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リベンジマッチ

決戦の朝、断絶の谷を吹き抜ける風は、凍てつくナイフのように肌を裂いた。

左右を垂直に切り立った絶壁。その底は深い霧が渦巻き、覗き込めば無限の闇に吸い込まれそうだ。


この場所に唯一架かる古びた石橋を前にして、俺たちは一列に並び、迫りくる死と対峙していた。

俺はロッサさんから託された短剣の柄を、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。昨夜の訓練ではあれほど馴染んでいたはずの武器が、今はひどく冷たく、そして小さく感じられた。隣に立つ団長の鎧が、風に煽られてわずかに軋む音がやけに大きく響く。


「……来たぞ」

団長の低く鋭い声が、静寂を切り裂いた。

辺りの空間が歪み、そこから漆黒の影が染み出すように現れた。 目の前に現れたそれは体表には幾何学的な紋様が浮かび上がり、胸の奥に埋め込まれた紅蓮の結晶が、心臓のような鼓動とともにドロドロとした赤黒い光を放っている。


奴が橋の入り口に一歩足を進めた瞬間、周囲の空気が一変した。 足元の瑞々しかった草花が瞬時に黒ずみ、石畳が腐ったように変色していく。命そのものを吸い取るような禍々しいプレッシャーに、俺の奥歯がガチガチと鳴った。


「作戦通りに行くぞ! フィン、まずは奴の機動力を殺せ!!」

団長の怒号が、恐怖で固まりかけた俺の意識を叩き起こす。 後方に控えていたフィンさんが、包帯で固めた右腕を無理やり突き出した。激痛に顔を歪めながらも、彼は魔力を振り絞る。

『ウィンドバインド』

ヒトガタの足元から、空間をねじ切るような猛烈な竜巻が発生した。暴風の鎖が奴の四肢を絡め取り、石橋に一瞬でも縫い止める。シミュレーション通りだ。これで先制を取る――はずだった。

だが、期待は一瞬で絶望へと塗り替えられた。

「なっ……魔力が、吸い込まれてる……!?」

フィンさんの悲鳴のような声が響く。 拘束の竜巻が、ヒトガタの皮膚にある無数の隙間から、まるで渇いた砂が水を吸うように収束していく。奴は拘束を振り払うどころか、フィンさんが放った純粋な魔力をそのまま自らの糧として喰らい始めたのだ。

魔力を吸い込むたびに、ヒトガタの筋肉が膨張し、不気味な脈動が激しくなる。

「くそ、魔力吸収か! 物理で叩くぞ、カイ! 奴が膨れ上がった瞬間を狙え!!」

団長が重い大盾を構え、突進を開始した。 その巨体が橋を揺らし、ヒトガタの正面を塞ぐ。その死角を縫うように、俺は最短距離を縮地で駆け抜けた。 膨大な魔力を吸い込み、その処理に一瞬の遅れが生じるはずの今。ここしかない。

俺は全身の細胞を雷へと変える勢いで、疾風の短剣を突き出した。

『属性変化(雷属性)』

翠と青の光が混ざり合い、一直線の閃光となってヒトガタの胸にある結晶へ吸い込まれる。

キィィィィィン!!

耳の奥が痛くなるほどの不快な金属音が谷間に反響した。 確かな手応えがあった。だが、それは核を貫く感触ではない。 まるで、巨大な鉄塊を全力で叩いたかのような、絶望的な跳ね返りだった。

「……笑ってやがる」

至近距離で、俺は見てしまった。 ヒトガタの顔にある裂け目が、三日月のように吊り上がっているのを。 奴は避ける必要さえなかった。吸い取ったフィンさんの魔力を、瞬時に胸の一点に凝縮し、核を守るための不可視の障壁へと変換していたのだ。その魔力密度は、通常の障壁魔法を遥かに凌駕する 150% 以上の出力に達していた。

だが、本当の地獄はここから始まった。

「ガッ……ギ、ギギッ……ウィンド、バインド……」

ヒトガタの口から、聞き覚えのある呪文が漏れた。 次の瞬間、奴の胸の結晶が激しく発光し、今度は奴の側から黒い暴風が解き放たれた。それはフィンの魔法を模倣し、さらに奴の邪悪な魔力で汚染された異形な術だった。

「ぐわぁっ!!」

正面にいた団長が、漆黒の風の鎖に全身を縛り上げられ、叩きつけられる。風の刃が重厚な鎧を紙細工のように切り裂き、鮮血が石畳に飛び散った。

「団長!!」

俺が駆け寄ろうとした瞬間、足元が激しく揺れた。 ヒトガタが橋の石畳にそっと片手を置いている。 奴の指先から血管のような黒い筋が広がり、強固な石造りだったはずの橋が、音を立てて腐食していく。

「まずい、橋が崩れる」

メキメキ……、バキッ!!

橋の中央に巨大な亀裂が走り、中央から崩れ始める。

「フィン、危ない!!」

崩落の衝撃で、後方支援のフィンの足元が崩れ落ち始め、滑り落ちそうになる。俺はなりふり構わず縮地を使い、フィンの襟首を掴んだ。そのまま、まだ辛うじて原型を留めている橋の端の、わずかな出っ張りに指をかけ、そのまま団長が俺たちを引き上げる。

中央部は完全に崩壊し、無惨な瓦礫となって深い谷底へと零れ落ちていった。


俺たちは今崩れかけの石橋、ヒトガタと同じ側、わずか数メートルの不安定な足場に追い詰められていた。背後は深い谷底。前方は、俺たちの技術を喰らい、嘲笑うように進化を続ける怪物。

「ガッ……逃ゲロ……カイ……死ヌゾ……」

ヒトガタの喉から、またあの隊長の声が聞こえる。 それは警告のようでいて、俺たちの心を折るための残酷な哄笑に聞こえた。 奴は今度は俺の動きをじっと見つめている。その瞳のない顔がじりじりと間合いを詰めてくる。

「……はは、冗談じゃねえぞ」

団長が血を吐き捨てながら、盾を再び構え直した。 足元からは小石が絶え間なく谷底へ落ちていき、その音が聞こえなくなるほどの深さが、死の近さを物語っている。

完璧だったはずの作戦。 昨日、あんなに覚悟を決めて練り上げた連携。 その全てが、今、無惨にも打ち砕かれ、俺たちはただ、崩れゆく石の上で震えることしかできなかった。


「こんな位置にいたんじゃ不利になるのは俺たちの方だ、シールドバッシュで一瞬隙を作る」

「え、でもこの前片手で止められてたじゃん」

「おいおい俺を誰だと思ってるんだフィン」

「騎士団団長??」

「まあそうだけど、そうじゃなくて」

「はは、分かってるよ。最強の盾さん」

「いくぞ」

団長が重くそう呟くと同時に、その身から溢れる闘気が盾を赤く染め上げた。

『シールドバッシュ』!!

燃え盛る盾を構えた団長が、崩れかけの石橋を蹴って突進する。だが、ヒトガタはそれを嘲笑うように、やはり片手でその突撃を受け止めた。

「ああ、やっぱりダメだ……!」

思わず声が漏れる。しかし、フィンは笑っていた。

「甘いよ、カイ。団長が出来ると言ったら出来るんだ」

フィンの目に疑いの感情は微塵もなかった。

『ウィンドウォーク』『縮地』

俺とフィンさんは同時にヒトガタの両脇をすり抜ける。団長を信じて、その背中を追い越した。

「ガ、ガアアッ!?」

獲物を逃したヒトガタが、余った左手を俺たちへ振り上げる。

「うおおおぉおおお!!!」

その時、団長の咆哮が谷底から響いた。 盾を片手で止められた状態から、団長はさらに踏み込み、盾の面を上へと突き上げたのだ。

「……!? 浮いた!?」

団長の規格外の膂力が、ヒトガタの巨体を無理やり宙へと押し上げる。

「空中なら踏ん張りも効かんだろう!!」

さらに追撃の『シールドブレイク』がヒトガタを真下から打ち抜き、奴は空高くへと放り出された。

「フィン!!」

「全くもう、使い方が荒いんだから!」

『バキューム』

フィンさんが俺たちの着地地点に向けて、空気を引き寄せる強烈な風を発生させる。その風に乗るようにして、団長は弾丸のような速さでこちら側の足場へと飛び込んできた。

ガシャン、と重い鎧の音がして、団長が俺たちの隣に着地する。

「はは、流石だな副団長」

「あんたは相変わらず無理しすぎだよ」

二人は肩で息をしながら、不敵に笑い合った。

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