ。ここまでよくやりました』

『あなたは状況を変える力を持っていることがわかったでしょう?

 私はあなたに逃げる勇気を持って欲しかったのです。』

『あなたが手紙に従い動いたことで、多くの悪党が失脚しました。

 それは偶然ではなく、あなた自身の才覚によるものです』


『私は未来のあなたです。

 王太子と結婚し、王太子の妃となりました。

 けれどそれは、檻に他なりませんでした。』


『王太子は私に執着し、虐げ、執務に忙殺させました。

 私の優秀さを利用し、そしてさらに屈辱を与えるために子を十人も産ませ、それを当然としました。

 彼は自分より優秀な私を下に置き、酷い待遇を与えることで優越感を得るようになっていたのです。』


『私は王太子の檻の中でただ生き延びました。

 けれど、かつて幼い頃に遊びで作り出した一つの魔法を思い出しました。

 過去の自分へ手紙を送る魔法。

 それで私は、あなたを導いてきたのです。』


『ランベール伯爵令息クロードとあなた自身を信じて。過去の私は私自身を信じられなかった。でも今のあなたは違います。

 彼と共に動きなさい。檻は壊せます』


⭐︎


煌びやかな光が王宮の大広間を満たしていた。

十四歳の誕生日を迎えたセリーナ・アルヴィエールは、

王太子アルベルトの婚約者として壇上に立ち、百の視線と拍手を浴びていた。


「殿下の未来の妃にして、王国の宝――アルヴィエール伯爵令嬢セリーナ!」


喝采と羨望が渦を巻く。

令嬢たちは囁き合い、貴族たちは誇らしげに頷く。

セリーナは完璧な淑女の微笑を浮かべ、優雅に一礼した。


けれど胸の奥では、冷たい鎖の音が響いていた。

(……ここが、檻の始まり)


やがて人々の視線が別の方へ移り、セリーナがひとりになる一瞬が訪れた。

静寂の隙間で、彼女は指先を強く握りしめる。


(“クロードを信じなさい”――あの手紙に書かれていた言葉。

でも、それはどういう意味? 本当に信じていいの?

もし彼に何か悪いことが起きたら?)


迷いの影が心をかすめる。

けれど同時に、未来の自分の言葉の重みも胸に残っていた。


その時――。


「……セリーナ」


低く、けれど確かな声がした。

振り向けば、クロードが立っていた。

真剣な瞳で、ただ彼女ひとりを見つめて。


「一緒に逃げよう」


差し出された手。

力強く、そして迷いのない手だった。


一瞬、呼吸が止まる。

今までなら、セリーナはこの手を取れなかっただろう。

クロードを巻き込みたくない、自分だけが檻に閉じ込められればいいと考えていたはずだ。


だが――今は違う。

未来の手紙が告げていた。

信じられるのはただ一人。クロード。


セリーナは扇子を閉じ、唇に微笑を浮かべた。

「……ええ。ご一緒いたしますわ」


その瞬間、クロードの手が彼女の手を包む。

そして――。


大広間の片隅で、二人の姿がふっと掻き消えた。

舞曲も、ざわめきも、その場に残したまま。

堂々と、誰の目をも欺くように。



――クロードが転移魔法を発動させた。


転移の光が消えたあと、静かな空気が二人を包んでいた。

石造りの小さな家。

暖炉の火がぱちぱちと音を立て、窓の外には穏やかな月明かりが広がっている。


セリーナは深く息を吐いた。

「……本当に、来てしまいましたわね」


クロードは少し照れたように笑い、けれど真剣な目で彼女を見つめた。

「後悔してるか?」


セリーナは首を振り、柔らかな笑みを浮かべる。

「いいえ。……必要ありませんわ。もう十分ですの」


クロードの瞳がわずかに揺れる。

「……セリーナ。お前は俺のこと、好きじゃないかもしれない。

でも、俺は――ずっと好きだった」


胸の奥が熱くなる。

セリーナは静かに一歩近づき、彼の手を取った。

「……私も、ですわ」


言葉はそれだけ。

けれど二人の手はしっかりと結ばれ、もう離れることはなかった。


暖炉の火が揺れ、外には静かな夜が続いていた。

檻の外で、二人だけの物語が始まろうとしていた。


⭐︎


翌朝。

王都に出回った新聞の一面を、大勢の市民が取り囲んでいた。


『王太子の婚約者、舞踏会の最中に姿を消す! 王宮大混乱』


記事には舞踏会での衝撃と、誰も気づかぬうちに消えたという噂が詳しく書かれていた。

「神隠しではないか」

「いや、誘拐に違いない」

「まさか……自ら逃げた?」


憶測が飛び交い、社交界は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。


――だがその頃、隣国の郊外の小さな家では。


暖炉の火が揺れ、二人の影が寄り添っていた。

新聞のざわめきも、王宮の混乱も、ここまでは届かない。


セリーナは窓辺に腰掛け、穏やかな月明かりを見つめながら微笑んだ。

「……世界がどれほど騒いでも、もう関係ありませんわ」


クロードが隣に座り、彼女の手を取る。

「そうだな。ここからは、俺たちの人生を歩もう。」


二人の指が絡み合い、キスをして二人は笑い合った。




終わり

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この物語には、

「未来を自分の好きなように変えていく力が、私たちにはある」

というメッセージを込めました。


檻を壊して逃げたその後のセリーナとクロードですが……

二人とも魔術に長けているので働き口には困らず、

けれど大切にしたのは“のんびり、まったり、一緒に過ごすこと”。

小さな家で寄り添いながら、幸せに暮らしていきます。


少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。


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