決戦5
晴れやかな表情の蓮が一歩踏み出す。
その一歩に迷いはなく、相手がナイフを持っていることへの恐怖もなかった。
一瞬にして見違えるように大きく見えるようになった彼を、瑠凪が止めた。
「やるじゃん」
「古庵……」
「一歩踏み出せるようになったんだな。お前の心はもう、取り残されてないよ」
自分が変化したということに目の前の男が気付いたと知って、蓮は驚く。
「本当は、お前にやってもらおうと思ったんだ。でも、まさか櫂があんな物を持っているとは予想外だった。悪いんだけど、ここは俺に任せてくれないか?」
「お前にやってもらおうと思った」という言葉の真意は読み取れなかったが、瑠凪が自分を讃えていること、そして自分が成長したという確信を胸に、蓮は頷いた。
それを見て、瑠凪の表情から優しさが消える。
「や、やっと動く気になったかよ山本!」
重くなった空気に呑まれないようにか、櫂は一層大きな声を出す。
瑠凪はそれを見て鼻で笑った。
「悪いんだけど、俺、本当は古庵って名前なんだわ」
「古庵……? お前、まさか……KLとかいうサークルの……」
「知ってるのか。意外と記憶力いいんだな」
どんなふうに聞いているのか、櫂はその名前を聞いて顔を引き攣らせた。
「で、でも、お前が何かをした瞬間に俺はこいつの顔を切りつけるぞ! 良いのか!?」
「あぁ、それは困る」
瑠凪は肩をすくめる。
そして、自分のポケットからリモコンを取り出すと――。
「だから、俺が動いた瞬間を見ないでもらおう」
ボタンを押すと、クローゼットから顔を覗かせていたプロジェクターから光が投射される。
本来なら壁に当たり、動画などを写す光。
それが人の目に進んでいけば当然――。
「クソっ! なんだこれ!」
光の奔流に思わず目を閉じる櫂。
紫はこの隙を見逃さなかった。
思い切り櫂の右足を踏むと、痛みで腕の力が緩む。
そして、壁を背にして左側に倒れ込むように逃げ出した。
「チッ! 殺す!」
紫を取り逃したことに感触で気付いた櫂は、彼女を捕まえるより先に、自分に攻撃を仕掛けてくるであろう瑠凪を消すことに決めた。
無理やりに目を開け、わずかな視界で瑠凪の方にナイフを伸ばすが――。
「い、いないっ!?」
そこに瑠凪の姿はない。
その時彼は、宙を舞っていたからだ。
櫂が目を閉じた瞬間、瑠凪は壁際に走り出した。
彼はそのまま三角飛びの要領で壁を蹴り、櫂が目を開けたときには空中にいたのだ。
そして、あたりを見回して瑠凪の姿を捉えたときにはもう遅かった。
「ぐぼらぁっ!」
壁を蹴って勢いを増した拳が櫂の左頬に突き刺さり、凄まじい勢いで飛ばされる。
その先には布団が畳んで置かれていたため、これ以上のダメージにはならなかった。
しかし、とてつもない威力の攻撃は彼の戦意を折るには十分だった。
「……終わったな」
ぴくぴくと痙攣する櫂を見下ろしながら、瑠凪がため息をつく。
「あ、大丈夫か!?」
一息ついて紫の存在を思い出したのか、勢いよく彼女の方へ首を曲げる。
「……うん。大丈夫だったよ。ありがと」
「無事みたいで良かった」
その時、玄関で一部始終を眺めていた七緒が部屋に入ってきた。
「警察への電話、完了です。あと十分くらいで来るみたいですよ」
「一連の録画はできてるか?」
「はい、大丈夫です」
本性を暴いて依頼人に見せることもできて、あとは伸びている櫂を引き渡すだけ。
彼らを取り囲む空気は穏やかなものになっていた。
「……あーあ」
安田が唐突に口を開く。
「なんていうか、康晴も私と似たようなものだったのかもね」
「……いや、そんなことないぞ。安田先輩は――」
瑠凪の言葉を手で遮る。
「いいの、私もちょっと考え直すことにしたからさ。自分の格を上げるのは大切だけど、他人を使っちゃダメよね。これからは、心から好きになれる人を探すことにする。それでその人と一緒に上を目指す」
「……それがいいですね」
少し熱っぽい視線を向けられている気がした瑠凪は、それに気付かないふりをした。
「……っていうかさぁ、なんでずっとうずくまってるわけ?」
声をかけられた夕莉は安田をみると、みるみるうちに顔を歪ませていく。
「だ……だっでぇ……! ヤズぐんのごと……うぇえぇぇえん!」
「いやいや、そんなに泣くことじゃないでしょ」
呆れたように笑う安田。
「もう無理ぃ……あたじ、立ち直れないよぉ……」
「流石に落ち込みすぎでしょ。良いじゃん別に、また次があるんだから――」
「それは違いますよ」
夕莉の背中をさすりながら、瑠凪が口を開く。
「たとえば先輩が怪我をして病院に行ったとします。その怪我は、自分の人生で一番苦しいものだったとします。でも、医者には『君よりもっと酷い怪我の人を見てきたから、それに比べたら軽症ですよ』って言われました。どうです?」
「そりゃあ、その人と私は関係ないんだし、私は辛いんだから……」
「そうですよね。自分の人生で一番辛いんだから、これ以上の痛みを知らないんだから、他人になんて言われても辛いんですよ。人生一の痛みがタンスの角に小指をぶつけたのでも、腹に風穴が空いたのでも、どっちもその人の一番には変わりないんです」
「まぁ……そっか」
一応の納得をした安田は、それ以上夕莉に言及しなかった。
「…………あたしがこんな見た目だからいけなかったのかな」
泣き止んだ夕莉は、なおも伸びている櫂を見つめながらいった。
「違う違う」
「でも、ヤス君が私の化粧が濃いって……。もっと薄い方が良かったのかな、ヤス君の好みに合わせる方が……」
「……自分の目指すなりたい自分になるのも、相手のために変わるのも自分の意志だよ。自分で選んだものに自信を持ちなよ」
柔らかい口調でたしなめる。
「それに、人を見た目で決めるような奴に負けるなよ。夕莉の努力を夕莉が否定しちゃいけないよ」
夕莉は感銘を受けたように瑠凪の顔を見つめていた。
だが、瑠凪が気を取られたのは紫だった。
彼女は今の言葉を聞いて、優しげに笑っていたのだ。
「紫ちゃん、大丈夫だった?」
「……うん? 大丈夫だよ。助けてくれてありがとね」
本当はもっと聞きたいことがあったが、遠くからサイレンの音が聞こえたので、彼は部屋から出て行った。




