悪党専門の詐欺令嬢、檻を壊して未来を手にする
セリーナ・アルヴィエールは、退屈していた。
学問も舞踏も楽器も、やればすぐにできてしまう12歳の伯爵家ご令嬢。
難しいはずの数式も、初めて習うはずの旋律も、彼女の頭と指先にかかればたちまち形を成す。
家庭教師は毎度のように「天才的です」「素晴らしい」と称賛を惜しまなかったが、セリーナにとっては褒め言葉も、もはや風の音と変わらなかった。
講義を終えた教師が退出すると、静まり返った書斎に扇子を閉じる音が小さく響いた。
完璧な微笑を浮かべたまま、セリーナは机上の本を指で軽く叩く。
瞳の奥は深い湖のように澄みきり、波ひとつない。
――必要ありませんわ。もう十分ですの。
声に出さずとも、唇がかすかに動いた。
それは誰も聞くことのない、退屈の呟きだった。
その夜。
月光がカーテンの隙間から差し込み、寝室を青白く照らしていた。
広いベッドの傍らに置かれた小机の上に、見慣れぬ封筒が一通。
セリーナは眠る前に本を片づけようとして、それを見つけた。
封蝋はなく、ただ丁寧に折りたたまれているだけ。
従者も家族も気づかぬまま、どうやってここに置かれたのか。
「……まぁ、妙なこと」
そう呟きながら封を切る。
上質な紙に整然とした筆跡が並んでいた。
美しいはずの文字列なのに、温もりはなく、刃のように冷たかった。
『市場の香辛料商人と契約せよ』
『契約文に“数量は商人の責任にて保証する”と入れなさい』
『余計な感情は不要。成功したらすぐに退きなさい』
一字一句が事務的で、情感は微塵もない。
読み終えたセリーナは長い睫毛を伏せ、しばらく紙を見つめていた。
誰だろう。
私を都合よく動かそうとしている?
それとも、ただの悪戯?
扇子の先で封筒を軽く叩きながら、彼女は考える。
本来なら無視すべきだ。貴族令嬢を操ろうなどと愚かな真似。
だが――。
セリーナは唇をわずかに歪め、微笑に似た形を作った。
この退屈が、ほんの少しでも紛れるなら。
危うい遊びも――悪くない。
「……退屈は、壊せそうですわね」
静かな寝室に落ちた小さな声は、月光とともに溶けて消えていった。
⭐︎
翌日。
伯爵令嬢セリーナ・アルヴィエールは、護衛と侍女のリサを伴い市場へ姿を現した。
豪奢な馬車から降り立つと、ざわめきが広がる。
庶民の娘たちは小声で囁き、商人たちは目を輝かせて期待に胸をふくらませた。
「伯爵家のお嬢様が直々に……! これは大口の商談になるぞ」
セリーナは扇子を軽く揺らしながら、物珍しげな視線をすべて受け流す。
退屈を壊す遊びのため――ただそれだけのために、足を運んでいた。
香辛料の露店の前に立ち止まる。
小太りの商人が血色の良い顔を輝かせ、すぐさま恭しく頭を下げた。
「おお! アルヴィエール家のお嬢様!
こちらは王家御用達の香辛料でございます。滅多に手に入らぬ希少品でして……!」
セリーナは静かに視線を落とす。
王家御用達を名乗るなら、正規の証明書があるはず。
だが、商人の背後にそれらしい印は見えない。
――昨夜の手紙に記されていた人物。やはり。
「契約をお願いしますわ」
澄ました声でそう告げ、契約書を差し出す。
商人は内心ほくそ笑んだ。
令嬢といえど、買うのはせいぜい五つか十個。
見栄を張っても二十が限界だろう。
それなら在庫の混ぜ物を巧妙に混ぜ込めば、十分な儲けになる。
「ありがたき幸せ!」
彼は太い指で署名をした。
その契約書には――一文が加えられている。
――『数量は商人の責任にて保証する』
契約魔法は絶対だ。
署名をした瞬間、その文言に縛られる。
セリーナは扇子をぱたりと閉じ、柔らかな微笑を浮かべた。
そして、澄んだ声で告げる。
「千個、お願いしますわ」
セリーナの涼しい声に、商人は蒼白になった。
「せ、千……!? な、なぜそんな数を……!」
「契約にございますもの」
セリーナは扇子を軽く揺らしながら微笑む。
「数量は、商人の責任にて保証すると」
倉庫では従業員が右往左往し、袋を引きずり出しては数を数える。
「足りません! 五十もございません!」
「在庫が全然足りないぞ!」
その混乱をよそに、セリーナの侍女リサが冷ややかに倉庫の奥へ歩み寄る。
目ざとく帳簿を見つけ、無言で開いた。
そこに記されていたのは、混ぜ物の仕入れ記録。
さらに、“王家御用達”と銘打った虚偽の記載。
そして裏取引の明細までもが克明に残されていた。
「お嬢様」
リサは帳簿をセリーナに差し出し、恭しく頭を下げる。
「王家御用達は虚偽。混ぜ物と密輸が確認されました」
「まぁ」
セリーナは興味深そうに帳簿を一瞥すると、すぐに扇子をぱたりと閉じた。
「退屈しのぎにしては、随分と愉快ですわね」
商人は脂汗を流し、膝を震わせて叫んだ。
「だ、だまされた! 小娘に、まんまと……!」
その声は市場のざわめきに飲まれていく。
庶民たちは驚きと笑いを交えながら、混乱を面白半分に見守っていた。
馬車へ乗り込むとき、セリーナは小さく笑った。
「……ふふ」
退屈が――壊れた。
数日後。
「王家御用達を詐称、混ぜ物香辛料を密輸――悪徳商人、逮捕!」
新聞の大見出しが街を賑わせた。
記事を読むセリーナの指先が、紙面を軽く叩いた。
その仕草だけが、胸の奥で芽生えた快感を示していた。
⭐︎
香辛料商人の一件から数日後。
アルヴェール伯爵家の広間は、朗らかな笑い声で満ちていた。
アルヴェール夫妻とランベール夫妻――二組の夫婦は学園時代からの親友同士。
若き日の思い出話に花を咲かせる姿は、まるで学生時代に戻ったかのように楽しげだった。
「覚えているか? あの試験前の夜に、こっそり菓子を持ち込んだことを」
「ええ。結局先生に見つかって、皆で一緒に叱られたのよね」
「ははは! その後で先生まで一緒に食べてしまったのも、忘れられん」
紅茶を片手に大人たちは笑い合い、温かな空気に包まれていた。
子供たち――セリーナとクロードは、その隣のソファに並んで座っていた。
セリーナは扇子をゆるりと開閉し、完璧な令嬢の微笑を浮かべている。
外から見ればおとなしく母の隣で過ごす可憐な娘。
だが彼女の瞳は、遠い湖面のように澄みきり、波ひとつ立っていなかった。
「……退屈ですわ」
声には出さない。唇の端だけが小さく動いた。
そんな彼女に、隣から軽い声が届く。
「なぁ、セリーナ。抜け出さないか?」
クロードだった。
彼の顔には、いたずらを仕掛ける少年のような光が宿っている。
「まあ、抜け出すだなんて……」
セリーナは眉をわずかに寄せたが、扇子の陰で唇が緩んだ。
「ここで大人の話を聞いているより、よっぽど面白いさ。
庭で遊んでるってことにしておけばいい。護衛も一緒だし、誰も文句は言わないだろ?」
クロードは自然に立ち上がり、手を差し伸べる。
その仕草に、セリーナは少しだけ目を細めた。
「……仕方ありませんわね」
澄ました声でそう答え、扇子を閉じて立ち上がる。
けれど胸の奥には、久しく感じていなかった小さな高鳴りが芽生えていた。
「気をつけて行ってくるのよ」
母の声が背にかかる。
だがその声音には“庭にいる”と信じて疑わぬ安堵が混じっていた。
セリーナとクロードは護衛を従え、屋敷を抜け出した。
母たちはまだ、子供たちが庭で仲良く遊んでいると思っている――。
石畳の通りに出ると、色とりどりの屋台がずらりと並び、香辛料や焼き菓子の匂いが入り混じっていた。
庶民たちの声は活気にあふれ、アルヴェール邸の静けさとはまるで別世界だった。
「どうだ? 退屈しのぎにはなるだろ」
クロードは人混みを見渡し、いたずらっぽく笑った。
セリーナは扇子を揺らし、無表情を装って答える。
「まぁ……騒々しいだけですわ」
そう言いながらも、歩みを止めなかった。
子どもたちが並ぶ屋台の前で、クロードが立ち止まった。
油で揚げられた菓子が山のように積まれている。香ばしい匂いと甘い蜜の香りが鼻をくすぐった。
「これだ。ここの菓子が一番うまいんだ」
クロードは銅貨を渡し、二つ受け取ると一つをセリーナに差し出した。
「庶民の……?」
一瞬だけ眉をひそめる。
けれど、クロードの視線に押され、セリーナはためらいながら小さくかぶりついた。
「……!」
素朴な甘さに、思わず唇の端が上がる。
仮面のような微笑ではない、ごく自然な笑顔。
クロードはその表情に目を奪われ、胸の奥が熱くなる。
――可愛い。
心に浮かんだ言葉を、口には出せない。
ただ、セリーナの隣で黙って歩くだけ。
「どうかしましたの?」
セリーナが首を傾げる。
「い、いや。なんでもない」
クロードは慌てて顔をそらした。
⭐︎
セリーナ・アルヴィエールは十三歳になった。
大人としての社交界に足を踏み入れる年齢。
裾の長いドレスも仮面も、もう「遊び道具」ではなく、令嬢としての責任の象徴だった。
だが彼女にとっては、それすら退屈の延長にすぎない。
――少なくとも、手紙が届くまでは。
その夜、セリーナの枕元には再び封筒が置かれていた。
枕元に置かれた封筒を開くと、整った筆跡が目に入った。
『仮面舞踏会にて、財務官アーベルを欺きなさい』
『方法はあなたが選びなさい』
名前は明確に記されている。
だが、どうすればよいかの指示は何もない。
セリーナは瞳を細め、封筒を閉じた。
「……なるほど。王宮の舞踏会で欺け、という課題ですのね」
翌朝、侍女リサを呼び寄せる。
「アーベルについて調べなさい。噂話でも、裏の情報でもいいわ」
「承知いたしました」
リサはうやうやしく頭を下げ、その夜には裏通りの酒場に姿を消していた。
銀貨の入った小袋をカウンターに置き、低い声で告げる。
「財務官アーベルの帳簿を」
情報屋は歯の欠けた笑みを浮かべ、小冊子を渡す。
「へっ……豪勢な暮らしをしてやがるくせに、俸給じゃ説明つかねぇ。
裏金を受け取ってる噂は山ほどだ。しかも帳簿は王宮の保管庫にある。
お前さんたちじゃ鍵を開けられねぇだろうがな」
リサは無言で冊子を受け取り、そのまま背を向けた。
翌朝。
「お嬢様、調べはつきました。アーベル殿は裏金を受け取っている可能性が高い。
証拠の帳簿は王宮に保管されておりますが、厳重な鍵があり……」
「つまり、私の手には届かないのね」
セリーナは小さく扇子を揺らし、冷ややかに笑った。
「ならば――彼自身に触れさせればいいだけですわ」
⭐︎
王宮の大広間は、光の海だった。
黄金のシャンデリア、絹のドレス、仮面で顔を隠した令嬢と紳士たち。
音楽が流れ、ワルツが繰り広げられる。
セリーナは仮面をつけ、黒と深紅のドレスに身を包んでいた。
仮面の下の微笑は、いつもの完璧な令嬢のものではない。
今夜はただ、退屈を壊すための遊戯の女。
視線の先に、財務官アーベルの姿。
赤ら顔に脂ぎった笑みを浮かべ、若い令嬢を軽口で口説いている。
女好きで軽薄、その一方で政治の裏では強欲を振るう――リサの報告通りだった。
セリーナはワルツの合間に、さりげなく彼の腕に触れた。
「ごきげんよう、閣下」
仮面の奥から、甘やかな声。
「お耳に入れて差し上げたいことがございますの」
アーベルは瞬きし、目の前の仮面の令嬢をまじまじと見つめた。
「ほう……仮面の少女からの秘密のお誘いとは。聞こうじゃないか」
セリーナは一歩近づき、扇子で口元を隠しながら囁いた。
「……まだ処分なさっていないのですのね。
あの帳簿、王宮の保管庫に眠ったままでは危ういですわよ?」
その一言で、アーベルの顔色が真っ青になった。
「な、なぜそれを……!?」
喉を詰まらせる声。
セリーナは優雅に首を傾げ、囁きを続ける。
「ご安心あそばせ。今宵中に処分なされば、まだ間に合いますわ。
……ええ、誰にも気づかれずに、ね」
そして、何事もなかったかのように別の紳士へと歩み去り、仮面の輪に溶け込んだ。
冷や汗をかきながら、アーベルは舞踏会を抜け出した。
息を潜め、王宮の奥へ。
厳重な鍵を力任せにこじ開け、帳簿を引きずり出す。
「これさえなければ……!」
紙束を破ろうとした瞬間――。
「何をしている!」
衛兵の怒声。
数人の兵士が駆け寄り、アーベルを取り押さえる。
舞踏会の只中、王宮の保管庫で帳簿改ざんを図った現行犯。
逃れられる道理はなかった。
『財務官アーベル、王宮で帳簿改ざんを試み現行犯逮捕!』
見出しが街を賑わせる。
セリーナは記事を読み、扇子をぱたりと閉じた。
「……偶然、ですわね」
仮面の奥の微笑は、達成感に満ちた笑みだった。
⭐︎
煌びやかな宮廷の大広間。
黄金のシャンデリアが光を撒き散らし、絹と宝石の波がうねる。
セリーナは深紅のドレスに身を包み、十三歳の令嬢として初めて正式に社交界に足を踏み入れていた。
「まぁ……あれがアルヴィエール家のご令嬢」
「美しいわ……しかも頭脳明晰と噂の」
「わたしたちでは敵わない」
周囲の令嬢たちが囁く声を、セリーナは涼やかに受け流す。
仮面のような笑みを浮かべ、扇子をゆるやかに揺らしながら。
その時――。
大広間の空気が変わった。
王太子アルベルトが現れたのだ。
完璧な笑顔、気品、優雅な所作。
その一歩ごとに、視線とざわめきが彼を追う。
「殿下がこちらに……!」
「セリーナ様に向かわれている……!」
令嬢たちの息を呑む声が背後から響いた。
アルベルトはまっすぐにセリーナの前に立ち、柔らかに微笑んだ。
「アルヴィエール伯爵令嬢。ようやくお会いできましたね」
「光栄に存じます、殿下」
セリーナは礼を取り、完璧な淑女の微笑を浮かべる。
アルベルトは微笑みを崩さず、彼女の手を取った。
「どうか、この一曲を私に」
セリーナは扇子を閉じ、礼を尽くしてその手を受ける。
音楽が流れ、舞踏の輪が広がった。
アルベルトのリードは完璧だった。
所作の一つ一つが絵のように美しく、周囲の令嬢たちは羨望の眼差しを向ける。
けれど――セリーナの胸の奥で、冷たいものがざわついた。
なぜだろう。
笑顔は完璧で、言葉も優しい。どこにも恐れる理由などないはず。
なのに、その瞳と視線が交わった瞬間、背筋を冷たい針で刺されたように震えが走った。
(……怖い? 私が……?)
理由はわからない。
ただ、セリーナの心が告げていた。
――この人は危険。
アルベルトは彼女の一瞬の硬直を見て、薄く微笑んだ。
それは周囲には王子の優雅な笑みにしか見えない。
けれどセリーナには、恐ろしい魔王のように見えていた。
⭐︎
翌日、アルヴィエール邸の広間に、荘厳な空気が張りつめていた。
王宮の紋章を掲げた使者が、恭しく文書を差し出す。
「アルヴィエール伯爵殿、並びにご令嬢セリーナ様。
王太子アルベルト殿下より、正式にご婚約を望まれるとのお達しです」
父は息を呑み、母は口元を押さえて瞳を潤ませた。
「なんという栄誉でしょう……!」
「我が娘が殿下の婚約者に……!」
歓喜と誇りの声が広間を満たす。
使用人たちも目を輝かせ、祝意のさざめきを隠せなかった。
その中心に立つセリーナは、完璧な笑みを浮かべて礼を尽くした。
だが胸の奥では、冷たい絶望が波のように押し寄せていた。
(……王太子の婚約者になれば、私は王宮に住むことになる。
この屋敷も、庭も、森も――クロードと過ごした時間も。
すべて、檻の外に消えてしまう)
微笑は崩さない。
けれど瞳の奥に、ほんの一瞬、影がよぎった。
⭐︎
数日後、ランベール伯爵夫妻が邸を訪れた。
広間には再び朗らかな笑い声が響く。
ランベール伯爵夫妻はセリーナが王太子の婚約者に選ばれたお祝いに来てくれていた。
セリーナは形ばかりの笑みを浮かべていたが、心はどこか遠くにあった。
その横に立つクロードが、不意に彼女へ小声で囁く。
「セリーナ、森に行こう。……昔みたいに」
クロードが小声で囁いた。
セリーナは一瞬だけ息を呑み、扇子の陰で瞳を伏せた。
(……森。あそこはアルヴィエール伯爵邸の庭の一部。けれど王宮に入れば、もう二度と気軽に歩くことはできなくなる。)
心臓の奥に冷たい痛みが走った。
けれど顔には完璧な笑みを貼り付ける。
「……ええ、ご一緒いたしましょう。」
クロードが満足げに頷く。
二人は護衛を遠くに従え、屋敷の裏庭を抜けて森へ向かった。
小川のせせらぎが聞こえる。
鳥が枝から枝へ飛び移る音、遠くで鹿が走る足音。
森は昔から変わらぬまま、静かで温かな懐に二人を迎えていた。
セリーナは深呼吸をした。
(この空気も、もう味わえなくなる……。
檻に入ったら、私は自由を失う。
クロードと笑い合う時間も、すべて)
そう思うと、目の奥に熱いものがこみ上げた。
けれど令嬢の仮面は揺るがない。
扇子を揺らし、優雅な微笑で隠し通す。
小道に差し掛かったときだった。
地面に伸びた太い木の根が、セリーナの足元を絡めとるように突き出していた。
「きゃっ……!」
バランスを崩し、体が前に傾く。
その瞬間、強い腕が彼女を支えた。
「セリーナ!」
クロードが素早く抱きとめていた。
しっかりと腕に収まった体は、震えるほど近く、温かい。
鼻先にかすかに土と風の匂い、そして彼の体温。
見上げると、クロードの瞳が真剣に揺れていた。
「大丈夫か? また足元を見ないで歩いてたろ」
「……また、ですって?」
セリーナは扇子を強く握りしめながらも、わずかに唇を震わせた。
そう――昔もこうだった。
木登りで足を滑らせたときも、森の丘で転げ落ちそうになったときも、必ずクロードが支えてくれた。
けれど今は、胸の奥が違う音を立てていた。
(……私はクロードが好き)
唐突に、はっきりとした言葉になって浮かび上がった。
けれど同時に冷たい影が胸を覆う。
(でもクロードは違う。きっと私を幼馴染としか思っていない。
これは私だけの片想い。
――それでもいい。一緒にいられるだけで、私は)
クロードの瞳がまっすぐに覗き込んでくる。
その距離に耐えられず、セリーナは小さく息を吐き、そっと身を離した。
「……ありがとう、クロード」
彼は少し頬を赤らめ、気まずそうに頭をかいた。
「お前は昔から変わらないな。危なっかしいんだ」
セリーナは扇子を開き、仮面のような微笑を浮かべた。
けれど頬に残る熱は、いつまでも消えなかった。
転びかけた一幕のあと、二人は森の奥へ進み、小さな泉に辿り着いた。
澄んだ水面は鏡のように空を映し、鳥が水面をかすめるたび波紋が広がる。
「変わらないな」
クロードが水面に石を投げ、小さな跳ねを作った。
「ここで魚を捕まえようとして、二人でずぶ濡れになったこと、覚えてるか?」
「ええ。あの時は母にひどく叱られましたわ」
セリーナはくすくす笑った。
けれど胸の奥では、笑みと同時に痛みが広がっていた。
(……殿下の婚約者になれば、王宮に住むことになる。
この泉も、森も、クロードも――全部、私の日常から消えてしまう)
風が頬を撫でる。
けれど頬に残る熱は消えない。
クロードがふと、彼女の髪に手を伸ばした。
さっき転んだときに乱れた一房を、何気なく直す。
「ほら、まだ少し乱れてる」
その仕草に、セリーナの心臓は跳ねた。
セリーナがドキドキして固まっていると、クロードがふいに口を開いた。
「なぁ、セリーナ」
「なにかしら?」
クロードは少し黙り込み、握った手に小石を落とした。
小さな水音が広がる。
彼の横顔は、いつになく真剣だった。
「……王太子との婚約、やめられないのか?」
セリーナの胸が跳ねる。
けれど表情は崩さず、微笑を保った。
「殿下のお望みですもの。断る理由などございませんわ」
クロードは唇を噛み、彼女を真っ直ぐに見た。
「……俺と結婚しないか? 殿下の婚約者なんかじゃなくて。
お前は、自由でいい。俺が……守るから」
――時が止まった。
泉のせせらぎも、鳥の声も、遠くに消えた。
セリーナの胸に、喜びが一気に溢れた。
抱きしめたいほど嬉しかった。
(クロードが……私を? 本当に?)
だが理性が、氷の檻が、すぐにその想いを押し込めた。
「……だめですわ」
静かな声で、彼女は言った。
「あなたに迷惑をかけられません。殿下の婚約を破るなんて……クロードまで巻き込んでしまう」
クロードはなおも食い下がりそうな目をしたが、セリーナは首を横に振った。
「……ごめんなさい」
微笑を浮かべて。
けれどその笑みの裏で、心は歓喜と痛みに引き裂かれていた。
(本当は……こんなに嬉しいのに)
泉の水面は揺れ、セリーナの赤く染まった頬を映していた。
⭐︎
その夜。
セリーナの枕元に、一通の封筒が置かれていた。
幾度となく受け取ってきた、あの無機質な筆跡。
けれど今回は、文の調子がこれまでとは違っていた。
『セリーナ。ここまでよくやりました』
『あなたは状況を変える力を持っていることがわかったでしょう?
私はあなたに逃げる勇気を持って欲しかったのです。』
『あなたが手紙に従い動いたことで、多くの悪党が失脚しました。
それは偶然ではなく、あなた自身の才覚によるものです』
『私は未来のあなたです。
王太子と結婚し、王太子の妃となりました。
けれどそれは、檻に他なりませんでした。』
『王太子は私に執着し、虐げ、執務に忙殺させました。
私の優秀さを利用し、そしてさらに屈辱を与えるために子を十人も産ませ、それを当然としました。
彼は自分より優秀な私を下に置き、酷い待遇を与えることで優越感を得るようになっていたのです。』
『私は王太子の檻の中でただ生き延びました。
けれど、かつて幼い頃に遊びで作り出した一つの魔法を思い出しました。
過去の自分へ手紙を送る魔法。
それで私は、あなたを導いてきたのです。』
『ランベール伯爵令息クロードとあなた自身を信じて。過去の私は私自身を信じられなかった。でも今のあなたは違います。
彼と共に動きなさい。檻は壊せます』
⭐︎
煌びやかな光が王宮の大広間を満たしていた。
十四歳の誕生日を迎えたセリーナ・アルヴィエールは、
王太子アルベルトの婚約者として壇上に立ち、百の視線と拍手を浴びていた。
「殿下の未来の妃にして、王国の宝――アルヴィエール伯爵令嬢セリーナ!」
喝采と羨望が渦を巻く。
令嬢たちは囁き合い、貴族たちは誇らしげに頷く。
セリーナは完璧な淑女の微笑を浮かべ、優雅に一礼した。
けれど胸の奥では、冷たい鎖の音が響いていた。
(……ここが、檻の始まり)
やがて人々の視線が別の方へ移り、セリーナがひとりになる一瞬が訪れた。
静寂の隙間で、彼女は指先を強く握りしめる。
(“クロードを信じなさい”――あの手紙に書かれていた言葉。
でも、それはどういう意味? 本当に信じていいの?
もし彼に何か悪いことが起きたら?)
迷いの影が心をかすめる。
けれど同時に、未来の自分の言葉の重みも胸に残っていた。
その時――。
「……セリーナ」
低く、けれど確かな声がした。
振り向けば、クロードが立っていた。
真剣な瞳で、ただ彼女ひとりを見つめて。
「一緒に逃げよう」
差し出された手。
力強く、そして迷いのない手だった。
一瞬、呼吸が止まる。
今までなら、セリーナはこの手を取れなかっただろう。
クロードを巻き込みたくない、自分だけが檻に閉じ込められればいいと考えていたはずだ。
だが――今は違う。
未来の手紙が告げていた。
信じられるのはただ一人。クロード。
セリーナは扇子を閉じ、唇に微笑を浮かべた。
「……ええ。ご一緒いたしますわ」
その瞬間、クロードの手が彼女の手を包む。
そして――。
大広間の片隅で、二人の姿がふっと掻き消えた。
舞曲も、ざわめきも、その場に残したまま。
堂々と、誰の目をも欺くように。
――クロードが転移魔法を発動させた。
転移の光が消えたあと、静かな空気が二人を包んでいた。
石造りの小さな家。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、窓の外には穏やかな月明かりが広がっている。
セリーナは深く息を吐いた。
「……本当に、来てしまいましたわね」
クロードは少し照れたように笑い、けれど真剣な目で彼女を見つめた。
「後悔してるか?」
セリーナは首を振り、柔らかな笑みを浮かべる。
「いいえ。……必要ありませんわ。もう十分ですの」
クロードの瞳がわずかに揺れる。
「……セリーナ。お前は俺のこと、好きじゃないかもしれない。
でも、俺は――ずっと好きだった」
胸の奥が熱くなる。
セリーナは静かに一歩近づき、彼の手を取った。
「……私も、ですわ」
言葉はそれだけ。
けれど二人の手はしっかりと結ばれ、もう離れることはなかった。
暖炉の火が揺れ、外には静かな夜が続いていた。
檻の外で、二人だけの物語が始まろうとしていた。
⭐︎
翌朝。
王都に出回った新聞の一面を、大勢の市民が取り囲んでいた。
『王太子の婚約者、舞踏会の最中に姿を消す! 王宮大混乱』
記事には舞踏会での衝撃と、誰も気づかぬうちに消えたという噂が詳しく書かれていた。
「神隠しではないか」
「いや、誘拐に違いない」
「まさか……自ら逃げた?」
憶測が飛び交い、社交界は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
――だがその頃、隣国の郊外の小さな家では。
暖炉の火が揺れ、二人の影が寄り添っていた。
新聞のざわめきも、王宮の混乱も、ここまでは届かない。
セリーナは窓辺に腰掛け、穏やかな月明かりを見つめながら微笑んだ。
「……世界がどれほど騒いでも、もう関係ありませんわ」
クロードが隣に座り、彼女の手を取る。
「そうだな。ここからは、俺たちの人生を歩もう。」
二人の指が絡み合い、キスをして二人は笑い合った。
終わり
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語には、
「未来を自分の好きなように変えていく力が、私たちにはある」
というメッセージを込めました。
檻を壊して逃げたその後のセリーナとクロードですが……
二人とも魔術に長けているので働き口には困らず、
けれど大切にしたのは“のんびり、まったり、一緒に過ごすこと”。
小さな家で寄り添いながら、幸せに暮らしていきます。
少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。




