人魚エミリィ。
♢ ♢ ♢
あれは、もう18年は前になるのか。
今のあたしが生まれる前だから、そういうことになるわけだけど。
世界の魔力が溢れ、次元災害が起きたことがあった。
大嵐のように風が強く。
竜巻が各地を襲った。
あたしが住んでいたのはこの世界のちょうど裏側、世界の膜の反対側。その岸壁に。
そこに、次元嵐に巻き込まれたのか、こっちの世界の少年が倒れていたのだ。
ああ、助けなきゃ。
そう思って抱き上げたけど、その子、息をしていなくて。
思わず口づけて、人工呼吸を試みたのだ。
あたしの中のマナをキュアって魔法に変え、その子に注いで。
あたしたちの世界はこっちの世界と違って海が広い。
人はみな海で暮らしていたし、あたしもそう。
こちらの世界の絵本で見て知ったけど、あたしたちのことはこっちでは「人魚」って呼ばれていたらしい。
きっともっと昔にもこうした次元嵐があって、人の行き来があったのかな?
今ならそう思うけど。
息を吹き返したその子、フランシスは、金髪の碧眼でとても可愛らしい顔立ちの男の子だった。
「私はもう15です。これでももう一人前の男ですから!」
あんまりにも子供扱いをするあたしに拗ねて、フランシスがそう言ったのを覚えてる。
世界を繋ぐ魔女アリエルに頼んでこの子を元いた世界に帰すことになった時。
「忘れないでエミリィ。私はきっと君を迎えにくる。だからその時は私のお嫁さんになってはくれないか」
そう、真っ直ぐの瞳で話す彼に。
あたしは、恋をしたのだ、してはいけない恋を。
結論から言うと。
あたしはそんな彼を待つことはできなかった。
諦めることも出来なかった、けど。
自分の中のマナを全て吐き出し彼を救った時の反動からか、体調を崩してしまったあたしは。
そのまま、当時の流行り病に冒されて。
悪化した挙句、ぽっくりと逝ってしまったのだ。
「ごめんよ。あんたを助ける薬は間に合わなかった。だからせめてこれをお飲み。あんたを希望の場所に転生させてくれる魔法の薬さ」
「そんな、アリエル。そんな魔法あるわけ……」
「信じないなら信じなくてもいい。でもせめて。そう夢に見て逝きな」
枕元でそう話してくれた魔女アリエル。
そんな魔法は聞いたことがなかった。だから、半信半疑のままだったけれど。
あたしはそんな彼女に、その薬を飲ませてもらって眠りについた。
「ただし、絶対に愛した人、希望の人と添い遂げなよ。じゃないと、あんたは泡になっちまうからね、マナの泡になって世界を漂うことになるからね——」
最後に聞こえたのはそんな声、だった。
♢ ♢ ♢
気がついた時。
あたしは今の公爵令嬢エミリアとなっていた。
記憶が蘇ったのは五歳の頃。
最初はうっすら、と。
そして、年を経るごとにいろんなことを思い出していった。
ありがとうアリエル。
あたしは確かに大好きなフランシスのおそばに生まれ変わることができていた。
それも、フランシスの、姪に。
王弟フランシスのその下の妹フランソワの娘として、あたしはこの世界に産まれていたのだ。
でも。
そう。気がついた時にはもうマクロンと婚約しちゃっていたのだ。
焦ったあたし、何とかこの婚約を無しにしようと頑張ったけど、みんな裏目に出ちゃって。
王様や王妃様には逆に気に入られてしまい、マクロンにはこうして悲しい思いをさせちゃった、か。
「エミリア。君は、私が嫌い、なのだろう?」
上目遣いのままそう言うマクロンは、かわいい。
好みといえば好み。だって、あの頃の叔父様とそっくりなんだもの、嫌えるわけ、ないじゃない。
「嫌いなわけ、ないじゃない……」
そう答えるのが精一杯で。
嫌いなわけはない。ううん、嫌えるわけは、ない。
だからあたしの方が嫌われよう、そう思ったんじゃない。
悪女になって、彼から嫌われようって。そう思ったはずなのに。
叔父様、フランシス様は今でも独身だ。
凡庸な陛下と比べてとても優秀な叔父様は、そんな叔父様を担ぎあげ王位につけようとする勢力から距離を取るために独身を貫いている、というのがもっぱらの噂。
それでも、本当のところは彼は今でもあちらの世界への行き方を探しているのではないか?
そんな気がする。
あたしを迎えにくると言ったあの言葉を、今でも胸に秘めてくれているんじゃないかって。
だから余計に。
今はあたしも名乗れない。
人魚のエミリィだって名乗っちゃイケナイ。そう思ってる。
だって、今のあたしがそんなことを告白して、万一叔父様が信じて下さったとしたら、だよ?
王室は半分に割れ、この国はめちゃめちゃになっちゃうかもしれないんだもの。
叔父様がもし、無理矢理マクロンからあたしを奪おうなんて思ったら。
それは王位を狙うと思われるのと同義だもの。
優しい叔父様が、そんなことで悩んだり苦しんだりするのは、やっぱり嫌。
それと。
人魚だったエミリィは確かにあたし、だけど。
それでもあたしは今のあたし、エミリアとして叔父様に愛してもらいたいとも思ってるんだ。
うまく行くかはわからないけど、まずこのマクロンと円満に婚約を解消し、そうしてあたしが悪女になってから。
あたしの市場価値は落ちるかもしれないけど、きっとその方が叔父様に気兼ねなくアタックできる、そう思うの。
すがるようなマクロンの瞳は子犬のようで。
あたしはちょっとだけ、罪悪感に包まれた。
そう。
この子だって、あたしに愛されている実感があればこんなふうにならなかったに違いない、のだろうから。
でも。
「ごめんね、マクロン……」
いたたまれなくなったあたし、そのまま席を立って。
「エミリア!」
って呼ぶマクロンを残したままその控室から逃げた。
お嬢様にあるまじき勢いで廊下を走る。
ドレスなんてものを着ていることも忘れ、とにかく走って馬車回しまで駆け抜けた。
「お嬢、帰るのかい?」
「ええ、ラスク。ごめんね」
「おいらはいいんだけどな。こんな時間に帰ったら公爵様とか驚くんじゃないですかい?」
「お父様には、後で謝っておくから大丈夫よ。ちょっと予定通りにとはいかなかったけど、もういいの」
ロビーを出たところで待たせていた御者のラスクと合流して、あたしはそのまま馬車に乗り込んだ。
振り返るとそこにはマクロンがいた。
追いかけて、きたの?
捨てられた子犬のように、悲しそうな瞳でこちらを見つめている。
後ろ髪を引かれる思いで無理矢理馬車の窓のカーテンをひく。
「ごめん、早く出して」
ラクスにそう声をかける。
ダメ。
あの子は叔父様じゃ、ないもの。
いくら似ているからと言っても違うのだから。
帰り道。そう心の中でなんども自分に言い聞かせていた。