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04:淑女は物理で語り合う

「手荒な真似はしたくありませんの」


 レティシアが発した言葉は、か細くも凛として、大広間に響き渡った。

 しかし、未来の王たる王太子の命令を受けた騎士たちには、それは悲鳴にも似た虚勢としか聞こえなかった。先頭に立っていた騎士――名をクリストフという――は、憫笑を浮かべながら、その細腕を掴み取ろうと無遠慮に手を伸ばす。公爵令嬢の柔肌を捕らえ、この茶番劇に終止符を打つ。その栄誉は自分がいただくのだ、と。

 だが、彼の指先が瑠璃色のドレスの袖に触れることは、なかった。

 触れる、その寸前。レティシアの身体が、ふわりと沈んだ。

 それは、ワルツのステップで優雅に膝を折るカーテシーの初動のようだった。

 しかし、次の瞬間、その動きは致命的な牙を剥く。

 沈み込んだ勢いをそのまま利用し、彼女の体はコマのように鋭く回転。

 クリストフの伸ばされた腕は、空を切るどころか、まるで蛇に巻き付かれるようにレティシアのしなやかな腕に絡め取られていた。


「えっ――」


 クリストフが驚愕の声を上げる間もない。レティシアは、絡め取った彼の腕を支点に、流れるような動きで体勢を入れ替える。

 軽鎧を着こんだ青年男性の身体が、いとも簡単にたたらを踏む。

 レティシアがいかに豪胆でも、騎士の鎧の上から殴りつけることなどできない。

 だからこそ、彼女が狙うのは鎧の継ぎ目部分。つまり、関節だった。


「ごめんあそばせ」


 手首、肘、肩。人体の構造を知り尽くした者だけが可能な、完璧な角度と力。レティシアは流れるような美しい動作で、三つの関節を同時に極めた。

 そして。

 ゴキッ、と。骨と筋が悲鳴を上げる鈍い音が響く。


「ぐあああああっ!?」


 鍛えられているはずの騎士が、虚勢を張る余裕もなく絶叫した。

 レティシアはその反応を気に留めるでもなく、力の流れを支配し、翻弄する。

 そうして。

 屈強な騎士の身体が、まるで操り人形のように宙を舞った。


 ドダァンッ!!


 次の瞬間、騎士は床に叩きつけられていた。

 レティシアは、彼の背中にハイヒールの踵を軽く乗せ、完全に動きを封じる。

 その一連の動作は、ほんのわずかな時間のもの。

 あまりに滑らかで、あまりに洗練された動き。

 周囲の者たちは何が起こったのかすら正確に認識できなかった。ただ、ひとりの騎士が、悲鳴と共に床に転がったという事実だけが、目の前に横たわっていた。


「な、何をした!?」

「クリストフが……一撃で!?」


 騎士たちが動揺し、包囲網に一瞬の隙が生まれる。

 レティシアはそれを見逃さない。

 彼女は、倒したクリストフの足を掴む。放り投げるように、力を込めて、自身の体と共に一回転。その遠心力で勢いよく、倒した騎士を前方へと滑らせた。

 倒された仲間が第二、第三の騎士の足元を狙う障害物と化す。

 騎士たちはつまずいて体勢を崩した。

 もちろん、レティシアはその隙を見逃さない。

 不安定な騎士たちの目の前へと静かに移動。

 そして彼らの顔面に、寸分の狂いもなくドレスシューズの爪先を叩き込む。


「ぐぅっ」

「ぐはっ!!」


 それは乱暴な蹴りではない。人体の急所である、こめかみや顎先を的確に捉える、芸術的なまでの「打撃」だった。

 恐慌に駆られたのか、騎士のひとりがレティシアに殴り掛かる。相手が令嬢であるといった気遣いは微塵もない。ただ恐怖の対象を目の前から消す、という衝動的なものだった。

 だがレティシアは、振り下ろされるその拳を、ひらりと身をかわして避ける。


「お戯れが過ぎますわよ。淑女の顔に、そのような無骨な拳を向けるものではございません」


 そのまま相手の脇をすり抜ける瞬間。肘を折りたたみ、軽鎧の継ぎ目の隙間――脇腹の肋骨の下――肝臓の位置に、完璧な角度で叩き込んだ。


「ぐっ……ぉえ……っ」


 騎士は声にならない呻きを漏らし、呼吸困難に陥ってその場に崩れ落ちた。内臓に直接響く衝撃は、外傷はなくとも、戦闘能力を根こそぎ奪い去る。

 レティシアの戦い方は、舞踊だった。ワルツのステップで相手の攻撃半径から逃れ、タンゴのキレで急所に打撃を叩き込む。ドレスの裾が翻る様は、まるで戦場に咲いた瑠璃色の花のよう。ハイヒールで床を蹴る音が、楽団の止まった大広間に、美しくも恐ろしいリズムを刻んでいく。


「こ、この女、化け物か!?」

「囲め! 囲んで動きを封じろ!」


 騎士たちは、ようやく目の前の令嬢がただの深窓の姫ではないことを悟った。彼らは恐怖を怒りで上書きし、複数で同時に襲いかかる。

 四方から突き出される剣の鞘。

 それは剣先で仕立てた柵のごとし。

 逃げ場はない。


「ふふっ」


 しかし、レティシアは慌てない。

 彼女は、その場でふわりと跳躍した。

 高く、ではない。テーブルの上に乗るための、優雅な跳躍だ。

 近くにあった、料理が並べられた円卓の上に、猫のように軽やかに着地する。銀食器がカシャン、と心地よい音を立てた。


「まあ、見晴らしがよくなりましたわ」


 彼女は、テーブルの上にあったローストビーフの塊を手に取ると、それを一番近くにいた騎士の顔面に投げつけた。熱い肉汁とグレイビーソースが騎士の顔面を直撃し、彼は「あつっ!?」と悲鳴を上げて視界を奪われる。

 その隙に、レティシアはテーブルクロスを掴み、勢いよく引いた。皿、グラス、カトラリー、食べ物の全てが、雪崩を打って周囲の騎士たちに降り注ぐ。


「うおっ!?」

「ぐわっ!?」

「くそっ!!」


 ひとりの令嬢を囲みながら、騎士団の間に悲鳴と混乱が広がる。

 そのさなかに、彼女はテーブルから再び床へと舞い降りた。


「連携がなっておりませんわ。騎士団の訓練とは、その程度のものですの?」


 彼女の口調は、どこまでも淑女のものだった。しかし、その言葉の内容と、彼女が繰り出す技のえげつなさのギャップが、見る者に異様な恐怖を与える。

 ひとりの騎士が、恐怖を振り払うように剣を抜いた。真剣の輝きが、シャンデリアの光を反射してきらめく。


「武器の使用を許可する! 王太子に逆らう反逆者だ、斬り捨てても構わん!」


 騎士団長代理の絶叫が響き、他の騎士たちも次々と剣を抜いた。会場から、令嬢たちの悲鳴が上がる。

 もはやこれは、捕縛劇ではない。処刑だ。その始まりから、思わぬ展開を見せる一部始終を、アルフォンスとイザベラは、壇上で呆然と見つめていた。


「いったい、なぜこんなことに」


 アルフォンスは、目の前の出来事が信じられなかった。あの、か弱く、淑やかだったはずのレティシアが、歴戦の騎士たちを素手でいなし、なぎ倒している。まるで悪夢のよう、いや悪夢そのものだ。

 イザベラは、恐怖に顔を引きつらせていた。彼女の計画では、レティシアは泣きながら許しを乞い、無様に連行されるはずだった。こんな、怪物のような本性が隠されているなど、聞いていない。計算が根底から狂っている。まさか、騎士団の面々が剣を抜き、無手の令嬢に向かって本気で切り掛かるような事態になるとは思いもしなかった。


「危ないですわね、刃物は」


 レティシアもさすがに余裕綽々とはいかない。気を引き締めねばなるまい。

 新たに襲い掛かってくる長剣。彼女はそれを変わらぬステップで身体をわずかに逸らし、紙一重でかわしてみせる。

 だがレティシアはまだ、経験が足りなかった。例え、巨大な熊を相手に臆することなく相撲が取れる胆力はあっても、剣を手に恐慌する人間の前に立つのは初めてのことだった。

 つまり、相手が想像を超えた力を振るってくるという、火事場の馬鹿力のようなものを考慮していなかった。

 騎士の振るった剣先が、彼女の頬を掠めたのだ。

 肌には触れなかった。しかし、一筋の金髪がはらりと舞う。

 レティシアは驚きの表情を浮かべた。

 だがすぐに、己の未熟さを恥じる。

 そして、彼女の瞳が、すっと細められた。


「わたくしの髪に、傷をつけましたわね?」


 その声は、それまでのものとは明らかに違う。氷のように冷たい響きを帯びていた。斬りつけた騎士が、わずかにたじろいでしまう。


「母から譲り受けた、自慢の髪ですのよ」


 次の瞬間、レティシアの動きの質が変わった。

 それまでの「舞い」に、「狩り」の鋭さが加わったのだ。

 彼女は、剣を振り下ろして体勢が崩れた騎士の腕の内側、関節の隙間に指を滑り込ませる。人体で最も繊細で、最も痛みを感じる神経が集中する場所。そこに、針を刺すような的確さで指圧を加えた。


「ぎぃやあああああっ!」


 騎士は、腕が引き千切れるかのような激痛に絶叫し、剣を取り落とした。

 レティシアはその剣を蹴り上げ、空中で柄を掴む。そのまま流れるような動きで、峰打ちを別の騎士の首筋に叩き込んだ。その騎士は白目を剥いて崩れ落ちる。

 彼女は、武器を手にしても、決して刃を使わない。それは、彼女の中に残る最後の「淑女の嗜み」なのか、あるいは相手を殺さずに無力化する方が「面倒が少ない」という合理的な判断なのか。


「囲め! 囲んで動きを止めろ!」


 騎士たちは、近接戦闘を諦め、距離を取って剣を構えた。幾本もの剣先がレティシアに向けられる。疑似的な槍衾を展開しているような形となる。


「まあ、綺麗な幾何学模様ですこと」


 レティシアは、そんな絶望的な状においてですら、呑気に感想を述べた。

 そして、誰もが予期しない行動に出る。

 彼女は手にした長剣を、槍投げのように構え、騎士団長代理の足元めがけて思いきり投擲した。ヒュン、と風を切る音と共に、剣は大理石の床に突き刺さり、甲高い金属音を響かせる。

 騎士たちの意識が、一瞬だけその剣に引きつけられた。

 わずか、コンマ数秒の隙。

 レティシアは、床を蹴った。向けられた剣先が連なる中の、最も密度の薄い場所へと。一直線に。


「愚かな!」


 騎士たちは、自ら死地に飛び込んできた獲物を仕留めんと、剣を突き出す。

 一瞬早く、レティシアは跳躍した。

 そして、突き出された剣の腹へ華麗に着地し、足場にする。

 突き出された一本の剣を踏み台にして跳ぶ。

 さらにもう一本の剣の柄を掴んで身体を支え、まるで軽業師のように宙を舞う。

 レティシアは美しく、ドレスのスカートをはためかせながら、剣でできた柵の上を、重力を無視して駆け抜けていった。

 騎士たちは、頭上を舞う瑠璃色の幻影を、ただ呆然と見上げるしかない。

 そして、彼女は囲んできた騎士たちの背後、完全に無防備になっていた騎士団長代理の目の前に、音もなく着地する。


「なっ――」

「ごきげんよう」


 にこり、とレティシアが微笑んだ瞬間。

 彼女の完璧なアッパーカットが、騎士団長代理の兜ごしに顎を打ち抜いた。

 ゴォン、と鐘を突いたような鈍い音が響く。巨漢の身体はきりもみしながら宙を舞い、シャンデリアの鎖にぶつかって派手な音を立てて落下した。

 決して、見間違いではない。騎士団長代理の巨体が、儚げな容貌の公爵令嬢の拳によって、宙を舞った。


「……」


 それを最後に、音が止んだ。大広間は死んだように静まり返った。

 聞こえるのは、倒れた騎士たちの呻き声と、レティシアの静かな呼吸音だけ。

 床には、十数名の屈強な騎士たちが、折り重なるようにして転がっている。

 その中心に、ドレスの裾を少しも乱さず、涼しい顔で立つひとりの令嬢。

 その光景は、あまりに非現実的で。

 悪夢的で。

 圧倒的に美しかった。


 バァンッッッ!!


 誰もが息をのむなか、大広間の扉が勢いよく開かれた。騒ぎを聞きつけたのか、ひとりの壮年の男が飛び込んでくる。王宮騎士団を束ねる、ゲオルグ騎士団長その人だった。

 彼は目の前の惨状――いや、彼の教え子が作り出した芸術作品を見て、一瞬目を見開いた後、頭を抱えた。


「お嬢様! また派手にやっておられる! 父君である公爵閣下に、わしはなんと報告すればよいのですか!」


 その声は叱責しているようでありながら、どこか誇らしげな響きがあった。彼は、レティシアの規格外の実力を知る、数少ない人物のひとりだった。


「あら、ゲオルグ団長。ごきげんよう。皆様、少し運動不足のようでしたので、わたくしがお稽古をつけて差し上げましたのよ」


 レティシアは、悪びれる様子もなく、優雅に答えた。

 彼女は乱れた髪を一筋、指で梳いてかきあげると、ゆっくりと壇上へと歩を進める。転がる騎士たちを、まるで道端の小石のように、気にも留めず。

 向かう先は、大広間の檀上。婚約者と聖女が立っている場所。一歩、また一歩と、彼女が近づくにつれ、アルフォンスとイザベラの顔から血の気が引いていく。

 壇上にたどり着いたレティシアは、尻餅をついて震えているアルフォンスと、その後ろで失神寸前のイザベラを見下ろした。その瞳には、怒りも侮蔑もない。ただ、面倒な虫でも見るかのような、無関心があった。


「茶番は、もうおしまいですわよね。殿下?」


 その声に、アルフォンスはびくりと身体を震わせた。

 レティシアはそんな彼を意にも介さず、スカートの裾を優雅につまむと、深々と、完璧な淑女のカーテシーをしてみせた。それは、皮肉にも、彼女がこれまで演じてきた中で、最も美しいお辞儀だった。


「わたくし、レティシア・フォン・ベルンシュタイン。殿下による婚約者候補からの除外、謹んでお受けいたしますわ。つきましては、今後わたくしとベルンシュタイン家に対し、一切の関わりを持たぬよう、お願い申し上げます」


 彼女は、静かにそう告げた。

 それは、もはや願いではなく、決定事項の通告だった。


「それでは皆様、ごきげんよう」


 レティシアは、くるりと背を向けた。

 呆然と立ち尽くす貴族たち。

 声も出せない王太子。

 そして床に転がる騎士たち。

 その異様な光景を後に、彼女は誰に止められるでもなく、悠々と大広間を去っていった。ハイヒールのコツ、コツ、という音が、まるでこの馬鹿げた断罪劇の終幕を告げるカーテンコールのように、いつまでも響いていた。


「ああ、疲れましたわ。早く帰って、お風呂に入りたいですわね……」


 扉が閉まる直前、彼女が小さく呟いた言葉を聞いた者はいなかった。



 -つづく-


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