断絶の谷
団長の規格外の膂力によって放り出されたヒトガタの巨体が、放物線の頂点で静止した――ように見えた。
「……ッ!? 奴の腕を見ろ!」
俺の叫びに、団長とフィンが息を呑む。 重力に従って墜ちてくるはずのその体で、おぞましい異変が起きていた。
ミシミシ、バキバキッ……
硬い骨が無理やりへし折られ、引き伸ばされる嫌な音が、静まり返った谷底まで鮮明に響いてくる。
ヒトガタの両腕から、皮膚を突き破って漆黒の骨が突き出した。 それは異様な長さに伸長し、引き裂かれた二の腕と脇腹の肉が、濡れた粘土のようにドロドロと伸びていく。骨と骨の間に不気味な赤黒い皮膜を形成し、それは自らの肉を引き裂いて作った、醜悪な「肉の帆」へと変貌した。
バサァッ!!
その禍々しい両翼が空気を叩くと、ヒトガタの身体は重力を嘲笑うように上空へと再加速した。
「腕を翼に変えやがった……!? どこまでデタラメなんだよ!」
団長が、傷だらけでボロボロになった盾を握り直す。 ヒトガタは翼全体を震わせると、フィンから奪った魔力を「漆黒の風刃」へと変え、雨のように俺たちへ降らせてきた。俺たちは崩落する橋から間一髪で崖側の地面へと逃れたが、そこも安全ではなかった。
キィィィィィン!!
地面に突き刺さる風の刃が、岩肌を豆腐のように切り裂く。 俺とフィンを背後に庇い、団長が盾を掲げて一歩前に出る。
「俺の後ろから離れるな!」
削り取られた金属片を撒き散らしながら、団長が風の刃をすべて正面から受け止める。 だが、その時だった。 弾幕を放ちながら旋回していたヒトガタが、翼を弾丸のように畳み、重力と降下の勢いのすべてを乗せて団長目掛けて真っ直ぐに滑空を開始した。
「……ッ!? カイ、避けろ!!」
団長が俺を蹴り飛ばす。
次の瞬間、空気を切り裂く轟音と共に、肉の翼を纏った漆黒の弾丸が団長の盾に激突した。
ドォォォォォォォン!!
「が……はあぁっ!!?」
凄まじい衝撃波が周囲の土煙を吹き飛ばす。
いかに「最強の盾」といえど、空中で加速し、自重をすべてぶつけてきた怪物の突進は防ぎきれない。衝撃を逃がしきれず、凄まじい推進力が団長の巨体を軽々と押し流していく。
足元の地面が削れ、団長の足が崖の縁を捉えきれなくなる。 盾を構えたまま、団長はヒトガタと共に、深い谷底――霧の向こう側へと吹き飛ばされた。
「団長ぉぉぉッ!!」
俺の叫びは、吹き荒れる風にかき消された。 崖の縁に身を乗り出すと、深い霧の向こうへ、二つの影が墜ちていくのが見えた。
「……行こう、フィン。団長を一人にできるかよ」
俺は短剣を逆手に持ち替え、霧が渦巻く闇を睨みつけた。
「たとえそこが死の国へ続く穴だったとしても、仲間がいるならそこが俺たちの戦場だ」
「……ふっ、そうだね。団長に『遅いぞ』って怒られるのは御免だ」
フィンが覚悟を決めたように微笑み、自分と俺の周囲に淡い緑の風を纏わせた。
「風の加護を……! 衝撃は僕が殺す。……跳ぶよ!!」
俺たちは迷わず、断絶の谷へと身を投げ出した。
視界が激しく上下し、加速する重力が内臓をせり上げる。 周囲を包む霧は、死者の手のように冷たく俺たちの肌を撫でた。 崖の壁面が猛スピードで通り過ぎていく。
「……見えた!!」
霧の切れ間、谷の底で火花が散った。 団長だ。 彼は墜落の衝撃に耐え、ボロボロの盾を楔にしてヒトガタの追撃を防いでいた。
「団長ッ!!」
俺は落下の勢いをすべて加速に変えるべく、空中で崖の壁面を強く蹴った。
『縮地』!!
『属性変化(雷属性)』
短剣が雷を纏った一筋の閃光となり、霧を切り裂いてヒトガタの脳天へと急降下する。 落下の重力加速度をすべて一点に込め、俺は短剣を垂直に突き立てた。
「ガ、アアアァァッ……ギギ、ギ……!」
深々と肩口を貫かれたヒトガタが、身を捩りながら絶叫する。 その衝撃で、奴の無理やりな翼からドス黒い体液が撒き散らされた。俺はその飛沫を避けるように、濡れた地面を滑りながら団長の隣へと着地した。
「……カイ……!? バカ者が、なぜ追ってきた!」
団長が、苦痛に顔を歪めながらも不敵に笑う。 掲げたままの左腕は小刻みに震え、ボロボロに削れた盾の隙間から、絶え間なく血が滴り落ちていた。
「一人でカッコつけさせないよ」
「全くだよ。団長はいつも勝手に一人で背負おうとするんだから」
遅れてフィンが、風をクッションにして団長の背後に降り立った。 そこは、太陽の光さえ届かない、湿った岩と腐敗した大気の満ちる世界。かつてこの谷に落ちた者たちの残骸や、錆びついた武具が泥に埋もれ、文字通りの奈落を形成している。
「ハッ……言ってくれる。だが、今の俺は流石に少し重いぞ。……盾はもう機能しねえな」
団長が自嘲気味に笑い、ボロボロの盾を投げ捨てた。 金属が岩に当たる虚しい音が谷底に響く。団長の鎧は至る所が裂け、あの滑空突進をまともに受けた衝撃の凄まじさを物語っていた。
だが、その瞳に宿る闘志の火は、まだ消えていない。
「ギ、ギギギギギギ……ッ!!」
不意に、背後で嫌な音がした。 見れば、ヒトガタがゆっくりと起き上がっている。
「あいつ……再生速度が上がってないか?」
フィンの声が震える。 俺が穿ったはずの穴が、見る間に黒い粘液で塞がっていく。それどころか、奴の腕の翼はさらに肥大化し、閉ざされた谷底の壁をガリガリと削りながら、俺たちを包囲するように広げられた。
霧が、奴の放つ禍々しい魔力に当てられて、どす黒く変色していく。 太陽の届かないこの場所では、俺の纏う青白い雷だけが、三人の影を不気味に崖壁へ映し出していた。
「だが……ここなら、橋の上みたいに足場を気にする必要はねえな」
辺り一面に岩が剥き出しているが足場は確保され、小回りは効く最低限のスペースは残されている。
団長は盾を失い大剣を構え、フィンも限界に近い。俺たちの装備も、もうボロボロだ。 だが、この暗い底で、俺の五感はかつてないほど研ぎ澄まされていた。
『属性変化(火属性)』
短剣の刃を、雷から紅蓮の炎へと切り替える。 暗闇に揺れる炎が、団長の横顔と、フィンの覚悟を照らし出した。
「いいか、二人とも。次は俺が道を作る。……今度は、絶対に奴を逃がさない」
俺の言葉に、団長が大剣の柄をギュッと握り、フィンも杖を突き立てる。 崖の上から響いていた風の音はもう聞こえない。 聞こえるのは、自分の心音と、目の前の化け物が放つ、おぞましい脈動の音だけだった。
「……第ニラウンドだ。……死ぬ気でついてきてくれよ!」
その時。 遥か遥か頭上、俺たちが先ほどまでいた崖の縁では、全く別の「音」が響いていた。
「……バカな。正気か、あいつら!?」
冷徹な静寂を保っていたはずのエルフたちの間に、初めて明らかな狼狽が走っていた。 彼らにとって、この『断絶の谷』は獲物を追い詰め、無惨に処理するための完璧な処刑場だったはずだ。人間が、死の象徴であるはずの深淵へ自ら飛び込むなど、彼らの高度な計算には一文字も刻まれていなかった。
「生存確率はゼロだ! 落下衝撃だけで肉塊になるはずなのに、なぜだ!? なぜ魔力反応が消えない!」
一人のエルフが、崖の下を覗き込みながら、美しく整った顔を醜く歪めて叫ぶ。 霧の向こう側、暗い奈落の底で、本来なら消えているはずの青白い雷と紅蓮の炎が、消えるどころか一層激しく燃え上がっているのが見えたからだ。
「これでは、観測が……! ヒトガタの制御が失われるぞ!」
「くそっ、降りるぞ! 急げ、奴らを確実に仕留めろ!!」
余裕のあった監視者たちの声は、今や焦燥に満ちた怒号へと変わっていた。 彼らは慌てて魔法の詠唱を始め、自分たちの想定を粉々に打ち砕いた「イレギュラー」を消し去るべく、崖を下り始める。
だが、遅い。
奈落の底では、すでに戦いの火蓋は切って落とされている。 もはや誰にも邪魔できない。 俺たちの、俺たちだけの死闘が、ここから始まるんだ。




