リリィと奇妙な幼馴染
リリィは王都の歓楽街を貧困街の方向へ向けて早足で歩いていた。リリィは歓楽街も、自らの出身である貧困街も、どちらもあまり好きではなかったが、自らの住まいとしている宿から目的地へ向かおうとすると、どちらかは通らなくてはいけなかった。
どちらかを通るなら貧困街よりは歓楽街だろう。
最近、王都に繋がる街道を占拠した魔物の群れの問題を解決して、最年少D級昇級を勝ち取った新進気鋭の冒険者という評価をされているリリィでも、貧困街を歩くのは敬遠する程度には危険、というのが王都の貧困街という場所だった。
それよりも何よりも非合法な連中に絡まれて時間を無駄にしている余裕が今のリリィには無かった。それは今日の朝、定宿にしている宿屋で朝食を摂っている時に、いつの間にか目の前にいた冒険者仲間の男から聞いた情報が原因だった。
――幼馴染だって言ってた錬金術師の店、ずっと閉まってたけど、今日は開いてるみたいだよ。
その言葉を聞いた瞬間、返事をする事も無く身体強化の魔法を起動させたリリィは、食べかけていた朝食を目にも止まらぬ速さでカウンターにいた主人に返却して、部屋に戻って出かける準備をし始めた。その場に残された冒険者の男と宿屋の主人は顔を見合わせてお互いに首を横に振った。
部屋に戻ったリリィは猛スピードで髪を巻き、化粧をしながら、笑顔の練習をした。身体強化の魔法は今も使っているので、化粧をするリリィの手が残像を生んだ。もう十四日と十時間程も会っていない幼馴染にこれから会えると思うと、リリィの顔は自然と綻んだ。
よし、今日も私は可愛い。リリィはそう心に言い聞かせると、普段着を脱ぎ捨てベッドに放り投げる。そして王都中で大流行しているハスハ商会の花柄の生地のワンピースに着がえると、幼馴染が自分の為に作ってくれたローブを羽織り、そのまま部屋を出ると階下の食堂でリリィに声を掛けたそうにしている情報を教えてくれた男には目もくれず、凄まじい速度を一切落とす事無く風の様に宿屋を飛び出した。
こうしてリリィは身体強化を駆使した驚異的な速さの早歩きで、宿屋を出てから歓楽街を通り抜け、幼馴染が経営する錬金術店まで辿り着いたのだった。
しかしリリィにとって待ちに待ったそんな日に限って、店の前には高級そうな真っ白い馬車が止まっているのだった。
その馬車に座っている御者は、御者服を丁寧に着こなしまっすぐに背筋を伸ばしたまま前を向き御者席に鎮座しており、全身で私は上級貴族の従者です、と主張しているような雰囲気を放っていた。
それはリリィにとって初めて見る光景だった。訝しげな視線を向けて馬車の横を通りながら、リリィは正面から入るか裏口から入るか迷う。正面の入り口の前には、ほとんど隙間なく馬車が鎮座しており、中に人が入らないようにしているように思えたので、裏口に回る事にした。
リリィは歩きながら一瞬、幼馴染の店に高貴な方が何の為に来ているのか、と疑問に思った。だがこの前幼馴染から貰った洗髪料の効果を思い出して、出かけてくる前に巻いた自らの髪を撫でて、そして心の底から納得した。
これを買いに来たのだ。洗髪料を買う為に馬車で入り口を塞いで人払いするなんて、貴族のお嬢様も大変だなぁ、と考えた所で、幼馴染が高慢な貴族のお嬢様に対してブチギレている姿が、リリィの頭をよぎった。
思わず血の気が引いた。あの幼馴染は三歳の頃には既に上から物を言われるのが大嫌いという筋金入りの捻くれ者で、自らが年上でお姉さんであると言う自負を持って幼馴染と接してきたリリィとは、それが原因で何度か喧嘩をしていた。
リリィは慌てて角を曲がり細い通りに出る。錬金術店の壁に手を当てながら少し進むと、壁に見えるのに手が飲み込まれる部分を見つけた。この現象は最近起き始めた現象で、幼馴染の仕業なのは聞いて知っていたが、視界と実際が整合しない状況には、未だに慣れなかった。
壁に見えている通路の幅を手で確認しながら、壁をすり抜けて通路を進むと裏口が見えてくる。ここまで来てしまえば、もう何度も裏口から入っているので慣れた物である。リリィは貴族と揉めてしまう幼馴染を想像して、急いで裏口の扉を開けて店内に入った。
裏口から店内に繋がる扉を開けると、カウンターの中に立っている幼馴染の後ろ姿の奥に、まるで天使のように美しい美少女が、腕を組み小さな体を精一杯大きく見せるかのように胸を張りながら立っており、その後ろにはこれまた恐ろしく美人で切長の瞳が印象的な侍女が目を伏せながら付き従っていた。
三人にはリリィに気付いた様子は無い。と言っても、今までの経験上、この幼馴染は確実に気付いているはずだが。リリィが室内の様子を把握し終えてから、二週間ぶりに会う幼馴染の後ろ姿に、濃紺の癖っ毛についた寝癖で跳ねた一房の髪の毛を見つける。可愛いなぁ、なんて呑気な事を思っていたら、美少女がイラついた様子で口を開いた。
「もう一度言うぞ。妾はミドガルドアルド王国第七王女、シャールロッテ・マゴストラスト=ミドガルドアルトである。これ、大事じゃぞ?王女じゃ。この国の。よくわかったか?その上でもう一度申し伝えるぞ。其方を召し上げ、妾専属の錬金術師として活動させる事にした」
リリィは美少女の口から出てきたとんでもない名前に驚愕しながら、幼馴染がそんな殿上人に能力を認められた事の喜びを感じた。だが幼馴染の事を昔から良く知るリリィからしたら、それも当然の事だと思っていた。
しかしそれが一般的には当然のことではない、とんでもない成功物語な事もリリィにはわかった。
貧困街で生まれた一人の孤児が、錬金術を修め、その腕前で国の王女様に召し抱えられる。すごい物語だ。そして私はそんな王女付きの錬金術師の奥様になるのだ、とリリィがうんうんと頷いていると、幼馴染が大きな溜息を付いた。
それはリリィが何度も聞かされてきた溜息だった。
当然の事だが、やんごとなき御方に対して不敬極まりない行為である。その場の空気が溜息の続いた分だけ凍りついていき、それと同じだけ顔面から血の気が引いていくのがリリィにもわかった。
永遠のような一瞬で溜息を吐き終えた幼馴染が口を開いた。
「断る。帰」
「ちょおぉぉぉぉぉ待ってブルー!なんで断るのよぉぉぉぉぉお、お、王女様王女様、本当にすみません。こいつ本当にバカなんで敬語も使えないんです。どうか、どうか処刑だけはお許し下さいぃぃぃ」
バカな幼馴染が全てを言い終える前にリリィが叫びながらすごい速さで割り込み、王女様に謝る。それ自体が不敬であると言う事には思い至れなかった。突然の闖入者に王女が驚いて目を見張るが、ブルーはちらりとリリィを見やるだけで全く驚いていない。ブルーはそのまま王女様に向き直ると、今度はリリィが聞いた事のないとても丁寧な口調で王女に対して話し始めた。
「お久しぶりにお目に掛かります。浅学な孤児故に作法の無知をお許し下さい。ファッキン王女殿下におかれましてはご機嫌も麗しゅう」
優雅な仕草で立礼を披露してペラペラと喋り出すブルー。こいつはいつそんな儀礼を身につけたのだろうか、ふと幼馴染の来歴を思い出して不思議に思ったリリィの思考とその幼馴染の発言を遮り、王女が鷹揚に喋り出す。
「ふぁっきん?まぁただ確かに、召し抱えたクソ孤児が口の聞き方も知らないバカではないのがわかって、妾はご機嫌じゃ」
空気に比してかなり陽気に響いた王女のその発言の後は、誰も何も喋らない空間だけがその場を支配する。リリィが沈黙に耐えられなくなってブルーを見る。ブルーは無言のまま感情の読めない顔で王女を眺めていた。
「何故、断るのだ?戸籍も持っていなかった孤児の立身出世としては申し分ないと思うが」
リリィより少し年下であろう王女が笑顔の仮面を脱ぎ捨てて、イラつきを隠さずにブルーに問いかける。その内容はリリィも気になった部分だった。そっと幼馴染の表情を盗み見ると、幼馴染は口だけで嗤っていた。
「……アンタみたいに孤児だからなんて理由で人を見下しているクソ人間の誘いを断るのに、理由が必要かい?」
しばらくの沈黙の後に、イラついている王女を嘲笑うようにブルーがニヤニヤしながら答える。メイドがピクリと肩を揺らして部屋の空気が一層張り詰める。リリィは心がはち切れてしまいそうな程の緊張感を感じた。
王家の人間と会うだけでも一般市民のリリィには荷が重いと言うのに、隣の幼馴染がそんな事関係なさすぎて、なんて言うかもうヤバい。もう白目を剥いて気絶してしまいたい位だったが、このままでは幼馴染が不敬罪で処刑されてしまいそうで、気絶する事も許されなかった。
「見下す?孤児が王族と対等だとでも言いたいのか?」
勝気で強気な態度を崩さない王女がブルーに問いかける。
「その発言がセンスないんだよねぇ」
「下々の戯言を優しく聞いてやるのも上に立つ者の仕事じゃ、続けろ。ただし、あまりにも不敬な発言の数々。己の言葉が少しでも筋を違えれば命の保障はせぬからな」
ブルーが右手を左腕の裾に突っ込んて舐めた態度で口にした返事に、イラつきを隠さなくなった王女が告げる。メイドがブルーの怪しく見える動きに反応して一歩前に出て、リリィはメイドの目を真っ直ぐ見つめた。ピリつくなんて物では無いその場の空気を美味しそうに吸い込んだブルーが、そのまま楽しそうに話し始める。
「センス抜群の俺様が、俺達が平等だって事、よぉく噛み砕いて教えて差し上げよう。アンタさぁ」
ブルーが王女の事を再度アンタと呼んだ瞬間に、一瞬だけメイドがブルーを見つめる視線に剣呑な気配が混じる。リリィはちゃんとそれに気付けた自分を褒めてやりたかった。
いつの間にかブルーが裾から取り出していた右手には、手に収まるほどの金属製の棒が握られている。ブルーが作成したらしい他では見た事もない不思議な形の魔道具で、液体を煙にして吸引する魔道具との事だった。煙を吸うその姿に嫌悪感があるから私の前で吸うのはやめろと、あれだけ言ったのに、とリリィは憤慨した。
メイドが不審な棒を見て、警戒の為に王女のすぐ後ろまで近づいてきている。
「神様って信じる?」
友達に聞くような気軽さで王女に話しかけるブルーが、口元に棒を持って行く。その腕をリリィが掴んで止めた。
「当然だ。我がミドガルドアルド王家は創世神より王権を授けられておる」
ブルーが左腕でリリィに触れてくれる。おそらく放せ、と言いたいのだとリリィは悟ったが、わからないふりをしてその腕に自分の手を重ねた。不安だった。
リリィは今も創世教の敬虔な信者だ。しかし自らの宗教観が少し変わってしまった出来事がある。
六年ほど前の話になるが、ブルーを教会へ誘った事があるのだ。創世教の神様は世界を作った偉い神様だよ、と誘った。それからしばらくはブルーと会う度に、神とは何か、という題材で喧嘩に近い大激論を交わしたのだ。
今までの経緯を見るに、ブルーはあの時と同じ位、過激な話も余裕でするだろうとリリィは思った。
ましてや今までの王女の発言は、創世神様の話、見下す、ブルーの意志を無視する、とブルーの性格に埋め込まれた地雷を三つも一気に踏んでいる。話が過激で済めばいい方で、果てしない悪口で仕返しをする事も十分に考えられた。
もはや事態はリリィがコントロール出来る範囲を超えていた。だからもうリリィは諦めてブルーの感触を楽しむと決めると、ブルーが王女の言葉に言い返し始めた。
「故に我は生まれながらにして特別である、ってね。創世神、この世界を作りたもうた神様が、ねぇ。アンタは今、王家の血を根拠に自らの優位を訴えた。それがキモいってわからないのがセンスないんだよ。生まれながらにある物は不平等だけだ。それは優劣ではない。ましてやそれを根拠に無条件に人に言うことを聞かそうだなんて、人間が小さい、趣味が悪い。そんな奴に従えだなんて片腹痛いね」
孤児にこれ程に舐めた口を叩かれるとは、毛ほども思っていなかったらしい王女が、目を丸くしている。
「それにさぁ、王家は神に選ばれた、ってそれマジ?仮に本当だとしても、いやごめん、本当だよねグフフ。神様に選ばれましたって言われたらソンケーするけどさっ」
声音がニヤニヤと笑っているブルー。
「選ばれたのはアンタの先祖であって、アンタじゃねぇのよ」
「そんな事はないっ!創世神様は」
「じゃあその創世神様は、ここで貴女を殺したらお怒りになるのかな?」
不敬にも王女の言葉を遮りながら、凄まじい仮定の話を似合わない気軽さで口にするブルー。部屋の空気は言うまでもなく最悪だった。リリィは、倒れないで済んでいる私じゃないとブルーの奥様は務まらないんだから、と開き直って心を奮い立たせる。
「きっとお怒りになって頂けると信じておる」
王女が何も気にしていない風に答えた。
リリィは自らの過去と王女様の現状を照らし合わせて同情を隠せなかった。ブルーと言い合いをしている時にきっと、なんていう曖昧な言葉で言い返してはいけない。先程からそれとなく伺っているメイドの表情は、一見動いていないように見えるが、それは何を考えているか分からない、と言うだけで内心が穏やかでないのは所作で見て取れた。
「ふぅーん、どぉいう風にお怒りになるわけ?」
上辺だけは優しい語尾が伸びたような粘っこい声音で、王女に気軽に問いかけるブルー。リリィにはその声音がまるで蜘蛛の糸の様に空間に張り巡らされた何かに思えて、元々最悪だった部屋の空気は、より重くて、呼吸がし辛い物に変わってしまったように感じた。
「き、貴様に天誅が降るぞっ」
王女の答えに冷笑を浮かべたブルーが鼻で嗤う。
「天誅って?何?具体的には?」
「神の怒りじゃ。貴様も一度くらいは見たことがあろう!天から降り注ぐ炎の矢を」
あ、それダメ。リリィは過去の自分を思い出した。神様はいるんだよってブルーに教えてあげようと思ってしまって、迂闊に喋り始めて物凄い喧嘩になったあの日の事だ。
「えぇ、何?もしかして電子の移動を神様だと思っちゃってる人?その程度なら俺に物言うのやめてくれる?」
リリィが神様の実在の証明を雷に頼ろうとした際と、一言一句違わず同じ言葉で王女を煽るブルー。
これの事だろ?そう言いながらリリィの手を振り解き、ブルーがカウンター越しの王女の見やすい位置に右手の親指と人差し指を差し出す。途端にパチィッと音が鳴り、ブルーの差し出した指の間に小さな雷が起きる。
ガタッと音を立てて後ろに下がる王女と、王女とブルーの間に割って入るメイド。慌てふためいている二人を見てリリィはつい微笑ましく思ってしまった。過去の自分を思い出したのだ。私にも、いちいちブルーのする事に驚いていた時期があったな、と。
リリィはブルーが無詠唱で魔法を使う事は見慣れていたが、今の魔法自体は初めて見る物だった。身体強化以外の魔法が得意ではない為、魔法にはあまり詳しくないリリィだが、神の怒りとされているそれが、こんな風に無詠唱で簡単に披露されるような物では無い事はなんとなく分かった。
ちなみにリリィが雷の事を神の発露だと言った時は、雷がただの自然現象だと言う事をコンコンと説明されたのだが。
「この程度が神だとか抜かす愚物が俺を使う?何様なわけ?」
今、ブルーが吐き捨てたのは、感情の抑揚のない冷たい言葉だった。
「き、貴様ぁっ。あ、怪しげなっ!貴様の様な邪教徒のぉ」
初めの頃の強気な態度はどこかへ消え失せて、慌てふためいてしまっている王女。小さな女の子が好きなリリィは王女の可愛い一面を見れてほっこりした。王女は怪しいなどと言っている自分の喋っている言葉の方が怪しい事は気づいていないのだろう。それも高ポイントだった。
「ふふっ。俺が邪教徒か。それはちょっと予想してなかったなぁ。だけどさぁ、アンタの言う神って、邪神なんてそんな偽もんが現れちゃう程度な存在な訳?よく考えてみろよ。神だぞ?アンタの言う神って創世の神なんだろ?奇遇だよな、俺がしたい神さんの話も、この世界を作りたもうた神の話なのさ」
邪教徒扱いしたブルーに神の偉大さを説かれて言葉に詰まってしまう王女。それに迷わず追撃を仕掛けるブルー。
「アンタが創世の神から王権貰ったって言うから、こっちはわざわざ噛み砕いて話してんだ。存在しない邪神なんて作り出して、神を貶めるのも良い加減にしろよ。クソ背信者が」
「なっ!」
王女の大きく見開いた目にはうっすらと涙が溜まり始める。それを見たリリィは、王女様は蝶よ花よと育てられてきて、きっと今まで口喧嘩なんてしたことがないんだろう、と感じた。
「そんな邪教だとか中途半端な神の話にゃ興味ないって事。で?もう一回聞こうか。仮に今ここであんたを殺すと、ここに神の怒りが降り注ぐのか?そんな都合のいい事、今までに起きたのか?神様に王権を授けられた王家が神に守られているなら、この前、国家反逆罪で指名手配が掛かった連中には神罰が降ったのか?はるか昔の侵略戦争の時ですら帝国を追い払ったのは、勇者の遺産だ。神じゃない。神の奇跡を感じた事があるか?神話の話とかそんなんじゃねぇ。信頼のおける観測の結果だけを喋れ」
そんな王女など意にも介さずに詰め始めるブルー。神を観測するなんて不敬だなぁ、とリリィが思いながら、王女の方を見ると、王女は何も応えられず黙り込んで俯いてしまっていた。悔しさを堪えるその姿は最高に可愛いなぁ、と呑気にリリィは思った。リリィには最初にお店に入った時に王女に感じた緊張感など、もう微塵もなかった。ブルーは先程までの激しさとは打って変わって、穏やかに話を再開させる。
「そう、誰も見たことがないんだ。神の起こす奇跡なんてのは、普通は神話の中でしか語られない。そして神様に現実的に何かして貰った人間なんていうのも現代には居ない。この王都で神を見たなんて宣ってる奴は大体が脳味噌お花畑な連中さ。じゃあ神は居ないのか?死んでしまった?果たして死を迎えるような有限の愚物を神と呼べるのか?いや、呼べない」
この場にいる人間はブルー以外誰も喋らなかった。リリィはまた始まった、と呆れていたし、王女とメイドは、なんだか奇妙な物を見る目でブルーを見ているだけだ。そのブルーも王女に話している事など忘れたように部屋の中を歩き回りながら、虚空に向かって言葉を紡ぐ。
「では神は今もどこかにいるのか。いるのならば、魔素なんて都合のいい素粒子があるこの世界で、神話の中のように御力を発揮されないのは何故か。俺は神の存在を確定させる為に世界の真理を探った。なんでか分かる?」
王女もメイドもブルーには目を合わせない。リリィはずっとブルーを見つめているがずっと無視されている。
「世界の真理を解き明かして、奇跡なんてものを一つ一つ消していってしまえば、残った部分は紛れもない神の所業だからだ。俺は神の奇跡だなんて呼ばれる物は何一つ残すつもりはなかった。全て、全てを否定してやろうと考えた。魔素がある世界で、奇跡の存在を否定していく事は始めるまでは不可能な事のように思えたが、そんなものはその魔素が齎すメリットに比べれば微々たる物だった。超出力を可能にする魔素と物の概念にまで手を加えられる魔法陣による実験と観測で、一つ一つ丁寧にほぼ全ての奇跡を潰し終えて、あることに気付いたんだ」
くるりと振り返ったブルーの表情はリリィも何度かしか見た事がない本当に楽しそうな邪気のない笑顔だった。
「世界が、美しすぎる、って」
その言葉の明るい響き、まだ成人したてのブルーの年相応の曇りのない笑顔。基本的に感情を表に出さないブルーが、こうしてたまに見せる感情の発露がリリィは大好きだった。それと同時に強い不満を覚えた。私とのデートでもそれくらい笑ってくれてもいいじゃない、と思っていた。王女は何かを考えている表情でブルーを見つめていた。
「この世界の始まりも、本当に目に見えない程の極めて微少な空間の揺らぎだったはずだ。だがその極めて微少な揺らぎの、全てがほんの少し違うだけでこんな世界にはならなかった。ほとんどの場合で生物が生息できない地獄のような空間になるはずだったんだ。だが世界は水が水として存在できる環境をこの星に与えた。そんなまさしく奇跡と呼べるファインチューニングの結果、出来上がった宇宙、星、大気、水、大地、草木。人間原理という奴で済ませていい物なのか分からない程に、調べても調べても全てが完璧で、あまりにも美しすぎた。それを思い知らされた時、同時に気付いたんだ」
世界の始まりや、その成れの果てをまるで見てきたかのように話すブルー。目を輝かせながら、大袈裟な身振り手振りを交えてよくわからない事を話す姿は、リリィからしたらいつも通りの光景だったが、王女がブルーに向ける眼差しは完全に狂人を見るそれに変わっていた。
「これこそが神の奇跡と呼ぶのに相応しいじゃないかって。俺は神を否定するためにずっと神を探っていたんだ。世界の真理とは神そのものであり、神とはつまり世界そのものなんだって」
一通り話し終えたブルーが、ふっと我に帰りいつもの無表情に戻る。先程までの興奮し切った様子が嘘のように落ち着き払ったブルーが王女を見つめた。
「そしてそんな世界の真理は世界の始まりから現在に至るまで寸分の狂いもなく、俺にも貴方のようなクソ小娘にも、そこらに転がる石ころにすらも、平等に働いているのでした。以上、私と貴方が神の前で平等である証明とします。お帰り下さいファッキン王女様」
◆ ◆ ◆
「ねぇ、断ってよかったの?」
王女様御一行が出ていった室内で何も喋らずに魔法陣を書き込んでいるブルーにリリィが話しかけた。普段だったら、魔法陣を弄っているブルーに話しかける事は禁忌中の禁忌だったが、わざわざここで書いている事や、その場の雰囲気から、ブルーもリリィに話しかけられる事を待っている気がした。
「断るだろ普通」
魔法陣から目を離さずにブルーが答える。本当に何とも思ってない風に答えられたので、リリィはちょっと驚いた。
「普通は受けるわよ。第七だろうが王女付きの錬金術師なんて、名前を上げるチャンスなんじゃないの?」
顔を上げさせたいリリィがわざとブルーが好きそうな表現を使うと、その思惑通りにブルーはニヤけながら手を止め、顔を上げた。
「お前、ギリギリ王族相手に不敬だぞ」
だがブルーのその返事に、リリィは理由を詳しく聞きたかった事も忘れて、つい言い返してしまった。
「あんたに言われたくないのよっ!あ!ん!た!に!」
「俺はちゃんと敬意払ってたって」
ブルーが楽しそうな笑顔で言い返してくる。それだけでリリィは心が踊って自分の顔がニヤけるのがわかった。
「どこがよどこが!言ってみなさいよ」
リリィが強気に尋ねると、ブルーが答えるように左のローブの裾に手を突っ込んだ。取り出した右手には頭の天辺に獣人の耳にも見える尖った膨らみが着いた、妙な形の毛糸の帽子が握られていた。それをブルーが被ると、帽子の右耳の部分から肩程まで伸びた紐に結ばれた丸の中に十字が走っている銀のレリーフ――ブルーが自らのシンボルとして好んで使うマークだ――が揺れた。
「ちゃんと脱帽してた」
いけしゃあしゃあとそう言い放ったブルーに何を言っていいのか分からず、リリィは口をパクパクさせる事しか出来なかった。
読んでいただいてありがとうございました。