限界突破
頭上の空が遠い。 断絶の谷。そこは、陽光に拒絶され、月光に忘れられた死者の揺り籠だ。崖の上から降り注いでいたはずの月光さえ、厚い霧と立ち込める魔力の奔流に遮られ、ここ谷底は永遠の夜に沈んでいた。
湿った大気は鉄錆の匂いと腐敗した魔力の臭気が混じり合い、呼吸をするだけで肺の奥が焼けるように熱い。
ふと足元を見下ろせば、数十年前にこの谷に消えたであろう騎士の、錆びついた兜がある。かつてこの国を守ろうとした志さえも、ここでは冷たい湿気と絶望に塗りつぶされている。
「……来るぞ、離れるな!」
俺の短剣に宿る炎が、湿った闇を赤黒く切り裂く。 ヒトガタは怒りに任せ、肉を引き裂いて作ったその巨翼を大きく羽撃かせた。だが、その瞬間――。
ギギィィィッ!!
鋭い岩壁を削り、火花が散る不快な音が響いた。 広大な空とは違い、ここは切り立った崖に囲まれた狭窄の地。奴の自慢の翼は、羽撃くたびに周囲の壁を叩き、自らの機動力を大きく削ぐ「重荷」へと変わっていた。
「ハッ……狭いところは嫌いかよ、バケモノ!」
俺は『縮地』で濡れた地面を蹴った。 フィンの追い風を受け、炎の軌跡を描きながらヒトガタの足元へ滑り込む。
『属性変化(爆炎)』
短剣を奴の足首に叩き込むと同時に、魔力を一気に解放する。凄まじい衝撃波と共に、立ち込める霧が真っ白な蒸気のカーテンとなって周囲を覆い尽くした。
「ガ、アアァッ!!」
ヒトガタの悲鳴。だが、奴はまだ止まらない。蒸気の中から、巨大な漆黒の翼が暴風となって吹き荒れ、視界を強引に切り開いた。奴は不自由な翼を逆手に取り、盾のように身を丸めて防御姿勢をとる。
「そこを動くなよ!!」
煙を切り裂き、一際巨大な影が躍り出た。 ボロボロになった大盾を迷わず投げ捨てた団長が巨大な剛剣を引き抜き、ヒトガタを正面に捉える。盾を捨てたその構えは、防御を一切かなぐり捨てた、必殺の一撃を放つためのものだ。
「おおおぉぉぉッ!!」
団長の規格外の膂力が、大剣を凄まじい速さで振り下ろした。 ヒトガタは咄嗟に二枚の翼を重ね、強固な肉の盾としてそれを受け止める。
ガギィィィン!!
耳を劈く金属音が反響し、団長の足元の岩盤が衝撃でクモの巣状に砕け散った。
「ぐ、ううぅぅ……ッ!」
団長の腕の筋肉が、はち切れんばかりに膨れ上がる。剛剣と翼が真っ向から押し合い、火花が暗闇を明滅させる。 ヒトガタの翼は、フィンの魔力を吸い込んだせいか、異常なまでの硬度を誇っていた。だが、団長の執念がそれを上回る。
「……どけぇぇぇッ!!」
魂を削り出すような咆哮と共に、団長が大剣を強引に横へと薙いだ。 凄まじい重圧に耐えきれず、ヒトガタの翼が大きく弾き飛ばされ、その無防備な胴体が白日の下に晒される。
「フィン、今だ!!」
「……任せて!!」
『ウィンドストーム・オーバーロード』!!
背後で待機していたフィンが、杖を突き出した。 練り上げられた魔力が巨大な竜巻となり、真空の刃を伴ってヒトガタを真っ向から飲み込む。
「ギ、ギギ……ッ!?」
ヒトガタはその胸にある紅蓮の結晶を輝かせ、放たれた風の魔力を強引に吸収し始めた。暴風が奴の体に吸い込まれ、一瞬、威力が減じられたように見えた。
「まだ……まだだよ!! もっと……もっと喰らえ!!」
フィンの顔から血の気が引き、鼻から一筋の鮮血が伝う。フィンはとうに限界を超えていたが、彼は自らの生命力を削って魔法を維持していた。竜巻はさらに巨大に、さらに鋭く膨れ上がり、吸収の速度を破壊の速度が上回り始める。
「ガ、ア……アアアァッ!!」
吸収しきれなくなった風の刃が、ヒトガタの肉体をズタズタに切り裂き、奴を岩壁へと押し付けていく。 そして、その隙を俺は見逃さなかった。
『属性変化($%?)』
俺は地面に深く腰を落とし、短剣を鞘に収めるような動作で構えた。 フィンの魔法が作り出した気流をすべて利用し、自身の体内に熱量を溜め込む。全身の血管が沸騰するような錯覚。短剣を握る右手が、あまりの熱量に白く発光し始める。
一秒が、永遠のように感じられた。
「……行けぇッ!!」
貯めに貯めた全魔力を足裏に爆発させ、『縮地』を発動する。 それは移動というより、空間そのものを焼き切るような一筋の紅蓮の閃光だった。
『属性変化(不知火)』!!
すれ違いざま、俺の短剣がヒトガタの右翼の付け根を、断罪の炎と共に断ち切った。 ドサリ、という重苦しい音と共に、漆黒の巨翼が地面に転がる。
「ギ、……アガ、アガガガッ!!」
片翼を失い、バランスを崩したヒトガタが、断末魔のような叫びを上げた。奴はもはや、この地形で翼を維持することの不利を悟ったのか、残った左翼をドロドロとした黒い粘液に変え、背中へと引き込み始めた。
機動力を取り戻すための、再変身。 翼を捨て、より小さく、より俊敏な「人型」へとその姿を凝縮させていく。
「させるか!!」
団長が再び飛び出し変形途中のヒトガタへと刃を向ける。それをヒトガタは先程のフィンの魔力を利用した魔法障壁を展開する。地上での障壁とはまた一段と硬度が上がる。
「なんのこれしき!!」
団長はその障壁ごと割る勢いでヒトガタを押し返えし始める。
「うおおぉぉお!!」
バギャン!!
障壁が割れると同時にヒトガタを後ろへ吹き飛ばす。
「やったのか...?」
「いや……静かすぎる」
団長が大剣を構え直した。 翼を捨てた奴にとって、この狭い谷底はもはや枷ではない。むしろ、視界の効かない暗闇と複雑な起伏は、奴の機動力を最大限に活かす狩り場へと変わっていた。
「……っ、どこだ……!?」
俺は五感を研ぎ澄ます。 カサッ……と、頭上の岩肌を何かが這い回る音がした。 次の瞬間、俺の背後から冷ややかな殺気が膨れ上がる。
「フィン、左だ!!」
『ウィンドシールド』!!
フィンの展開した風の壁が、闇から突き出された漆黒の爪を弾く。だが、奴は反動を利用して壁を蹴り、すぐさま次の闇へと消えた。 翼があった時のような力押しではない。今の奴は、獲物の体力を確実に削り取り、確実な死を運ぶ「暗殺者」の動きだ。
見えない。 暗闇と霧を完全に味方につけた奴は、岩壁から岩壁へ、跳弾のように高速で跳ね回りながら、死角からの一撃を執拗に繰り返してくる。
「上か……!? いや、後ろだ!!」
ドッ、という空気を切り裂く音。 霧の中から、弾丸のような速度でヒトガタが突き出してきた。 翼を失い身軽になった奴の動きは、先ほどまでとは別次元だ。
「くっ……!?」
俺の肩を奴の爪が掠め、鮮血が舞う。
「フィン、光を!」
「了解! ……『フラッシュバング』!!」
フィンの魔法で一瞬だけ周囲が白く染まる。 そこに浮かび上がったのは、俺たちの頭上の壁に張り付き、獲物を定める蜘蛛のようなヒトガタの姿だった。
「そこだぁッ!!」
俺は雷の属性に切り替え、跳躍する。 だが、奴は空中で不自然に身を翻し、俺の剣を紙一重でかわすと、そのままカウンターの蹴りを俺の腹部に叩き込んだ。
「が……はっ……!!」
地面に叩きつけられ、背骨に走る衝撃で視界の中で火花が散る。
立ち上がらなければ殺される。だが身体が動かない、とうに身体は限界を迎えていた。
だが奴は着地の勢いを殺さず、そのまま動けない俺の喉元へ、その鋭利な指先を突き出してきた。
死神の鎌が届く。
その時だった。
「ガ、……アガガ……ッ!?」
ヒトガタの指先が、俺の喉元数センチのところで止まった。 いや、止まったのではない。 奴の腕が、まるで内側から誰かに引き戻されているかのように、激しく震え、痙攣し始めたのだ。
「……ギギ、ガ……やめ……ろ……」
ヒトガタの裂け目から、聞き覚えのある「声」が漏れた。 それは、ヒトガタの不気味な鳴き声に重なるように響く、苦渋に満ちた男の声だ。
「……バーンズ……?」
団長が、大剣を握る手を震わせながら呟く。 見れば、ヒトガタの肉体が内側から波打っていた。 肩から突き出していたはずの棘が、自らの肉を突き刺すように内側へ曲がり、右腕の筋肉が反対方向へとねじ切れていく。
『……やめろ……。これ以上……私の体で、仲間を……殺させはしない!!』
それは、かつて騎士団に剣を教え、先日の戦いで俺たちに帰還石を遺してくれた、この国を守る誇りを説いた、あの人の意志だった。 ヒトガタという悍ましい入れ物の中で、隊長の魂は消えていなかった。それどころか、自らの残りの存在すべてを燃料にして、このバケモノの支配に真っ向から抗っていたのだ。
「ア、ガ……ガアアアァァッ!!」
ヒトガタが自分の頭を抱え、岩壁に激突する。 自らの肉を削り、骨を砕いてでも、俺たちへの攻撃を止めようとする隊長。その瞳――ヒトガタの無機質な裂け目の奥に、一瞬だけ、かつての慈愛に満ちた隊長の眼差しが宿った。
「……カイ、行け」
団長の、低く、重い声が聞こえた。 団長もまた、溢れそうになる涙を堪え、救いの一撃を俺に託していた。
「……ああ、わかったよ、隊長!!」
俺は震える足で立ち上がり、短剣を握り直した。 不知火を最大まで高め、全身が焼けつくような熱量を感じる。 俺たちがこの奈落の底で出会ったのは、絶望を分かち合うためじゃない。




