帰還と反撃への決意
森の境界線で、俺たちは死の淵にいた。 背後には、闇に溶けるように立ち尽くす漆黒のヒトガタ。奴は追ってこない。ただ、こちらが絶望に染まるのを愉しむように見送っていた。
「動ける者は、負傷者を担げ。急げ、一刻を争う」
団長の声は、今にも消え入りそうだった。
当初の輝かしい一団は、見る影もなくボロボロに引き裂かれていた。
足を引きずりながら平原を数分歩いたところで、一人の若い騎士が、血に汚れた拳を震わせながら膝をついた。
「もう……限界、です……。副団長の呼吸が、止まりかけている……!」
フィンの肩の傷からは、どす黒い霧のようなものが絶えず溢れ出し、彼の生命力を直接削り取っているようだった。このまま徒歩で街を目指せば、門をくぐるのはフィンの死体だろう。
「団長……これを」
若い騎士が、震える手で懐から一塊の石を取り出した。それはひび割れ、ところどころが欠けていたが、内側から鈍い青光を放っている。
「……それは、先せ、バーンズの部隊にだけ配備されていた緊急用の『小隊帰還石』か。バーンズが持っていたはずでは……」
団長が目を見開く。若い騎士は、溢れそうになる涙を堪えるように顔を歪めた。
「……退却の際、隊長が俺に投げ渡したんです。『俺が時間を稼ぐ、お前はこれで副団長を連れて帰れ』って……! あいつに食われながら、そう、叫んだんです……!」
その言葉に、生き残った騎士たちが沈痛な面持ちでうつむく。 その石は、ただの便利な道具ではない。自分たちを逃がすために怪物に呑み込まれた指揮官の、命の代償だった。
「……分かった。使え」
団長の重苦しい許しを得て、騎士は石に魔力を注ぎ込んだ。 石は不安定に明滅し、過負荷でパチパチと音を立てながら、騎士の掌を焼き始める。
カァッ!
内臓を掴み上げられるような不快な衝撃。視界が歪み、平衡感覚が消失する。 数秒の暗転の後、俺たちの体は硬い石畳の上に投げ出された。
ガシャアアアンッ!!
食器が割れるような激しい音が響く。 転移した先は、ギルド前の広場ではなく、酒場エリアのど真ん中だった。
「な、なんだ!?」
「うわっ、どっから現れた!?」
さっきまで笑い声と酒の匂いに満ちていた空間が、一瞬で凍りついた。 談笑していた冒険者たちが椅子を蹴倒して立ち上がり、俺たちを凝視する。 昼下がりの穏やかな光の中で、俺たちが持ち込んだ「戦場の臭い」はあまりに異質だった。
血の臭い。肉の焼ける臭い。そして、あの化け物が放っていた、形容しがたい腐敗の臭い。
カウンターの中で、呑気にジョッキを拭いていた受付嬢の手が止まった。 彼女は俺たちを見た。正確には、俺たちが担いでいる、肩から先が消失しかかっているフィンの惨状を見た。
「あ……」
彼女の顔から、みるみるうちに赤みが引いていく。 手に持っていたジョッキが床に落ち、粉々に砕け散った。だが、彼女はそれに気づく様子さえない。
「……騎士……団……? そんな、フィン様……?」
彼女の喉は震え、言葉にならない喘ぎが漏れる。 いつもなら「お疲れ様です」と華やかな声をかけるはずの彼女が、ただ恐怖に目を見開き、金縛りにあったように動けなくなっていた。
「おい、ボーッとするな!!」
団長が吐血しながら叫ぶ。
「治療班だ!今すぐベテランの治癒師を呼べ!それと、ギルド支部長に伝えろ……『災厄』が来るぞと!!」
その怒号で、ようやくギルドが爆発したような騒ぎに包まれた。
「ひどい……すぐに治療班を!!」
俺たちはそのまま奥の治療室へと雪崩れ込んだ。
「副団長、すぐに傷を塞ぎます!動かないでください!」
ベテランの治癒魔導士が、フィンの焼けただれた肩に手をかざす。
『ハイ・ヒール』
淡い緑色の光が傷口を包み込む。 だが、次の瞬間だった。
ジュッ、ジュワワワッ……!
「が、あアアアアッ!!!」
フィンがのけぞり、喉が裂けんばかりの絶叫を上げる。 傷が塞がるどころか、緑色の光が触れた瞬間に黒い煙が噴き出し、傷口が生き物のように蠢いて健康な肉を腐らせ始めたのだ。
「な、なんだこれは!?回復魔法が……弾かれる!?」
治癒魔導士が狼狽して尻餅をつく。
「魔法をやめろ!魔力を餌にして進行している!!」
団長が怒鳴り、治癒魔導士を突き飛ばした。 団長は近くにあったナイフをランプの火で炙ると、脂汗を流すフィンの肩を押さえつけた。
「カイ、副団長の腕を押さえろ。暴れるなよ」
「だ、団長……まさか」
「汚染された肉がある限り魔法は効かん。……物理的に、食われた部位ごと切り落とす」
麻酔など待っている時間はない。 団長が躊躇なくナイフを入れる。
「ぐぅぅうううッ……!!」
フィンのうめき声と、肉が焼ける匂い。 切り離された黒い肉片が床に落ちる。それは宿主を失ってもなお、ピクピクと痙攣していた。
「今だ!傷口を塞げ!」
団長の合図で、震える手をした治癒魔導士が再び杖をかざす。
『ハイ・ヒール』
今度は黒い煙は出なかった。 えぐり取られた肉が再生し、なんとか出血が止まる。 俺はその光景に、今回の敵がただの魔物ではないことを改めて骨の髄まで理解させられた。 奴の攻撃を受けた箇所は、物理的に排除しない限り、回復すら許されないのだ。
応急処置を終え、俺は治療室の外廊下で壁にもたれて息をついていた。 手の震えが止まらない。 ふと、足音がして顔を上げる。 そこには、俺が森で助けた団員、ロッサが立っていた。
「カイ……さん」
「ロッサさん、無事でよかった。傷の具合は……」
「……辞めます」
ロッサはうつむいたまま、絞り出すように言った。
「え?」
「騎士を、辞めます。……俺は、もうダメだ。あの目が、あの笑い声が、瞼の裏に焼き付いて離れないんだ」
彼はガタガタと震えていた。 剣を握る手も、仲間を守る気概も、あの森で完全に折られてしまったのだ。
「情けないよな……。助けてもらったのに」
ロッサは腰に差していた短剣を抜き、鞘ごと俺の手に押し付けた。
「これは……?」
「『疾風の短剣』です。なけなしの給料を叩いて買った魔導具ですが……俺にはもう、過ぎた代物だから」
鞘からわずかに覗く刃が、淡い翠色の光を放っている。風の魔力を帯びた、一級品だ。
「俺の代わりに、なんて言える立場じゃない。でも、あんたならこれを使いこなせるはずだ」
ロッサは涙目で俺の手を強く握りしめた。
「頼む……。あいつを、殺してくれ」
助けた命が、心までは救えなかったという苦い現実。 俺は無言でその短剣を受け取り、強く頷いた。
その後、俺と団長、そして片腕を吊ったフィンは、ギルドの最上階にある会議室へと呼び出された。
そこには、この街のギルド支部長が不機嫌そうに座っていた。
「被害は甚大だと聞いたが……。ドラゴンを倒した変異種なら、その素材価値は計り知れんな」
支部長は報告書をパラパラとめくりながら、現場の惨状など興味がないといった口調で続ける。
「直ちに第二騎士団50名を派遣し、森を包囲殲滅せよ。素材の回収を最優先だ」
その言葉に、団長が机を叩き割る勢いで立ち上がった。
「正気か!?50名も送れば、50回あいつが進化するだけだと言っているんだ!!」
「君は私に口答えするのかね?たかだか変異種一体に、臆病風に吹かれたか」
支部長が鼻で笑う。 空気が凍りついた。俺も拳を握りしめるが、冒険者の俺には発言権がない。
「……口で言っても無駄みたいですね」
重苦しい沈黙を破ったのは、顔色の悪いフィンだった。
「カイくん、さっきの『あれ』出して」
俺は頷き、懐からガラス瓶を取り出した。 中に入っているのは、治療室でフィンの肩から削ぎ落とした、あの黒い肉片の一部だ。
「なんだそれは。汚らわしい」
支部長が眉をひそめる。 俺は無言で、テーブルの中央に置かれた照明用の魔石の近くに、瓶の中身をぶちまけた。
その瞬間だった。
ビチャッ!
豆粒ほどだった肉片が、魔石の光に触れた途端に跳ね回った。 魔石の魔力を瞬時に吸い尽くし、みるみるうちに膨張していく。 数秒もしないうちに、それは大人の拳ほどの大きさの、脈打つ肉塊へと変貌した。
「ひっ、うわあああっ!?」
支部長が椅子ごと後ろにひっくり返り、腰を抜かして後ずさる。 肉塊はさらに魔力を求めて、支部長の方へと這いずろうとした。 団長が剣の柄でそれを叩き潰し、完全に沈黙させる。
「分かった?生半可な魔力や生命力は、あいつの燃料にしかならないんです」
フィンが冷ややかに言い放つ。 会議室は静まり返っていた。
団長はさらに、机の上に広げられた地図を指差した。
「それに、悠長に騎士団を編成している時間などない。こいつの移動ルートを見てくれ」
地図上の赤い線は、森を抜け、一直線に南下していた。
「……森の生態系を食い尽くしたんだ。次は、より多くの『餌』がいる場所を目指す」
団長の指が、地図上のある一点で止まる。
「奴の狙いは、この街だ」
「な、なんだと……?」
「この速度なら、奴が街に到達するのは早ければ明日。……軍隊など連れて行けば、街に着く前に奴を完全無欠の魔王に育てることになる」
支部長の顔から血の気が完全に引いていた。 だが、彼は震える唇で、保身のための反論を絞り出した。
「だ、だが……たった三人で何ができる!相手はドラゴンを喰らう化け物なのだろう!?もし君たちが敗れれば、この街は無防備になる!そんな博打、承認できるわけがないだろう!」
バンッ!!
団長が再び机を叩く。今度は天板にヒビが入った。
「博打ではない、これは『選別』だ!!」
団長の怒号が部屋を揺らす。
「あの化け物と対峙して生き残れるのは、一撃も喰らわずに戦える者だけだ。この街に、それが可能な騎士が何人いる!?下手に数を揃えて、『回復しない傷』を負った敗残兵の山を築くつもりか!」
「う、うぐ……」
「それに、奴が街にたどり着いた時点で終わりだ。住民を喰らえば、奴は際限なく強くなる。……ここで止めるしかないんだよ」
支部長は脂汗を流し、言葉に詰まる。 そして、逃げ場を探すように矛先を俺に向けた。
「そ、それにだ!百歩譲って騎士団長クラスの二人はいい。だが、そこの彼はなんだ?ただの冒険者だろう!?」
支部長が俺を指差す。
「騎士団の命運を、部外者に託すと言うのか?もし失敗したら、責任は誰が……」
「カイがいなければ、私は死んでいました」
静かに、しかしハッキリとフィンが遮った。
「え……?」
「あの森での撤退戦、彼が真っ先に反応し、私の窮地を救ってくれた。……悔しいけど、純粋な反応速度だけで言えば、彼は私より上です」
フィンの言葉に、支部長が信じられないものを見る目で俺を見る。 団長がゆっくりと俺の方へ向き直った。
「カイ。支部長の言う通りだ。お前は騎士ではない。この街を守る義務も、死地へ赴く義理もない」
団長の眼光が、俺の心臓を射抜くように見つめる。
「報酬は弾む。だが、金で買える命ではないことも分かっている。……今ここで断り、街を出ても誰も責めん。どうする」
部屋中の視線が俺に集まる。 俺は腰に差した『疾風の短剣』の柄に触れた。 ロッサさんの、震える手と涙。 託された思い。 そして何より、あの化け物がこの街の人々を蹂躙する光景が脳裏をよぎる。
「……行きます」
俺は短く答えた。
「俺は、あいつの怖さを知っています。だからこそ、ここで逃げたら一生後悔する。……それに」
俺はニヤリと、努めて勇敢に笑って見せた。
「最強の騎士二人が背中を預けてくれるなら、負ける気がしませんから」
団長が、ほう、と息を吐き、満足げに口元を緩めた。
「よく言った」
団長は再び支部長を睨みつける。
「聞いたな。討伐隊は編成しない」
支部長はもう、何も言えずに力なく椅子に沈み込んだ。
「俺と副団長、そしてカイ。この3名を主軸とし、死ぬ気で奴を止める」
団長が俺とフィンの肩に手を置き、低く、重く宣言した。
「装備を整えろ。……これは狩りではない。戦争だ」




