さぁ、どうでしょうね?
「おいお前、なんで――」
それより先の言葉が口の中から出てこなかった。
七緒の唇が、俺の言葉を遮っていた。
唇の感触、ほのかに香る大人びた香水の匂いに一瞬思考が止まる。
次に考えたのは、リップが口についたら面倒だな、ということだった。
視界が晴れると、俺にキスをしてきた相手の顔がよく見える。
くっきりとした二重、目元を優しく見せるために垂れ目気味にアイラインが引かれている。
桃色の唇は今の季節によく合っていて、薄く、柔らかかった。
ただ一つ気になったのは、彼女の表情が、初めてみるものだったことだ。
「――どうして笑ってるんだ?」
七緒は笑っていた。
それは満面の笑みではなく、女性が男女の関係を意識した時に出る、動物としての顔だった。
獲物を目前にした舌舐めずりのような顔だった。
「どうしてって……キス、しちゃったからに決まってるじゃないですか」
右の手のひらでこめかみを拭うような動作。
目はとろんとしていて、眠いのかと勘違してしまいそうだ。
唇が触れたことでスイッチが入ったのかとも思ったが、それは違う。
彼女の目は、俺がスマホの画面を見た時に変わったのだ。
「私が先輩のこと好きで好きで仕方なくて、せめていつでも先輩のこと見れるように設定してたのバレちゃいました。バレちゃったからもう、我慢しなくて良いかなって」
身震いしていた。
七緒の言葉が恐ろしかったからではなく、本当に、本当に別人ように表情が豊かになったからだ。
今まで俺が見てたのは、自分の心臓の色が、血の色が赤ではないと必死で隠しているような、上部だけの姿だったのか。
俺は、彼女の告白は計算してのものだと思っていた。
……全くの見当違いだった。
胸の奥に燻る底の知れない想い、溢れ出しそうなそれを必死に抑え、けれど出てきてしまったものだったのだ。
それが今、偶然が重なった結果、表層に現れてきた。
まるで、世界に二人だけしかいないような感覚。
俺は完全に呑まれてしまっていた。
「もしかして、お前……」
もう口は塞がれていないのに、その後に続く言葉が、喉の奥につっかえて出てこない。
だが、七緒は俺が何と言いたいのかわかっているように。
「そうですよ?」
そう答えた。
「……どうして?」
徐々に意識が、彼女の支配から剥がれ始める。
今までに二度行われていた「お見舞い」の正体。
それは七緒だったのだ。
ここまで呆気なくネタバラシされるとは思わなかった。
怒りや恐怖はなく、ただ、理由が知りたい。
「どうしてって、ただ、先輩に私のことをわかってもらいたいからですよ。今までは見てるだけで良かったけど、先輩の心を溶かして、添い遂げるのは私がいいんです。突然で驚かせたとは思います……ごめんなさい」
声色には、本能でなく理性が宿っている。
彼女に入っていた、いわば戦闘用のスイッチが切れたのだろう。
「わかってほしいなら、別の方法があったんじゃないか?」
何も家に直接、差出人も分からないように贈り物をするなんて異常だ。
そもそも、それじゃあ彼女のことは何一つ理解できない。
「それは…………」
言って良いのものかと迷っているような表情。
七緒は視線を落とし、右手でこめかみのあたりを持ち上げるようにしていた。
「……私は先輩のこと、先輩と同じくらい知ってるつもりです」
「…………それで?」
疑問はあったが、今は理由を知るのが先決だ。
「多分、私と同じように先輩の隣を狙ってる子は何人かいると思うんです。でも、みんな表立った行動は避けてきた。それが最近、直接アプローチしようと動いてる雰囲気があるんです」
「いや、雰囲気って……」
おそらく、その「狙ってる子」の確証はないのだろう。
ひどく抽象的な理由だ。
「こんなこと言われて信じられないのはわかります」
彼女は、質問の程をとりつつも、俺の手を握り、答えが分かりきっているという風に口を開く。
「もう一度聞きます。愛が重いだけじゃ、信用できないでしょう?」
「……あぁ、もちろんだよ」
愛の証明なんてできっこない。
目に見えるものだけが全てではないが、不確定なものを、無心で信じることはできない。
「だから、信じられないともわかっています。最近、変わったこととかなかったですか?」
「変わったこと……? 七緒ちゃん関係以外には思い当たらないよ」
突然現れての助手宣言や「お見舞い」に勝る衝撃などそうそうない。
「でも、確かにいるはずなんです……」
拳を握りしめ、歯噛みしている。
「まぁ、一応理由としては理解したよ」
「……本当、ですか?」
七緒の事は信用していないが、その能力は信用に値する。
観察眼が優れている事は、カフェでの一件で理解した。
そんな彼女が直感的にでも危機感を抱いたほどだ、言語化できないけれど、何か不審な点があったのだろう。
だから、とりあえず彼女の行動の理由は理解した。
「でも、まだ七緒ちゃんが俺のことを好きだっていうのは信じられない。仮に好きだったとしても、人間なんて簡単に心変わりするからな」
「大丈夫です。これから信じさせてみせますから」
「信じる事はないと思うよ」
決意を滲ませる彼女に、同じく頑として言い放つ。
「っていうか、俺を隠し撮りしてるような子と一緒に行動なんてできないよ。だから今日でこの関係も終わ――」
「約束、覚えてますか?」
「…………うわぁ」
俺の有利フェイズは一瞬にして崩れ去ってしまった。
期限までは何があっても助手として扱う。
あの時自分が軽くしてしまった約束が、ここにきて自分の首を絞めるとは思わなかった。
「七緒ちゃん、もしかしてここまで計算してた?」
敗北感に苛まれながらの質問を聞いて、七緒は心底意地悪そうな顔をして答えた。
「さぁ、どうでしょうね?」
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