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02:聖女の涙とドジっ子疑惑

 王太子アルフォンスが、聖女イザベラを公然と寵愛するようになってから数週間が過ぎた。王立学園の空気は、まるで上質なワインに一滴の酢が垂らされたかのように、繊細かつ決定的に変質していた。

 これまで社交界の華として、誰もが憧憬と若干の畏怖の念を向けていたベルンシュタイン公爵令嬢・レティシア。今や彼女は、奇妙な好奇と憐憫、そして微かな敵意が入り混じった視線に晒されるようになっている。

 しかしレティシアは、そんな周囲の変化をどこか他人事のように捉えていた。


(まるで舞台劇のようですわね)


 彼女にとって、王太子の寵愛が誰に向こうが、婚約者候補の椅子取りゲームがどうなろうが、大した問題ではなかった。むしろ、自分への注目が薄れれば、面倒な社交から解放されて木登りにでも行けるかもしれない、とすら考えていた。

 レティシアの行動原理はただひとつ、「面倒事を避ける」こと。そのためならば、淑女の仮面を被り続けることなど造作もない。

 しかし、その平穏な傍観者の立場は、聖女イザベラによって静かに、そして執拗に脅かされ始めていた。休み時間の廊下ですれ違うたび、可憐な顔に憂いを浮かべたイザベラが、潤んだ瞳でこちらを一瞬だけ捉えて、すぐに逸らす。その一連の動作は、周囲の者たちに「ああ、聖女様は悪役令嬢のレティシア様に怯えていらっしゃるのだ」という誤った印象を植え付けるには十分すぎた。


(……視線が、熱いですわね)


 レティシアは、それが自分への良からぬ感情からくるものだとは露ほども思っていない。彼女はただ、最近やけに注目を浴びるな、と呑気に考えているだけだった。面倒事の気配が、すぐ足元まで忍び寄っていることにも気づかずに。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 そして、事件は起こった。

 事件の幕開けに選ばれた舞台は、中庭で開かれた貴族令嬢たちのティーパーティー。初夏の日差しが木々の葉を透かし、テーブルの上には色とりどりのマカロンや宝石のようなゼリーが並ぶ。完璧な淑女であるレティシアは、当然のようにその中心に座っていた。


「レティシア様の選ばれた茶葉は、いつも本当に素晴らしい香りですわね」

「このスコーンも、ベルンシュタイン公爵家御用達のパン屋のものですって? さすがですわ」

「皆様のお口に合ってよかったですわ」


 令嬢たちの賞賛の声に、レティシアはと完璧な微笑みを返す。内心では「この茶葉の香りも良いけれど、雨上がりの土の匂いには負けますわね」などと考えているのだが、その本心を知る者は誰もいない。

 穏やかな時間が流れる中、ふと輪の中に緊張が走った。聖女イザベラが、おずおずといった様子でティーパーティーに加わってきたのだ。

 彼女の周りだけ空気が変わる。令嬢たちは、レティシアとイザベラを交互に見比べ、固唾を飲んだ。これから何かが起こる、そんな予感が場を支配していた。

 イザベラは、アルフォンス王太子から教わったのであろう付け焼き刃の作法で紅茶を一口飲むと、ふらり、と立ち上がった。そして、まるで何かに引かれるように、レティシアの席へと近づいてくる。


(あら、わたくしに何かご用かしら?)


 レティシアが不思議そうに小首を傾げる。

 その瞬間だった。


「きゃっ!」


 イザベラは、レティシアのすぐ隣で、見事なまでにわざとらしくつまずいた。彼女の手にしたティーカップが宙を舞い、中の紅茶が放物線を描く。

 イザベラの狙いは明確だった。この紅茶をレティシアに浴びせかけ、汚れたドレスに逆上したレティシアが自分を詰る――そうすれば、周囲には「嫉妬に狂ったレティシアが、聖女イザベラに紅茶を浴びせ、さらに罵倒した」という筋書きが完成する。完璧な被害者の出来上がりだ。

 ただし、それは成功すればの話。

 彼女は、レティシアの規格外性を見誤っていた。

 紅茶がレティシアの肩にかかる、その寸前。

 レティシアの身体が、椅子に座ったまま、ほんのわずか傾く。それはバレエダンサーが完璧なバランスを保つような、最小限かつ優雅な動き。常人ならば目で追うことすら難しいその神速の回避行動によって、紅茶は一滴たりとも彼女のドレスに触れることなく、虚しく背後の芝生を濡らした。

 それだけではない。バランスを崩して倒れ込んできたイザベラの身体は、固い地面に打ち付けられる代わりに、ふわりとした何かに受け止められた。レティシアが、左手でカップとソーサーを持ったまま、右腕一本でイザベラの身体を絶妙な力加減で支えたのだ。その所作はあまりに自然で、まるで最初からそうするつもりだったかのように滑らかだった。


「あら、イザベラ様。足元の芝生が少し盛り上がっておりましたわね。お怪我はございませんか?」


 レティシアは、心の底から心配そうな声で言った。彼女の目には、芝生のわずかな起伏に足を取られてしまった、不運でドジな令嬢の姿しか映っていない。


「だ、大丈夫です……わ……」


 イザベラの目論みは完全に失敗した。

 内心で歯噛みをしながら、彼女はレティシアの腕の中から身体を起こす。

 信じられない、という表情を隠せない。

 今のは一体何?

 まるで、自分が倒れることが分かっていたかのような完璧な対応。

 偶然?

 いや、偶然にしては出来すぎているだろう。

 イザベラはあまりにも想定外な出来事に頭を混乱させる。

 さらに、彼女の誤算はもうひとつあった。イザベラの計画は失敗したかもしれないが、「結果」は彼女の望む方向に転がっていたのだ。

 目の前で起きた、目にも止まらぬ出来事に、周囲の令嬢たちは仰天する。

 そして、確認できた最後の姿だけを見て、彼女たちはこう解釈した。


「今のは……レティシア様が、イザベラ様を突き飛ばそうとなさったのでは?」

「ええ、でもすんでのところで思いとどまったように見えたわ。さすがに人目があったからかしら」

「イザベラ様、お可哀想に……」


 囁き声が、毒のように広がっていく。イザベラは、その空気を敏感に感じ取り、すぐさま作戦を変更した。潤んだ瞳でレティシアを見上げ、か弱い声で言う。


「ごめんなさい、レティシア様……わたくしの不注意でご迷惑を……」


 その涙声が、周囲の誤解を確信へと変えた。ああ、やはり。聖女様は、悪役令嬢に酷い目に遭わされても、なお相手を気遣う心優しきお方なのだ、と。

 レティシアだけが、そんな周囲の勘違いに全く気付いていない。


「いいえ、お気になさらないで。それより、新しい紅茶をお持ちしますわね」


 そう言いながら、どこまでも親切に微笑むのだった。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 第二の事件が起きたのは、その数日後。場所は、陽光すらも知識の重みに沈黙する、王立学園の広大な図書室だった。

 レティシアは閲覧室の奥まった席で、古代魔法文明に関する分厚い古書を読みふけっていた。彼女にとって、複雑な人間関係が渦巻く社交場よりも、こうして静かに知的好奇心を満たす時間の方が、よほど有意義だった。


(この時代の護身術は、現代の格闘術にも通じる理合があるようですわね。面白いですわ)


 そんなマニアックな感想を抱いていると、ふと、背後に人の気配を感じた。

 振り返るまでもない。あの、独特の甘い香水の匂い。イザベラだった。

 イザベラは、わざとらしく数冊の重い本を抱え、レティシアの隣の席にやってきた。そして、机に本を置くふりをして、そこにあったインク瓶に肘を「うっかり」ぶつけたのだ。

 カタッ、という小さな音と共にインク瓶が傾いた。黒々とした液体が、レティシアの広げている貴重な古書めがけて流れ出す。

 イザベラの狙いは、ティーパーティーの時と同じだ。今度こそ、レティシアの大切なものを汚し、彼女を激昂させる。感情的になった公爵令嬢が、聖女に手を上げる――これ以上のスキャンダルはない。

 だがまたしても、イザベラの計画は失敗する。レティシアの超人的な能力の前に、浅はかな企みは粉砕されることになった。

 倒れた瓶のインクが本のページに到達するまで、コンマ数秒。

 その刹那、レティシアは動いた。

 まず、右手で古書を音もなく閉じ、素早く自分の胸元に引き寄せる。

 同時に、左手は空中でインク瓶そのものを鷲掴みにし、さらなる流出を阻止。

 そして、極めつけは彼女の足だった。テーブルの下で、流れ落ちるインクがイザベラ自身の純白のドレスを汚すのを防ぐため、スカートの裾を軽く蹴り上げ、軌道を逸らさせたのだ。

 これら一連の動作が、ほとんど同時に、淀みなく行われた。静寂な図書室に響いたのは、インク瓶がレティシアの手に収まる、カチリという微かな音だけ。

 何が起こったのか、イザベラ自身も理解が追いつかない。ただ目の前で、レティシアが傾いたインク瓶を指先でつまみ、にこやかに微笑んでいるだけだ。


「まあ、またですの? イザベラ様は、本当にそそっかしい方ですのね」


 レティシアの声は、呆れよりもむしろ、親しみがこもっていた。まるで、目が離せない妹の面倒を見る姉のようだ。


「このインクは染みになると、なかなか落ちなくて大変ですのよ。特にお召しになっているような上等なシルクは。お気をつけにならないと」

「あ……、あ……」


 イザベラは言葉を失った。今回もまた、計画は完璧に失敗した。それどころか、自分のドレスまで守られてしまった。

 この女は、一体何者なのだ?

 本当にただの公爵令嬢なのか?

 イザベラの背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。

 そして、この事件もまた、周囲の歪んだフィルターを通して解釈される。物陰でこっそり様子を窺っていた生徒たちは、こう噂を広めた。


「見た!? レティシア様が、イザベラ様にインクをかけようとしてた!」

「イザベラ様がとっさに躱したから未遂に終わったみたいだけれど……なんて恐ろしいことを」

「古書を読んでるふりして、機会を窺ってたのね……」


 なんという擦れ違い。なんという勘違い。

 レティシアが本気で心配すればするほど、イザベラが恐怖に引きつった顔をすればするほど、悪役令嬢と哀れな聖女の構図は、より強固なものになっていった。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 そして、決定的な事件が起こる。

 放課後の王立学園、多くの生徒たちが行き交う中央ホールの大階段。夕暮れの光がステンドグラスを通して、床に幻想的な模様を描き出している。

 レティシアが友人との会話を終え、ひとりでその大理石の階段を降り始めた時だった。階段の下の方から、アルフォンス王太子が側近たちと談笑しながら上がってくるのが見えた。

 ここでイザベラが行動を起こす。

 アルフォンスの視界に自分の姿が入ることを計算に入れながら、イザベラは、レティシアの数段下を歩いていた。そして、クライマックスの舞台が整ったことを確認すると、最後の賭けに出た。


「きゃあああああっ!」


 甲高い悲鳴と共に、イザベラの身体はバランスを崩し、階段を転げ落ちていく。もちろん、自ら足を滑らせた、渾身の演技だ。

 周囲の生徒たちが息を飲む。誰もが、悲劇が起きると思った。

 だが、レティシアはもはや「イザベラ様はドジ」という前提で物事を見ている。彼女の身体が反応する方が、思考よりも速かった。


「危ないですわ!」


 レティシアはドレスの裾が邪魔になるのも構わず、タ、タンッ、と、階段を二段も三段も飛び越えるように駆け下りた。その動きは、重力を無視したかのように軽やかで、それでいて獣のような俊敏さを秘めていた。

 転げ落ちるイザベラの背後に回り込むと、その華奢な体を、まるで綿毛でも抱きとめるかのように優しく、しかし確実に受け止める。

 そして落下と跳躍の勢いを殺すため、くるりと一度その場で舞うように回転し、イザベラに一切の衝撃を与えることなく、踊り場にそっと着地した。

 完璧な救助劇。騎士団の救命術教官が見れば、感涙にむせびながら教えを乞うであろうほどの、神技だった。

 しかし、その神技を目撃したアルフォンス王太子の口から飛び出したのは、賞賛の言葉ではなかった。


「レティシアッ!!」


 地を揺るがすような怒声だった。彼は血相を変えて階段を駆け上がってくると、レティシアからイザベラを引き剥がすように抱き寄せる。


「貴様、今、この衆人環視の中でイザベラを突き落とそうとしただろう! なんという悪辣な女だ!」

「……え?」


 レティシアは、ぽかん、と口を開けた。何を言われているのか、全く理解ができない。自分は今、イザベラを助けたのではなかったか。なぜ、殿下はこんなにもお怒りなのだろうか。

 アルフォンスの腕の中で、イザベラは絶好の機会を逃さなかった。わなわなと震えながら、涙を滝のように流し、アルフォンスの胸に顔をうずめる。


「ち、ちがうんです、殿下……! レティシア様は、きっと、わざとでは……。わたくしが、邪魔だったから……うぅっ」


 庇っているようで、全ての罪をレティシアに押し付ける、悪魔的な話術。その言葉は、アルフォンスの正義感とイザベラへの庇護欲に火を注ぎ、彼の頭を完全に沸騰させた。


「言い訳は聞かん! 貴様のような女が、私の妃候補であること自体が国の恥だ! 覚えておけ!」


 そう吐き捨てると、アルフォンスは泣きじゃくるイザベラを抱きかかえ、その場を去っていった。

 残されたのは、大勢の生徒たちの非難がましい視線と、状況が全く飲み込めずにただ首を傾げるレティシアだけだった。


(なぜ、殿下はあんなにお怒りだったのかしら……? ああ、そうか。わたくしがイザベラ様に触れたのが、お気に召さなかったのね。本当に、イザベラ様のことを大切に思っていらっしゃるんだわ)


 彼女の中で、「アルフォンス殿下=イザベラ様を心配するあまり、少し早とちりをしてしまう、一途な方」という、どこまでも好意的な解釈が成立した。

 この一連の事件を経て、学園内でのレティシアの立場は完全に「極悪非道な悪役令嬢」として確立された。彼女がどこを歩いても、ひそひそ話と非難の視線が突き刺さる。

 しかし、当の本人はそんな周囲の変化にまったく気づいていなかった。


「それにしても、イザベラ様は本当に目が離せない方。次にまた転んだり、何かをこぼしたりしたら、わたくしがすぐに助けて差し上げなくては」


 純粋な善意と使命感から、レティシアはこれまで以上にイザベラを気にかけるようになった。その慈愛に満ちた(しかし周囲からは、次の嫌がらせの機会を虎視眈々と狙う監視の目としか見えない)視線が常に向けられる。そんなレティシアの姿が、後に卒業記念パーティで繰り広げられる断罪劇の引き金となることを、彼女はまだ知る由もなかった。


「最近、やけに視線を感じますわ。ひょっとしてわたくしも、イザベラ様のように人気者になったのかしら?」


 レティシアが宇宙規模のとんでもない勘違いをしていることも、誰にも知られぬままに。運命の日は刻一刻と近づいてくるのであった。



 -つづく-


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