恋
一度は逃げ帰った上級生が、軽薄な笑みと共に戻ってくる。
「いやぁ帰っちゃったかと思ったよ」
もちろん帰りたかった。
でも、ようやく身体が自由に動くようになった矢先に彼が湧いて出てきたのだ。
「まだ紫に手出そうとしてんの? 懲りないね」
彼が牽制してくれる。
私たちは名前を教え合ってから、互いをそれで呼ぶようになっていた。
提案したのは自分だが、瑠凪くんは陽気に承認してくれた。
「瑠凪くん……」
思わず彼の袖口を握ると、こちらへ優しい視線を送ってくれる。
「いやいや、もう何もする気ないよ。さっきはごめんってことで飲み物持ってきたんよ」
上級生は私たちに紙コップに入った飲み物を渡す。
「……これは?」
「二人とも一年なら未成年だろ? 安心しなよ、アイスティーだから」
確かに、ドリンクの色は紅茶そのもの。
本当に反省しているのかもしれない。
「へぇ、アイスティー」
「そうそう。だからほら、酒だと思って飲んじゃって? もう変なことしないからさ! さぁ一気! 一気!」
ここで飲まないのも後味が悪そうだし、私は紙コップに口をつけて液体を流し込む。
瑠凪くんは何故か呆れたように私を見ていたが、仕方なさそうに彼も一口だけそれを飲んだ。
「――っ!? これって……」
下品だとわかっていたが、口に含んでいた液体をコップに戻す。
味こそアイスティーに近づけてあったが、それには確かにアルコールが含まれていた。
少なくない量を飲み込んでしまったようで、身体の芯が熱くなるような感覚に襲われる。
「あれ? あ、間違えてアルコール入れちゃった! ……なんてな。っははは! 飲んだな!」
顔を見て、私が気付いたと確信したのだろう。
彼は残虐に笑い始める。
「気付かなかったろ、これはアイスティーに似せた酒なんだよ!」
酔いが回るまでは30分ほどかかると言われているが、この空気のせいか既に身体が揺れているように感じる。
瑠凪くんも同じように場に呑まれているのか、ぽーっとしてしまっていた。
「しかも結構度数強いからねぇ、紫ちゃん眠くなっちゃうかもね。でも安心して! そこの一年生が寝ちゃったら俺が介抱してあげるから! ただ、夜までかかるだろうから俺の家でだけどなぁ」
「や、やめて……くだ……」
またもや腕を掴まれるが、もはや抵抗は意味をなさない。
「いやぁこんなエロ可愛い一年の子が入ってきてくれて嬉しいよ。他のメンバーも狙ってるみたいだし、早めに唾つけとかないといけないと思ってたから」
「はなして……」
「本当は紫ちゃんも嫌じゃないんだろ? わかってるよ、そんな派手な頭してるんだし、セクシーな服着てるんだしさぞ遊びまくってるんだろうな!」
私は耳を疑った。
どんな服を着ようが髪色にしようが、それは人の勝手だ。
外面は内面に寄るし、また逆も然りと聞いたことはある。
でも、それが真理のように受け取られるのはおかしいし、自分もそう判断されたくない。
「私が悪いの……?」
「そうだよ! 当たり前だろ!」
絞り出すように口から出た問いを、上級生は容赦なく切り捨てた。
そして、その手を私の顔に這わせようとして――。
「まぁ、確かに警戒心は足りないかもな」
瑠凪くんの声が聞こえた次の瞬間、上級生が文字通り横に飛んだ。
いや、自主的にではない。
彼の顔があったはずの場所には、瑠凪くんの拳があった。
「あぁ、ごめん。俺お酒弱くてすぐ酔っちゃうんだよなぁ。軽く手を振ったつもりなのに」
倒れ、うめいている上級生に近づく。
「でもおあいこだよなぁ? お前も俺たちに酒飲ませたんだからさ」
「お、お前……こんなことしてタダで済むと……」
「あぁ、新入生に紅茶と偽って似せた味の酒を飲ませたこと? 確かに学校にバレたらやばいだろうなぁ」
「しょ、証拠がないだろ! 俺は顔面に跡があるけど、酒を飲ませた証拠は――」
「はい、これ」
彼はポケットからスマホを取り出す。
この位置からでは何をしているかわからないけど、上級生の耳にそれを当てて、彼の顔がどんどん歪んでいくことから録音していたのだと思う。
「じょ……冗談だよな? 間違っただけだし、チクったりしないよな?」
「さぁ? それは明日の俺に聞いてくれないと分からないな。とりあえず今日はこれで帰るわ。おっと足が滑った」
くるりと回り、未だ横たわったままの上級生の脇腹に鋭い蹴りを入れ、彼は戻ってきた。
「ほら、帰るぞ」
瑠凪くんの手を取り、身体がグッと引かれて立ち上がる。
数人の生徒がこちらを見ていたが、彼が鋭い視線を送るとすぐに目を逸らした。
「二人とも災難だったなぁ」
度数が強いと上級生は言っていたが、あの場を離れてからは体調は普段通りだった。
空気酔いしていただけで、私自身はお酒に強い方なのかもしれない。
対する瑠凪くんはというと、たまにふらつきながらも私の手を握ったまま歩いている。
「さっきは助けてくれてありがと。瑠凪くんがいなかったら、今頃……」
「感謝してくれていいよ。今後は気をつけなよ、可愛いんだからもっと警戒心持たないと」
その言葉が私の心臓を掴んだ。
今まで恋愛というものに縁がなかった私だけど、彼に惹かれているのは理解できている。
「あとは……紫さぁ、見た目でどうとかないから。人を見た目で決めるようなやつに負けちゃいけないよ」
「……うん」
「自分が好きでやってる格好だろ? だったらそれを貫こうぜ。髪が何色だからどうだとか、エロい服を着てるからどうだとか、そんなくだらない考えに侵されない自分でいたいよな。……なんかおじさんっぽい?」
彼は恥ずかしそうに笑っていたが、その言葉が自分を慰め、心配してくれているのだと感じる。
私は精一杯の笑顔を作ってお礼を言うと、彼は片手を振って受け止めた。
「ねぇ、また大学で会ったら話しかけていい?」
「そりゃあもちろん。お助け屋みたいなサークルやってるから、もしなんかあったらいつでも来てくれ。それじゃあ、大丈夫そうだし俺はここで。気をつけて帰りなよ」
私を振り返らず、そのまま瑠凪くんは電車に乗り込んでいってしまった。
2度も転けそうになっていた彼と私をドアが隔てて初めて、この気持ちが恋なのだと気付いた。




