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01:猫かぶり令嬢の憂鬱

全6話、約26000字の悪役令嬢系アクションコメディ小説。

1日に朝夕の2回更新、3日間で完結します。


それではどうぞ。


 ミッテルラント王国にある、貴族の令息や令嬢たちが集う学び舎・王立学園。

 春の日差しが温かい、とある日。王立学園の庭園に設けられた東屋にて、令嬢たちがお茶会を催していた。甘やかな花の香りと、銀食器が触れ合う澄んだ音に満ちている。柔らかな陽光がレースのパラソルを透かし、テーブルに並べられた色とりどりのマカロンやタルトを、宝石のようにきらめかせている。令嬢たちの華やかなドレスが風に揺れ、楽しげな笑い声が蝶のように舞っていた。

 その中心に、一輪の白百合のように咲き誇る令嬢がいた。

 ベルンシュタイン公爵家のひとり娘で、公爵家が誇る至宝と称される少女。

 レティシア・フォン・ベルンシュタイン。

 陽光を溶かし込んだかのような艶やかな金髪は、編み込まれた髪の一筋まで計算されたように完璧で、澄み渡る湖面を思わせる碧眼は、知性と品格を湛えている。背筋を伸ばし、カップをソーサーに戻すその指先の動きひとつ取っても、まるで詩の一節のように優雅だった。


「まあ、レティシア様。そのレースの手袋、とても素敵ですわね」

「ええ、今日のドレスにぴったりですわ。まるで芸術品のよう」

「ありがとう存じます。母がわたくしのために選んでくれたものですの」


 周囲の令嬢たちから寄せられる賛辞の言葉に、レティシアは完璧な淑女の微笑みをもって答える。

 その声は春の小川のせせらぎのように心地よく、誰もが聞き惚れてしまう。

 だが、その完璧な淑女の仮面の下で、彼女の思考はまったく別の方向へと駆け巡っていた。


(……手袋。ええ、確かに繊細な刺繍ですわね。でも、この薄さでは木の幹を掴んだら一瞬で破れてしまうでしょう。やはり、猪のなめし革で作った特注品が一番ですわ。泥も弾きますし)


 向けられる羨望の眼差しを浴びながら、彼女は内心でそっとため息をつく。

 面倒だ。

 その言葉こそが、今のレティシアの本心であった。

 武門の誉れ高きベルンシュタイン公爵家に生を受けながら、彼女は幼少期から規格外のお転婆だった。

 三歳で屋敷の尖塔によじ登り。

 五歳で裏山のヌシと恐れられた大猪に追いかけっこを挑み。

 七歳の頃には庭に迷い込んだ子熊と(本人は相撲のつもりで)組み合って、危うく絞め落としかけた過去を持つ。

 その度に、母である公爵夫人は卒倒し、「淑女たるもの、もっと淑やかに!」と涙ながらに訴えた。父である公爵は「はっはっは、俺の血だな!」と豪快に笑うだけだったが。

 母の悲しむ顔を見るのは忍びない。レティシアなりに、どうしたものかと考えをめぐらせた。そうこうしているうちに、彼女自身も学んでみせた。

 目立つことは、すなわち面倒事を呼び込むことだと。

 以来、彼女は完璧な猫を被ることにした。淑女の作法を完璧にマスターし、常に微笑みを絶やさず、当たり障りのない会話に終始する。その努力は見事に実を結び、今や彼女は『社交界の生きた宝石』とまで呼ばれるようになっていた。面倒事を避けるための処世術が、皮肉にも彼女を社交界の中心へと押し上げてしまったのである。


「レティシア様は、次期王太子妃の最有力候補ですものね。わたくしたちとは、もう住む世界が違ってしまわれますわ」


 周囲に侍る令嬢のひとりが、憧れと少しの嫉妬を混ぜた声で言う。

 だがレティシアにとっては、それこそ面倒事の最たるものだった。


(王太子妃……ああ、なんて面倒な響きでしょう。一日中ドレスを着て、政治の話を聞いて、外国の賓客に愛想を振りまく毎日。そんなものより、雨上がりの土の匂いを嗅ぎながら、沢蟹を追いかける方が一億倍は楽しいですのに)


 王太子アルフォンスとの婚約。それはベルンシュタイン公爵家の令嬢として生まれた彼女に、生まれた時から課せられた責務のようなものだった。もちろん、他にも数人の候補はいるが、家格や本人の評価から見ても、レティシアが最有力であることは誰の目にも明らかだった。

 彼女自身、その運命を甘んじて受け入れるつもりでいた。面倒ではあるが、それが公爵家の利益となり、ひいては己の平穏に繋がるのなら、仕方がない。そう割り切っていた。


 ――最近、あの『聖女様』が現れるまでは。


 レティシアがそんなことを思い巡らせていると。

 思わぬトラブルが発生する。


「きゃっ!」


 小さな悲鳴と共に、ガシャン、と耳障りな音が響いた。

 見れば、ひとりの給仕が絨毯の僅かな段差に足を取られ、体勢を崩していた。その手には、熱い紅茶がなみなみと注がれた銀のティーポットと、三段重ねのケーキスタンド。それらがすべて、慣性の法則に従ってレティシアの頭上めがけて降り注ごうとしていた。


「レティシア様!」


 周囲の令嬢たちが息を呑み、悲鳴を上げる。熱い紅茶、べたつくクリーム、皿の破片。それらがレティシアに降り注ぎ、想像するだに恐ろしい惨劇が起こるかと思われた。

 しかし、レティシアは冷静だった。

 彼女の碧眼が、落下してくる物体をスローモーションで正確に捉える。


(ティーポットの角度よし。ケーキスタンドの回転速度よし。回避は容易。ですが、ドレスが汚れるのは面倒ですわね。それに、このイチゴのタルトはなかなかの出来栄え。床に落とすのは惜しい……)


 コンマ一秒にも満たない思考の末、彼女は最適解を導き出す。次の瞬間、レティシアはほんのわずか、誰にも気づかれぬほど微かに動いた。

 まず、倒れ込んできた給仕の脇腹あたりに、そっと左のつま先を差し入れる。それは支点となり、給仕の身体が床に激突する衝撃を和らげ、怪我をしない絶妙な角度でゆっくりと着地させた。

 同時に、右手を蝶のように舞わせる。降り注ぐティーポットの取っ手を優雅に掴み、空中でくるりと一回転させた。遠心力で中の紅茶が一滴もこぼれないように制御し、何事もなかったかのようにテーブルの真ん中にそっと置く。

 そして最後に。崩れ落ちるケーキスタンドの中から、ひときわ大きく、艶やかな輝きを放つイチゴが乗ったタルトだけを、指先でつまみ上げる。残りのケーキや皿は、すべて彼女のドレスを汚すことなく、計算され尽くしたかのように床に散らばった。

 これら一連の動作は、時間にすればわずか一秒ほど。

 周囲の人間には、何が起こったのか正確には認識できなかった。ただ、給仕が転んで大惨事になるかと思いきや、なぜか当人は怪我もなく、ティーポットはテーブルにあり、そしてレティシアは幸運にも被害を免れ、おまけになぜかイチゴのタルトを手に持っている――という、奇妙な結果だけが残った。


「あら、危ないところでしたわね」


 レティシアは、手にしたタルトを自分の皿にそっと乗せ、倒れた給仕に優しく声をかける。


「お怪我はありませんか?」

「は、はひ……申し訳、ございません……!」


 給仕は訳が分からないまま、ただひたすらに頭を下げる。


「レティシア様、なんて幸運なの!」

「奇跡ですわ!」


 令嬢たちが興奮したように口々に言う。

 レティシアはただ、にこりと微笑むだけだった。


(ええ、幸運ですわ。このタルトを手に入れられたのですから)


 彼女は誰にも気づかれずに超人的な身体能力を発揮したことへの満足感を胸に、手に入れた戦利品にフォークを入れようとした。

 その時だった。東屋の入り口が、にわかに騒がしくなったのは。


「まあ、王太子殿下だわ!」

「隣にいらっしゃるのは……聖女イザベラ様!」


 令嬢たちの囁き声と、ぱっと華やぐ空気。その視線の先には、ふたりの男女が立っていた。

 ひとりは、この国の王太子、アルフォンス・クライブ・ランドール。

 燃えるような赤毛に、快活な印象を与える整った顔立ちの青年だ。しかし今、その表情は硬く、彼の隣に寄り添う小柄な少女にのみ、庇護的な優しい眼差しを注いでいた。

 その少女こそが、王都で話題の聖女、イザベラ・ド・モンターニュだった。

 栗色の髪に、潤んだ大きな瞳。か弱さと健気さを全身で表現したようなその姿は、誰もが庇護欲をかき立てられる。平民出身ながら、稀有な聖属性魔力を持つことから男爵位を与えられ、特例でこの王立学園に編入してきた少女だ。

 アルフォンスは、そのイザベラの腕を優しく取り、まるで宝物でも扱うかのようにエスコートしている。そして、東屋の中心にいるレティシアの姿を認めると、その目をすっと細めた。そこには、婚約者候補に向けるものとは思えない、あからさまな冷気と敵意が宿っていた。

 周囲の空気が、一瞬で凍り付く。令嬢たちは、これから始まるであろう痴話喧嘩の気配を感じ取り、固唾を呑んで成り行きを見守ろうとする。

 対するレティシアは、完璧な淑女の作法で椅子から立ち上がる。


「ごきげんよう、アルフォンス殿下。イザベラ様」


 彼女はスカートの裾をつまんで深く、優雅なカーテシーを見せた。その声にも、表情にも、一片の揺らぎもない。


(おお、噂に名高い恋する王子と聖女様ですわ。間近で拝見できるなんて光栄ですわね。わたくし、完全に空気というか、物語の障害物ハードル役ですけれど)


 彼女の内心は、まるで芝居見物でもしているかのような気楽さに満ちていた。自分に向けられている敵意など、春のそよ風ほどにも感じていない。

 アルフォンスは、そんなレティシアの完璧な態度が気に食わないのか、フンと鼻を鳴らした。


「……ああ。息災なようで何よりだ、ベルンシュタイン公爵令嬢」


 わざとらしく家名で呼ぶその声には、棘が含まれている。彼はイザベラの方に向き直り、わざとレティシアに聞こえるように言った。


「イザベラ、見ての通りだ。見せかけの美しさや家柄だけで、心のない人形のような令嬢もいる。だが、真の淑女とは、君のように清らかで、優しい心を持つ女性のことを言うのだ」


 それは、レティシアに対する最大限の侮辱だった。王国の王太子が、仮にも婚約者候補を相手に口にするものとは思えない言葉。周囲の令嬢たちが息をのむのが分かる。

 しかし、レティシアは微笑みを崩さない。


「殿下のおっしゃる通りですわ。イザベラ様の清らかさは、まるで生まれたての小鹿のようですものね。わたくしのような俗物には、眩しいばかりですわ」


 レティシアの、非の打ち所がない返答。

 周囲の令嬢たちは、また違った意味で息をのむ。

 もっともレティシアは、内心ではまったく別のことを考えていたが。


(小鹿……ええ、わたくしが五歳の頃に裏山で追いかけっこをした、あの筋肉質で俊敏な……。思い出すだけで血が騒ぎますわ。あれと比べたら、イザベラ様は確かに儚げですわね)


「そ、そんな……わたくしなんて……」


 イザベラはアルフォンスの腕の後ろに隠れるようにしながら、か細い声で謙遜してみせる。そして、潤んだ瞳でちらりとレティシアを見た。その視線には、アルフォンスからは見えない角度で、微かな優越感と侮蔑が滲んでいた。


「レティシア、君もイザベラを見習うといい。嫉妬という醜い感情が、いかに人の心を蝕むか、よく学ぶことだ」


 アルフォンスは一方的にそう言い放つと、満足したようにイザベラを伴って東屋を去っていった。嵐が過ぎ去った後、東屋には気まずい沈黙が流れた。


「レティシア様、お気を確かに……」

「王太子殿下も、あんまりですわ……」


 何人かの令嬢が、レティシアに同情的な声をかけてくる。彼女たちにしてみれば、婚約者候補に、公の場でこれ以上ないほどの恥をかかされたのだ。心中穏やかではないだろうと察したのだ。

 だが、当のレティシアは、優雅に微笑んで首を横に振った。


「あら、わたくしは何も。殿下がお幸せなら、それが一番ですわ」


 心から、そう思っていた。王太子が自分以外の誰かと結ばれてくれるなら、これほど結構なことはない。面倒な王妃教育からも、窮屈な王宮生活からも解放されるのだ。むしろ感謝したいくらいだった。

 彼女は再び席に着き、先ほど手に入れたイチゴのタルトに改めてフォークを入れた。サクサクの生地に、甘さ控えめのカスタードクリーム、そして瑞々しいイチゴの酸味。完璧な調和が口の中に広がる。


(ああ、美味しい。やはり面倒事の後の甘味は格別ですわね)


 そう思いながら、ふと庭園の向こうに目をやった。アルフォンスとイザベラが、親密そうに言葉を交わしている。

 微笑ましい光景だ、とレティシアは思ったその瞬間。

 イザベラが、ふとこちらを振り返った。アルフォンスの死角に入り、彼には見えない角度で。

 そして彼女は、レティシアに向けて、にたり、と笑ったのだ。

 それは、今まで見せていたか弱く健気な聖女の顔ではなかった。獲物を罠にかけた捕食者のような、獰猛で、底意地の悪い笑み。勝利を確信し、相手を嘲笑う、まごうことなき悪意の表情だった。

 ぴしり、と。

 レティシアの中で、何かが凍り付くような感覚があった。

 口の中に残っていたタルトの甘さが、急速に不快な味へと変わっていく。

 彼女は、面倒事を避けるために猫を被ってきた。争い事は好まない。できるだけ平穏に、目立たず、自分の好きなことだけをして生きていきたい。そう考えてきたし、これからもそれは変わらない。

 だが、今、向けられたあの視線は。

 それは、こちらが望むと望まざるとに関わらず、面倒事の方からやってくるという明確な予告だった。それも、とびきり質の悪い、粘着質で、厄介な種類の。


(あらあら……)


 レティシアは、音もなくフォークを皿に置いた。

 そして、彼女はそっと、今日一番深いため息をつく。


(これはどうやら、わたくしが思っている以上に、とんでもなく面倒なことに巻き込まれそうですわね)


 春の陽光は相変わらず暖かく、庭園は平和そのものだった。

 しかし、レティシアの澄み切った碧眼には、すぐそこまで迫っている嵐の気配が、確かに映り込んでいた。平穏な日常に、最初のひびが入る音が、彼女にだけははっきりと聞こえていたのである。



 -つづく-


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