#005 食えない男
魔術師アルベール。
姓はない。ただのアルベール。
自称この国一番の魔法使いで、クリスと結託してわたしを異世界に呼び寄せた張本人だ。
そして、ここが異世界であることをわたしに納得させた人間でもある。
「英乃。あなたも少し落ち着いた方が良い」
スイ、と彼が手を上げると、ワインデカンタが宙に浮かび上がった。
そして、わたしの目の前までふわりふわりと漂ってきてお酌する。
「あ、ありがと。便利ね、それ」
「どういたしまして。それから、こちらで用意した衣服ですが、あなたが異世界人である事をすっかり失念していました。申し訳ありません。そのお詫びと言ってはなんですが、このあと私と一緒に絨毯で夜の散歩なんていかがですか?」
「いや、それは……遠慮しておきます」
アルベールの申し出を断ると、わたしは首を竦めてワインを舐めた。
そう、驚く無かれ。
この国では、カーペットが空を飛ぶ。
今やったワインデカンタと同じ原理で。
つまりは、魔法なんだけど。
「空飛ぶ絨毯はお気に召しませんでしたか?」
「うーん。正直ちょっと苦手かな。乗った時に、どうも足元が頼りなくって」
「なるほど。それは残念」
そう言うと、アルベールはふふふと笑った。
因みに彼の顔は全く見えない。
なぜなら、目深にフードを被っているからだ。
更に言えば、全身黒くて長いローブに包まれているから、彼の体で唯一見えるのは手首から先だけ。
(物腰柔らかだし、すごく親切だから、いい人なんだろうけど)
いかんせん見た目が怪しい。
ていうか怪しすぎる。
だって、どう見てもあの格好って黒魔術師にしか見えないし。
「あのう、それよりアルベール。わたし、そろそろ元の世界に帰りたいんだけど……」
恐る恐る切り出したら、アルベールより先にクリスが口を開いた。
「却下だ」
非情にも、わたしの願いを打ち砕く。
こめかみに浮き出た青筋。
こちらへ向けられる、殺意のこもった鋭い眼差し。
ほんっと思うんだけど、どうしてこう感じが悪いんだ、この男は!
「なんで? そっちが勝手に呼び出したんじゃん」
「違うな。確かに俺は“偉大なる魔女”を召喚する為の儀式を執り行なったが、それに勝手に応じて勝手に現れたのは、全ておまえの勝手だ。よって、おまえには奇跡を起こす義務がある」
「何その嫌味な言い方! ていうか義務とか言われても迷惑なんだけど」
「迷惑なのはこちらだ。現れたなら責任を取れ」
「だ・か・ら。何度も言うけど、わたしは魔法なんて使えないの! 無理なものは無理なの!!」
「……まぁまぁ、お二人とも」
又しても様子を見かねたのだろう……。
アルベールがわたし達の間に割って入った。
「ねえ、英乃。私からもお願いします。どうか、この国に滞在してはいただけませんか」
「悪いけど無理だよ。だって、わたし仕事の途中でこっちに来ちゃったし……」
「ちょっとした休暇をとった思えばいいんです。考えてもみてください。クリスはこの国のスルタンで、あなたは彼の賓客なのですよ? 我々としては精一杯おもてなしさせていただきます。どうです、悪い話ではないでしょう?」
「おもてなし……?」
おもてなし、と言われて、わたしの心は大きく揺らいだ。
おもてなし――それは安らぎ。
おもてなし――それは癒しの呪文。
そう言えば、最近仕事が忙しくて碌に休んでないし。
有給も未消化なまま、疲れは溜まる一方だし。
何よりココご飯美味しいし。
「もしかして……この国って、温泉とかあったりする?」
「温泉は無いですねぇ。ですが、大浴場ならありますよ。薬湯なので疲れに効くんです」
「いいね、大浴場か! でもなー、明日は大切な商談が控えてるし……」
「その点はご心配なく。あなたがこちらへ召喚された時点まで遡って帰してさしあげますから。あなたはそれまで、こちらでの生活を楽しんでくれればいいんですよ」
その素晴らしい提案に、わたしが顔を輝かせたら、『ただし』とアルベールは付け加えて。
「帰してさしあげるのは、あなたが奇跡を起こしたその後で、ですけどね」
楽しそうに言うと、彼はふふふと笑ったのだった。