稀代の聖女は顔が良すぎる魔王に屈しない(たぶん)
大きな水音が広い浴場に響き渡る。温かい湯気が広がっているとはいえ、視界はそれなりに良好だ。
突然変わった視界のほとんどは、整った男性の顔で埋まり、眩いアメジストの瞳と至近距離で目が合った。濡れた髪から水滴が浴槽に落ちて音が響く。
紫色の瞳は一瞬こそ驚きの色を持ったものの、すぐに穏やかな微笑みをたたえる。
自分の足も明らかに温かいお湯に浸かっていることを感じながら、ティエリは状況を整理するために懸命に頭を働かせた。
(……、私魔王を倒しに来たのよね?)
ティエリは、記録に残る聖女の中でも力が強いとされていた。最早この世に怖いものなどないような気すらしていた。
後は世界の平和のために魔王さえ倒せば、歴史に名を残す完璧な聖女になると思っていた。
『私が魔王を倒して来ます!』
止める神官たちの言葉も無視して、そう意気込み、聖女の万能な力を使って魔王の気配を感じ取り、空間移動をした。
じわじわと足元から体温が上昇していく。なんせここは明らかに風呂場だった。しかも、視界にはいる範囲の景色を見る限り、かなり大きな浴場だ。足は温かいお湯に浸かっているのは見なくともわかる。できれば視線を下げたくない。
(私が空間移動を間違えるはずがない!と言うことは?)
歴代最強の力を持つ聖女と言われてきたティエリが、最後の目標である魔王を目の前にして、いやむしろありえない至近距離にして体が動かなくなった。
何度も言うが、なんせここは風呂場だ。
目の前の相手の格好など言わずもがなだ。とりあえず視界には上半身しか見えないが、ティエリは足元に嫌な予感を感じていた。
(どうでもいいけど、ちょっとお湯熱すぎない?)
いや、そんなことは本当にどうでもいい。
待って待って待って。
聞いてないよ……。
目の前の魔王は無言でにこりと微笑む。
ティエリは会心の一撃を受ける。
(魔王がこんなに顔が良いなんて聞いてないぃぃぃいいい!!!!ってか結構朝早い時間だったはずだけど、なんでお風呂入ってるのぉおおお!!!)
心の中が絶望と歓喜と絶叫で荒れている聖女の目の前で、爽やか系のイケメン魔王が裸で微笑んでいる。
まるで何かの攻撃を受けたかのようにティエリは胸が苦しくなったが、顔は何とか真剣な表情を取り繕っている。
(ちょっと待って!ぱぱっと倒してきますね!とか言っちゃった手前、倒さなきゃだよね?)
そんなことを考えていると目の前の魔王が口を開く。
「君はもしかして、聖女?」
(はい、声も完璧ー)
表情は取り繕ったまま、聖女らしい優し気な微笑みを貼り付けているがティエリはすでに瀕死だ。
「……はい」
なんとも気まずすぎる状況に、ティエリは言葉少なく頷いた。
「人間界に力が強い聖女が現れたとは聞いたが、まさか自ら来てくれるとは思わなかった」
そう言って濡れた前髪をかき上げる仕草は色気ムンムンでティエリは気絶したくなった。
「私を倒しにきたんだろう?」
妖しげな笑みを浮かべる魔王にティエリはごくりと唾を飲み込んだ。
「それとも、そんな格好で、誘惑しにきたのかな?」
その視線がティエリの首元あたりにあることに気づき、ふと自分の体を見る。
(あ、お湯は濁ってた。よかった!!!!)
別のことに安心をしたが、自分の格好の方が大問題だった。神殿で聖女に与えられる服は基本的に白を基調とした長衣だった。真っ白なその服はお湯に濡れてすっかり重くなっている。しかも肌に張り付き、その向こう側が若干透けていた。
ティエリが飛び上がりそうな勢いで、自らの腕を胸元に寄せて隠すと目の前の魔王は楽しそうに笑う。
「なんだ、誘惑しに来たわけではないのか」
くつくつと笑われ、ティエリの顔が真っ赤になる。ついでにこの少し熱すぎるお湯がだんだんとティエリの体温も上げていく。
「せっかくだから一緒に入るのも一興だけど、このお湯の温度は人間には少し熱いだろう。顔が真っ赤だ」
魔王の手がティエリの頬に手を伸ばし、優しく触れる。壊れものにでも触るかのように、慎重に触れる理由がわからずティエリは心の中で疑問に思う。
しかしだんだんと頭が働かなくなっていく。頭がクラクラして、視界がふにゃりと歪む。
「聖女?」
ティエリの様子のおかしさに、魔王は浴槽にしずんでいた身を起こそうとする。それを見てティエリは慌てて叫んだ。
「立っちゃダメーーー!!!!」
危険を察知して大声をあげたティエリは、そのまま完全にのぼせて気絶した。
お湯に沈みかけたティエリを目の前の魔王は慌てて抱き上げた。立ち上がった魔王は当然ながら裸である。
「近いうちに会いに行きたいとは思っていたが、自ら飛び込んできてくれるとは」
ティエリを抱えた魔王はひどく優しい顔で腕の中の彼女を見つめた。まるでずっと会いたかった人を見つめるかのように。
***
ふと気がつき瞼を開くと視界は薄暗く場所がわからない。ゆっくりと身を起こすと、上掛けが落ちたことに気づく。
「ベッドの上……」
身を起こしたのは柔らかなベッドの上だった。天蓋付きのベッドで、透けるほど薄い黒い布が全体に張られている。敷かれた布も濃紺で、自分のベッドではないことは一目瞭然だ。
どうしだんだっけ?
そう思い首を傾げたところで、ティエリはふと感じた寒さにくしゃみをした。思わず自分の体を抱きしめると素肌の腕に触れ、違和感を覚える。
「あれ?」
いつもなら神殿から支給される長衣を着ているが、あの服は袖も裾も長い。ふと自分の格好を見ると、見知らぬ細い肩紐の黒いレースのついたワンピースを着ていた。
状況が理解できず頭にはたくさんの疑問符が飛ぶ。しばし呆然としていると、静かに天蓋の布が動いた。思わず身構えると開いたら場所から顔を出したのは見覚えのあるとても良く整った顔だった。
「目が覚めたかい?」
にこやかに微笑む魔王の顔面にティエリは心臓を鷲掴みにされながらこくこくとなんとか頷く。
「のぼせたみたいだけど、体調は?」
なんで魔王がこんなに顔が良いのか。意味がわからない。
しかもふかふかのベッドで明らかに待遇がいい。やっぱり意味がわからない。
「大丈夫です……」
ティエリの答えに魔王は優しく微笑み返す。
いや、顔良すぎだから……!!!
涙出そう!!
「そうか、ならよかった」
魔王の表情はどこまでも優しい温かいもので、ティエリは惚けた。
目の前の魔王はティエリを嬉しそうに見つめると、彼女の柔らかな杏色の髪に触れる。そして愛おしそうに口をつけると、彼女に向かってこう言った。
「さぁ、殺してくれ」
変わらない笑顔のまま、そう口にした魔王にティエリは何も返すことができなかった。思考が停止して、上手く物事を考えることができない。
殺してくれって言った?
確かに、ティエリは魔王を倒しに来た。世界の平和のために魔王を倒せば、完璧な聖女になるとそう思って。今はまだ魔王が魔族を率いて人間の国へ攻めてきた訳ではないが、いずれくるその時を待っているより、早く魔王を倒してしまえば、結局はそれが平和な未来のためになると、そう思って。
しかし、その倒すべき相手が、「殺してくれ」という想定はしていない。
むしろ、大いに抵抗され、自分自身も怪我や多少の負傷はあるものと考えていた。
それなのに。
「……殺して、欲しいの?」
そのティエリの言葉に魔王はにこりと微笑む。
「あぁ、そのために待っていたんだ。あまりに遅かったら、会いに行こうと思っていたくらいだ」
そんな風に言う魔王に、ティエリはますます混乱した。
魔王の発言の意味を理解できないまま、言葉は口から衝いて出る。
「何で、私に殺して欲しいなんていうの!普通魔王と聖女は戦うものでしょ!いつの時代だって、魔族と人間は争って来たでしょ!何で初めから降参してるのよ!私は別に弱いものを倒しに来た訳じゃないわ!!」
立て続けにしゃべり息が上がる。肩で息をするティエリに、それでも魔王は穏やかに微笑んだままだ。
何で……!
杏色の髪に触れていた白く大きな手がティエリの頬に触れる。その手は思った以上に冷たく、まるで凍りついているかのようだった。
「私は別に弱くはないさ。思い立って仲間を引き連れて人間の国へ向かうことだって造作ない」
細められた瞳には力が見える。その言葉の通りおそらく人間の国へ向かうことなど簡単にできるのだろう。
あっという間に神国が滅びる姿を想像してしまう。神殿の仲間たちが命を落とす姿を想像してしまう。そんな姿は見たくない。だからこそティエリは魔王を倒しに来たはずだった。
「だが、今の私はそんなことは望んでいない。私の望みは自分の死だ」
魔王の手が頬を撫で、そのままティエリの首元に触れる。
「君を殺すことだって、造作もないことだ」
爪が柔らかなティエリの皮膚に立てられる。少しでも動けば簡単に切れてしまうのだろう。
ただ、ティエリは不思議と恐怖を感じたりはしなかった。目の前の魔王が自分を殺すことはないと、何故か確信していた。
「魔王はどんなに望んでも、自ら死ぬことができない。唯一この命を終わらせられるのは、聖女、君だけだ」
満面の笑みだった。この言葉には嘘偽りはないと感じた。
この笑みは、「ようやく死ねることを喜んでいる笑み」だとティエリは思った。
「死ぬために、私を待ってたの?」
「そうだ」
ティエリの言葉に、一瞬の迷いもなく魔王は素直に頷いた。
「君が上から降ってきた時、私がどれだけ歓喜したかわかるか?」
浴場でのことはティエリとしては思い出したくないことだったため思い出すのはやめておく。
「これでようやくこの命を終わらせられると思うと、心が躍ったよ」
自分の死を語っているのに穏やかすぎる笑みに、ティエリには理解できない。
そして、怒りすら覚えた。
ティエリは自分に触れていた魔王の腕を勢いよく払い除けた。首に多少痛みが走ったがそんなことはどうでもいい。
「私、聖女ですけど、結構性格悪いんですよね」
ティエリは自分の顔が性格悪く微笑むのが想像できた。
とても神殿の仲間には見せられない表情だなと思いながら、ティエリは言葉を続ける。
「殺して欲しいって言っている魔王を簡単に殺す訳ないじゃないですか」
ティエリのその言葉に、魔王の眉がぴくりと動いた。
人間と魔族では命の長さが違う。人間の生は、魔族の生のほんの短い時間だ。
だとしても、命に変わりはない。
ティエリは戦争孤児だった。人間と魔族の戦争ではなく、人間同士の戦争の中で、ティエリは一人になった。大好きな両親も、兄弟もいなくなった。
当時の状況を思い出すたび、苦しい発作にいまだに襲われる。
簡単に命が消えてしまう争いは、恐ろしい。
誰の命とて簡単に消えてしまっていいものなど存在しない。ティエリはそう思っている。
それは、魔族も同じだと。
だから、戦争が終わる前に、仕掛けてくる魔王さえ打ち取れば最も犠牲が少なく済むのだと考えていた。
でも、それは本当に正しいことだろうか?
この目の前の死にたいと宣っている魔王を殺してそれで終わりだろうか?
結局のところ命を奪ったら、それはまた奪い返す理由を作り出すだけではないだろうか?
ティエリは魔王を避けて唐突にベッドから立ち上がる。そして、腕を組むと聖女とはとても言い難い表情で魔王に向かって言い放つ。
「私意地悪なんです。だから、絶対あなたを殺しません」
ティエリの言葉に初めて魔王が憤りの表情を見せた。笑み以外の表情を見せたことに、ティエリは自分の心が喜ぶのを感じる。
「あなたが生きたいと思うようにしてみせるから、覚悟しなさい!」
指差してそう言ったティエリに魔王が魔王らしい黒い笑みでティエリをみる。
「ほお?たかが人間の女が何ができると言うのだ」
その言葉とともに唐突に魔王の手から鋭い黒い風がティエリを襲いかかったが、ティエリの前に七色に煌く壁が出現しその攻撃をかき消す。
「こんな性悪聖女でも、稀代の聖女と呼ばれるほど力強いんですよね〜!」
高笑いしそうなほどの余裕の笑みのティエリに大して、魔王の方は眉間がピクピクと震え怒りを見せているが、ティエリは全く気にしない。
「ま、これから長い付き合いになると思うのでよろしくね」
「誰がお前なんかと!」
「あら、気が変わったら殺してあげるかもしれないわよ?」
そのティエリの言葉に若干表情が期待に満ちた眼差しになる。
この顔のいい魔王ちょろくない??
「ねえ、魔王って地位よね?名前は?あ、ちなみに私は聖女じゃなくて、ティエリっていうの」
ティエリの雑な自己紹介に魔王は複雑な表情を見せたものの、大きなため息をつくと少し頭をかくと面倒くさそうに答えた。
「ナギ、だ」
「ナギ、ね」
ちゃんと答えてくれたことに嬉しくなり微笑んだティエリと、こんなはずじゃなかったとばかりの顔のナギがとても対照的に映った。
「じゃあ、これからよろしくね」
「何がだ」
「え、何って私しばらくこっちで暮らそうと思うから、ちょっと部屋とか用意してくれない?」
「は!?」
「いや、だって、殺して欲しいんでしょ?近くにいた方がその機会増えるよ」
「……、それはそうか」
いや、ナギさん顔いいけど、どうやって魔王になったの。
ま、いっか。
「景色がいい広い部屋がいいなー。このベッドと同じぐらいふっかふかのベッドよろしく!」
ニコニコ顔の聖女とげんなりした魔王がとても対照的に映った。
それからしばらく聖女と魔王の攻防が魔王城で広げられたが、いつの間にか聖女の笑い声と呆れた様子で彼女を見る魔王の姿が目撃されるようになったとか、ならなかったとか。
出来上がったものは思ってたものと違いましたが、これはこれでいいかなと思いました。