蒼き天女の恋
白く輝く雲海を、一人の美しい少女が悠々と舞い踊っていた。
蒼き羽衣をひらめかせるのは、ただの少女ではない。彼女は実は、天界に住まう神の使い――天女なのである。
彼女が軽やかに雲の上を進んで向かうのは、天界の中央に高々と聳え立つ立派な城。
そこに天界の長が待っているのだ。
「今日は大神様、どんなご命令をくださるんでしょうか?」
天女、ブルーヤは小さく呟いて可愛らしく首を傾げる。
そうしているうちに神殿へ着き、彼女はその中に足を踏み入れた。
――そして神殿の最上階にて。
ブルーヤが目の前にしているのは、溢れんばかりの威厳を誇った老人だ。
彼は大神。この天界の支配者であり、父なる神だった。
ブルーヤ達天女という種族は、神の使い。
大神に全て従い、働く為に生きている。ブルーヤはこの日、大神の命令を聞きにここへやって来たのだ。
「ブルーヤ。お前に任務を与える」
立派な髭を蓄えた大神が、そう低い声を響かせた。
思わず背筋を正すブルーヤに、大神は続ける。
「下界の王子が今、人の手では治らぬ病にかかっておる。王子は王国のたった一人の跡取りで、下界にはなくてはならぬ存在じゃ。本来ならお前に行かせたくはないが、事が事じゃから仕方ない。お前は今すぐに王子を癒しに行くのじゃ」
――その内容を聞いて、ブルーヤは驚いた。
まだまだ新米の天女であるブルーヤに、下界の王子を任されるなんて、とんでもない事だったからだ。
この世界には、天界の他にもう一つ下界という地上の国がある。
それが王国ポニストラ。そこの均衡を守るのも天界の役目の一つで、今までも人知れず天女達は人間の手助けをして来た。
しかしブルーヤにとっては下界へ行けと命じられるのはこれが初めて。
目をキラキラと輝かせ、彼女は大はしゃぎした。
「本当ですか? 人間の世界に行けるなんて! ありがとうございます大神様。あたし、張り切って頑張りますね!」
「くれぐれも人間にその姿を見せぬようにな」
「分かっています!」
下界へ行けるなんて、これ以上光栄な事はない。
これは一流の天女として認められるチャンスだ、そう思い、ブルーヤは一も二もなく城を飛び出したのだった。
***************
「え? 下界に行くの? 凄いじゃんブルーヤ、私尊敬しちゃうよ!」
「べ、別に、羨ましくなんてないし! へーってなもんだし!」
一旦家へ戻り、家族に下界へ行く事を話すと、彼女らはそれぞれがそれぞれに反応を示した。
姉のアローヤは元気いっぱいにブルーヤを褒め、妹のキミーヤは羨ましさを隠し切れない様子だ。
「ごめんなさい。今回は一人だけの任務なんです」
ブルーヤが大神に仕事を任された理由は、彼女の特性にある。
彼女は天女の中でも有数な水の力の使い手で、どんな物でも浄化してしまう力を持っているのだ。
だから、火の力を持つアローヤや雷の力を使うキミーヤには任せられない。
「そう。頑張っていってらっしゃいね」
母親のイリーヤもそう応援してくれる。
ブルーヤはそれにこくりと頷き、威勢の良い声を上げた。
「ちゃんと役目を果たして来ます。じゃ、行ってきます!」
***************
雲から飛び降りた瞬間、ブルーヤは快感を得た。
風に揺られ、ゆっくりと降下していく。普通なら落下してしまうのにそうならないのは蒼く優美な羽衣のおかげだ。
天界から離れた事がなかったので、ブルーヤの胸には好奇心が募っている。
地上には一体どんな生き物がいて、どんな物があるのだろうか。とてもとても楽しみだった。
そうこうしているうちにブルーヤは滑空を終え、人生初の下界の地面へと降り立った。
「うわあ……」
周囲は一面、青く綺麗な海が広がっている。ブルーヤが立っているここは海辺の砂浜だったのだ。
だがどうやら、人間の街からは程遠いらしい。大神によれば、王子がいるのは人間が最も多く暮らす街の城らしいのである。
「ええと、どっちでしょうか?」
そう言いながら。ブルーヤは再びふわりと宙へ舞い上がり、飛びながら街を探し始めた。
城を探すうちに分かった事だが、下界というものは相当広いらしい。
森や砂漠、村から町まで。ブルーヤは様々な物を目にしては感嘆の息を漏らさざるを得ない。
そして彼女はとうとう、目的地を見つけた。
人間達が忙しなく駆け回る街の中央、赤い旗が掲げられた大きな建物がある。
あれこそが王城で間違いないだろう。
人に見つからぬよう物陰に隠れながら進み、王城へ近付くブルーヤ。
三人の門番の監視を容易く掻い潜り、城壁の所までやって来ると、彼女は軽やかに跳躍した。
羽衣を揺らめかせながら、開かれた窓からそっと中に入り、ブルーヤはぐるりと周囲を見回す。
と、煌びやかな部屋の中、宝石で彩られた立派なベッドがある。
そしてその上で眠っていた人物を見て、天女ブルーヤは言葉を失った。
それは、銀髪の少年だった。
整った顔だち、すらりとした体型。文句のつけようのない美貌がそこにあったのだ。
「この人が、王子様……?」
高貴な風貌からして、恐らく彼が病に伏せっている王子なのだろう。色白の肌に浮き出るどす黒い斑点がその証左だ。
治さなければと思い、ブルーヤはベッドの前に歩み寄って少年を見下ろした。
「うあ、うぅ……」
眠りながら苦しげにうなされている少年の手を取る。
何故か激しく鼓動を始める心臓。思わず荒くなる呼吸を押さえ付け、蒼き天女は静かに呪文を呟いた。
「癒しの力よ。この者に降り注ぎなさい」
ぽわっと周囲が明るくなり、薄青の光が銀髪の少年を包み込む。
そして直後、なんと王子の体を埋め尽くしていた斑点は消え去っていた。――見事、治療に成功したのである。
これが天女の力。いや、ブルーヤの力だった。
少し安らかになった王子の寝顔を、しばらくぼうっと眺めていたブルーヤ。しかし彼女はすぐにハッとなった。
「あっ、帰って大神様にご報告しないとダメでした!」
慌てて王子の手を放し、ワタワタと立ち上がる。
最後にちらと銀髪の美貌を振り返ってから、蒼き天女は窓から外へ飛び出した。
……なんだかそれを名残惜しいと感じる自分が不思議でならないのであった。
***************
「よくぞ任務を果たして来たのぅ。大義じゃったな」
「勿体ないお言葉です、大神様」
無事に天界へ戻って来たブルーヤは、大神にそう言われて頭を垂れた。
地上での初仕事は結構簡単だったのだが、褒められると嬉しいものだ。
「あのまま王子が死すような事があれば下界は大変な危機に見舞われていたじゃろう。そうなれば天界にも影響が及ぶ。双方の安定を保ったお前の働きは見事じゃった。これからもお前の活躍には期待しているぞい」
「はい!」
ルンルンと鼻歌を歌いながら家に帰ると、母や姉妹も大喜びしてくれた。
「すっごーい! それって救世主じゃん! 私もそんな風に役に立ちたいなあ」
「べ、別に、下界に行ったお姉ちゃんがずるいとか思ってないし! キミーヤは今の生活で満足してるわ!」
「よくやったわねブルーヤ。お母さん誇らしいわ」
――そうして、事は無事に終わった筈だった。
しかし問題はそれからだったのだ。
短く輝く銀髪。
整った顔、桜色の唇。
あの美貌の少年が、ブルーヤにはどうしても忘れられない。
何をしていても彼の顔が脳裏にちら付き、その度に胸が高鳴るようになった。
湧き上がるような、得体の知れないこの気持ちを抑えられない。
食事が喉を通らず、仕事も失敗ばかり。大神様には怒られるわ、家族には心配されるわで迷惑をかけっ放し。
そして数日後、ブルーヤは突然――いや、ずっと思っていた事を自覚してしまった。
自分が、あの少年に恋しているのだと。
最初は自分でも信じられなかった。
けれどこの感情を他になんと説明するのか。震え上がる熱い心は、経験した事のない胸の疼きは。
「何考えているんですか。冷静になりなさいブルーヤ。あんな王子と結ばれる事なんてできっこないと知っている筈です。落ち着きなさい。落ち着くんです」
馬鹿げてる。
ただ一度、寝顔を見ただけの少年だ。そんな人物と禁忌の恋を犯すなんて、あまりにも馬鹿げてる。
天界には、三つの掟がある。
一つ、大神を主とし、何があろうと付き従う事。
二つ、天女同士決して争わない事。
そして三つ目が、人間と交わるべからず、だ。
天女は絶対の絶対にその存在を人間に知られてはならない。陰でこっそり支えるだけだと定められているのである。
だから人間に恋するなんてあってはならない事。そんなのは分かり切っているのに。
溢れ出る恋情を止める事は、もはやできなかった。
……会いたい。
会いたい会いたい会いたい会いたい彼に会いたい。
彼の笑顔を見てみたい。彼の閉じられていた瞳の奥を見てみたい。彼の声を聞いてみたい。
気付くと彼女は、誰にも内緒で下界に降りて来てしまっていた。
ふらふらと舞いながら、真っ暗な夜の街を進んで行く。
漆黒の長髪が柔らかな月光に輝き、ゆらりゆらりと揺れている。
――向かうは王城。
ふらりふらり。ふらりふらり。
王城まで来ると、ふわりと舞い立ち、この前と同じ窓に入った。
そこには、すぅすぅと寝息を立てる銀髪の少年の姿があった。
心臓が早鐘を打ち、頬が急速に熱くなるのを感じる。
一体こんな事をして何をしたいのか、それは彼女自身にも分からない。ただその本能のままにブルーヤは王子に近付き、再び彼の手を握り締めていた。
――そして直後、変化が起きる。
うっすらと瞼を開けた少年。その隙間から、朱色の輝きが覗いたのだ。
「……ぁ」
それに魅入られて、ブルーヤは己の碧眼を見開いたままで一瞬動けなくなった。
一方王子はゆっくりと身を起こし、こちらをじっと見つめ、言った。
「誰だ? 何故ここにいる」
「え、ええと、あたしは……」
動悸が激しく、言葉がしどろもどろになってうまく答えられない。
掟を破ってしまったという罪悪感に襲われる一方、この状況を心から喜んでいる自分もいる。その矛盾をブルーヤはどうする事もできなかった。
「あたしは、その」
「――あっ、君はあの時の」
その瞬間、少年が驚きに目を丸くしたのでブルーヤも呆気に取られてしまう。
「やっぱりだ、あの夢の! ああ疑ってすまなかったな。ありがとう、君が俺の病気を治してくれたんだろ?」
突然にそう言われ、ブルーヤは大きく困惑するしかない。
どうして、眠っていた筈の王子がブルーヤの事を知っているのか。
どうして、今こんな事態になってしまっているのだろうか。
そんな彼女を無視して銀髪の少年は捲し立て続ける。
「あの日、俺が病で苦しんでいた時、蒼き羽衣を纏った少女が俺の夢の中に現れたんだ。それで言ったんだよ、『癒しの力よ、この者に降り注ぎなさい」って。そして起きたら俺の病気は跡形もなく治ってた」
彼の朱色の瞳は、まるで燃え上がる炎のように輝いて見える。
「それから俺はずっと君を探してたんだ。お礼がしたかったんだよ。父上も母上も馬鹿にしたけど、やっぱりあれはただの夢じゃなかった。君が、俺の病気を治してくれたあの娘なんだよな?」
ブルーヤは迷いつつ、こくりと頷いた。
「はい。あたしがあなたの病気を治しました。大神様に命令されたので。……元気そうで良かったです」
「やっぱりなのか! 俺はトロディン・ポニストラ。ポニストラ王国の王子だ。――君の名前は?」
ぐんと身を乗り出す彼――王子トロディンに問われ、ブルーヤはかなりドギマギしてしまう。
息が荒く、心臓の鼓動がさらに速くなるのを感じていた。
「え、ええ、あたしは……ブルーヤ。ブルーヤです」
「ブルーヤ。ブルーヤか……。良い名前だな」
大きく息を吐いてから、銀髪の少年はなんと驚くべき事に、こちらに向かって頭を垂れたのである。
「ありがとう、俺はあのままだったら死ぬところだったんだ。なんでもいいからお礼がしたい。欲しい物はあるか?」
一瞬、体が凝固する。
欲しい物と言われて、蒼き天女ブルーヤは思わず――気持ちを舌に乗せてしまっていた。
「あなたが……、あなたが好きです。恋してます。あたしはあなたが欲しい。あなただけが欲しいです」
言ってしまってから、彼女は我を取り戻す。
――一体自分はなんて事を。
しかし一度口にしたら取り返しが付くものではない。少しだけ朱い目をひん剥いた後、大きく首肯したのだ。
「分かった。君の願いを叶えよう。この身だけで良いのなら、俺は何でも捧げようじゃないか。明日、父上と母上にも相談する」
「う、受け入れてくださるのですか?」
「勿論だとも。何を断る必要がある? 実は俺もあの時、夢で君を見てからずっと虜になっていたんだ」
あまりの嬉しさと驚きに、ブルーヤは言葉を失ってしまう。
銀髪の少年と蒼色の天女は、しばらく互いを見つめ合ったままでいた。
***************
次の朝。
ブルーヤは一人、膝を抱えて悩み込んでいた。
とりあえずは天に帰る事になったのであるが、この先どうしたら良いのか分からないのだ。
王子トロディンが自分を好いていてくれた事は、とてもとても喜ばしいと思う。
けれど物事とは、そう簡単にはうまく進んでくれない物である。
「あたしの馬鹿、馬鹿、馬鹿……」
どうやっても王子と結ばれる事ができなにぐらい、知っているのに。
ブルーヤは掟を破ってしまった。掟を破った天女は処刑されるのが定めなのだ。王子と交流した事が公になれば、彼女の命はないだろう。それも時間の問題で、未来なんて望めない筈だった。
「どうしたの? なんか嫌な事あった?」
「――なんでもないです」
笑って、できるだけ何事もないかのように装って答える。
しかし内心は様々な感情で荒れ狂い、平静からは遠くかけ離れた状態だった。
恐ろしい。
死ぬのが怖い。死にたくなんてない。死にたくない。怖い怖い怖い怖い誰か助けて。
なのに王子の事が頭から離れてくれず、彼女の足は、まだ昼間だというのに下界へ向いてしまっていた。
――王城の窓の中へ入ると、またも銀髪の少年は待ってくれていた。
「やあ、ブルーヤ。丁度君に来て欲しかったところなんだ」
トロディンの話によると、どうやら彼の両親がブルーヤに会いたいと言っているらしい。
「あたしに会いたいって……でも」
「良いから良いから。ささ、こっちだ」
腕を引かれて、ブルーヤはなすすべなく王子に連れられ広間へ向かう。
大扉を開いた先、そこには立派に着飾った二人の人物が待ち構えていた。
「やっと連れて来たのか。遅かったじゃないか」
「あらら。あなたが噂の女の子? トロディンから話は聞いてるわ」
彼らこそが、下界の国王と王妃、つまり王子の両親であるらしい。
「事情を話してくれ、ブルーヤ。洗いざらい、包み隠さず」
「……はい」
ブルーヤは言われるままに、全てを語り聞かせた。
天女の事、大神の事、そして。
「あたしは王子様を愛しています。王子様の方もあたしの事を気にかけているとおっしゃって下さいました。でも」
――その時だった。
窓ガラスが破られ、広間に眩い閃光が走ったのは。
「もうっ! あったま来た!」
羽衣の袖を引っ張られ、ブルーヤは意図も容易く転ばされる。
そのまま窓から引き摺り出されてしまった。
目を回すブルーヤの頭の中は?マークでいっぱいだ。
今、何が起こったのだろうか?
しかし悩んでいる間もなく、容赦のない甲高い声が降り注いで来た。
「ああもう! お姉ちゃん、何のつもりか知らないけど馬鹿! とにかく馬鹿ね!」
そう激怒する黒髪の美少女――黄色の羽衣を纏った天女、キミーヤが仁王立ちしていた。
「キミーヤ……?」
「あーあ。キミーヤの勘が当たっちゃったかあ。私はがっかりだなあ」
それに加え、赤き衣を纏った天女――姉のアローヤまでいる。
ますます状況が分からなくなるブルーヤに、キミーヤは説明した。
「朝からお姉ちゃんの様子がおかしかったから、大神様の許しを得て下界に来たの! そしたらなんとあの有様! 人間に見られてるどころか話し込んじゃってるなんて信じらんない! ほんと信じらんないわ!」
「それで私達はそこに駆け付けたんだけど、キミーヤが先走っちゃって雷を使って無理矢理に引き摺り出しちゃったって訳。ごめんね、手荒で」
アローヤの言う通り、キミーヤの方法はかなり乱暴だったが、仕方のない事と言えばそうだった。
項垂れ、何も反論できずにいるブルーヤに、アローヤは続ける。
「ブルーヤ、何があったのか私達に話してくれるかな? 困った事があるならなんとかしてあげるからさ」
ブルーヤは、姉の優しい微笑みを見て、負けてしまった。
覚悟を決めて、口を開く。
「身勝手ですけど、聞いてくれますか?」
そうして姉妹に協力を求める事にしたのだった。
***************
天女の恋は禁忌とされ続けて来た。
天女が愛して良いのはは天界の唯一の男神である大神ただ一人。母も、その母も、ずっと大神と交わり、子を作っていた訳である。
けれどブルーヤは、人間の王子トロディンを好きになってしまったのだ。
もうその気持ちはどうやっても止められない。だから――。
王子と手を繋いで、大空へ舞い上がる。
彼は短い銀髪を揺らめかせながら、「凄いんだな」と感心している。
「これが羽衣の力です。空を自由自在に飛べる、鳥の羽を使った特別製の衣なんですよ」
ふわり、ふわり、ふわり。
ゆっくりと上昇し、二人は見渡す限りの雲の世界――天界へやって来た。
そのまま走って神殿へ向かい、一緒に中へ駆け込む。
「誰じゃ?」と驚く大神に、ブルーヤは言ってのけた。
「大神様、今日はお願いしたい事があって参りました。――掟を撤廃して下さい」
その蒼穹の如く蒼い瞳に、強い意志を宿して。
一瞬、大神は凝固し、沈黙する。
そして直後、激怒の声を上げた。
「なっ。お前、その隣の男は何者じゃ!? まさか」
「そうだ。俺がポニストラの王子、トロディン。この度は天界の主殿に許しを得たく参上した。用件はブルーヤが言った通りだ。どうだ?」
途端に威厳を失い、あたふたし出す大神。その慌てようは空前絶後だっただろう。
「お、王子じゃと? でも馬鹿な、ぬぅ。そういう事か。だがならぬ! 掟を破りし者がどのような結末を迎えるか、お前も知っていよう」
「はい、分かってます。でも今のあたしを処せられますか? 相手は下界の王子様です。殺す訳にはいきませんよね? でも黙って帰すと天女や天界の存在が知られ、手遅れになってしまいます。けれどあたしと彼が結ばれれば、王子様やあたしは勿論、国王様や王妃様だって誰もこの事を漏らしたりはしないと誓います。……どうですか?」
苦虫を噛み潰したような顔になる大神は、しばらく唸った後――。
「……分かった。では条件を満たせば許す事としよう」
と、その低い声を神殿中に響かせたのであった。
***************
今、神殿の裏手の広場――と言っても雲の上だが――で、とある戦いが始まろうとしていた。
周りにはほぼ全員と言っても良い程の数の天女達が集まり、固唾を呑んで見守っている。
広場の中央、そこに立つのは銀髪の美少年トロディン王子だ。
観客の期待が高まる中、なんと大神が神殿のてっぺんに現れ、こちらを見下ろした。
「皆の衆。今から、愚かな天女と下界の王子の婚礼を認めるかどうかの儀式を始めるぞい」
簡単なルール説明はこうだ。
まず、この儀式は三つある。
武勇を試すもの、知恵を試すもの、愛を試すもの。
それをそれぞれの試験者にクリアしてもらうのだ。
まず最初は武勇を試す儀式。これはトロディンの役目である。
「頑張って下さい!」
遠目から彼を眺める事しか許されていないブルーヤだが、精一杯声を張り上げて応援。
……いよいよ、合図の警笛が鳴った。
その途端、雲の広場に信じられない程の暴風が吹き荒れ、何者かが舞い降りて来る。
それは、純白の羽衣を身に纏った一人の美しき天女。――何を隠そう、ブルーヤ達三姉妹の母親、イリーヤで合った。
「お母さん!?」
驚くブルーヤに、白き天女は言った。
「掟を破るなんてなんて馬鹿で罪深い娘なのでしょう。そんなの、絶対に止めて見せる。お母さんがこの手であなたのお相手を打ち倒してあげるわ」
いつもは穏やかなその表情は固くなっており、強い激情が感じられた。
彼女、イリーヤは天界で十指に入る凄腕の風の使い手。普通ならこんな相手に挑もうなんて思う者はいない。
だが――。
「受けて立とうじゃないか。恩人への恩返しもあるし、俺としてもブルーヤを手に入れたい。その為なら、どんな壁でもぶっ壊してやる」
幽門果敢にも銀髪の王子はそう宣言して、剣を構えた。
イリーヤは「よく言うわね」と呟き、目が開けられないような激しい嵐を巻き起こしながら彼と向かい合い、視線を交わした。
――戦闘、開始だ。
「……べ、別に、びっくりしてないし! お母さんが止めに来るのなんて想定済みだったし! あのイケメン王子がメタメタにやっつけられるところ想像したりして泣いてないし!」
妹のキミーヤが地団駄を踏んで涙目になる横で、ブルーヤは手を合わせて、ただ一身に彼の勝利を願うばかりだった。
「……手に入れるなんて言い方、ずるいですよ。あなたを手に入れるのはあたしの方なんですからね」
一方でトロディンとイリーヤの戦いは勃発していた。
白き天女が軽やか跳躍し、次々に王子へと体当たりを繰り出している。
剣でそれらを受け止めようとするトロディンだが、あまりの暴風でそれもままならない。
「隙あり!」
「させるか!」
声が重なり、一瞬にして凄まじい攻防が生じる。
向けられる天女の拳、それを寸手のところでひらりとかわした少年は、短い銀髪を揺らしながら相手の腹部を狙う。
しかし風で押し戻されてしまった。
直後、容赦なく細長い足で顔を蹴り上げられ、王子の顎から血が滴る。
「うぐぅ」
「王子様!」
この戦いを、ブルーヤはただ応援する事しかできないのがもどかしい。
王子がゆっくりと立ち上がり、再びイリーヤと睨み合う。
「まだやるの? あまり傷付け過ぎたくないのだけれどね」
「これぐらい何だ! まだまだやるぞ!」
ぶつかる。弾き返される。ぶつかる。押し返され、拳を食らう王子。衝突、剣先を避けられて背後に回られてしまい、背中に膝蹴りを食らう――その直前。
「お母さん、私も邪魔させてもらって良いかな?」
そう笑う赤色の天女が立ちはだかり、炎の盾を掲げていた。
「――アローヤっ!?」
仰天するイリーヤ。
実は、あの時問い詰められたブルーヤは、姉妹にこうお願いしていたのだ。
「もし何かあったら、助けて下さい」と。
そして話の成り行き上で戦闘になると分かったので、その手の事に強いアローヤが協力をしてくれる事になったのである。
「一人でやれるとか意地張ってたけど、やっぱダメだったね~。でも大丈夫、私が手伝ってあげる!」
「面目ない。甘く見ていた」
今の状況、二対一。
炎の盾と弓を手にするアローヤと長剣のトロディンの二人と、素手だが風の使い手のイリーヤ。
数では前者が勝るが、力では後者が勝るだろう。明らかな勝ち筋が必要だった。
その時、アローヤがボソリと何かを呟いた。
それにトロディンはこくりと呟き、剣を構える。
一体何をしでかす気なのかと思わず前のめりになるブルーヤ。
そして瞬きの後、驚くべき事が起きた。
炎の弓が乱射されたのだ。――イリーヤではなく、トロディンに向かって。
「――え?」
ブルーヤは思わず声を失い、息を呑むしかない。
次々と迫り来る矢を全て打ち払って、銀髪の少年の剣には赤々と燃え盛る炎が灯った。
「なっ!?」
叫び、仰天している白き天女へと猛ダッシュする王子。
慌てて風を起こすイリーヤだが、銀色の少年は炎の剣を振りかぶっていた。
「……これで負けだ、白天女」
「あ、あぁ……」
がっくりと膝を落として悔しげに呻くが、それはもはや何の意味もない負け惜しみでしかない。
明らかに、この勝負は決着が着いたのだから。
「やりました! 凄いです王子様!」
「あいつが凄いんじゃないけど。ま、お姉ちゃんと王子の連携プレイっていうか? でも一応、褒めてあげるわ」
何故か上から目線なキミーヤに対し、ブルーヤは心からの拍手を送る。
一方のトロディンとアローヤも、勝利を祝い合っていた。
「……武勇の試験、これは下界の王子の勝利となった。じゃが終わりではない。次があるのでな」
そうだ。気を抜いている場合ではない。
だって次は――。
「ブルーヤ、お前がやるのじゃ。……とっておきの問題を解けるじゃろうかのぅ?」
大神はそう言って、意味深に微笑んだ。
***************
「さて。早速試験を開始する。良いな?」
――準備が整った後。
大神にそう問われ、腰を折り、頷くブルーヤ。
だがキミーヤの方は天高くへ向かって手を挙げた。
「キミーヤも一緒に出て良いかしら? お姉ちゃんせっかちだからキミーヤがいないとダメなのよね」
「き、キミーヤ……」
協力してくれるのは嬉しいのだが、少し傷付いてしまう。
それはともかく、ブルーヤからも「お願いします」と頼み込むと、大神は渋々であるがそれを許してくれた。
さあ、生きるか死ぬかの知恵試しの始まりだ。
「出題はワシからじゃな。……問題。お前ら天女と人間の差異を答えよ。制限時間はワシが百を数える間。何度間違っても良いが、時間を越えれば失格じゃ。正解ならワシが首肯しよう」
いきなりの難問に、唇を噛み締めるブルーヤ。でもそんな時間も今は惜しい。。
「では始めよう。一、二、三……」
カウントダウンが開始される。
百秒なんてどれ程短いのだろうか。ブルーヤは大神の意地の悪さを初めて思い知る。
仕方ない。死に物狂いで頭を回転させるしかないだろう。
天女と人間の差異。
見た目はほとんど同じだ。
特徴的な事と言えば――?
先に声を上げたのはキミーヤだった。
「分かったわ! 空を飛べる事よ! キミーヤ達天女は飛べるけど、人間は飛べない!」
だが、大神はゆるゆると首を横に振った。
カウントダウンが続く。
「十、十二、十三、十四……」
「どうして」と驚くキミーヤだが、ブルーヤはすぐにその意味が分かった。
天女が空を飛べるのはあくまで羽衣の力。それでは人間と天女の差異としては上げられない。
他には何かないか。
「じゃ、じゃあ、天女は美しいけど人間は醜い!」
これも違う。だって、人間であるトロディンはあんなにも美しいのだから。
「二十九、三十、三十一……」
「じゃあじゃあじゃあ! 人間は掟がないけど天女にはある!」
いや、それも違うだろう。
問われているのは天女と人間の本質的な違い。掟なんて関係ない。
「五十五、五十六、五十七……」
黙り込み、考える。
一体本質的な違いとは何なのだろう? 考えても考えても答えは見つからない。
「はいはい! 分かった! 天女は天界に住んでいるけど人間は下界にいる!」
これも上っ面の話。勿論大神は首を横に振った。
「七十、七十一……」
ちらと横目で見てみれば、遠くでアローヤとトロディンは、拳を握り締めて声援を送って来てくれている。
「二人の期待に応えなくては……」
考えろ考えろ考えろ。
ブルーヤは未だかつてない程に思考を働かせていた。
片や横のキミーヤは、慌てた様子で言った。
「分かったかも知れない! 天女と人間の違い、それは能力を持っているかどうかよ!」
確かに。
天女は様々な種類の能力を持っている。
だが――。
カウントダウンが、止まる事はなかった。
「八十五、八十六、八十七……」
その瞬間、キミーヤの怒りが勃発したのでブルーヤは驚いた。
「うっさいわね! 黙ってなさいよ馬鹿!」
そう叫ぶなり、上空から無数の雷が降り注ぐ。
彼女が突発的に起こした雷は、一直線に神殿の上――大神の元へ。だが大神はどういう原理か、それを全部弾き飛ばした。
「考慮中に暴力とは反則じゃぞ」
そのあまりの光景に、キミーヤは言葉を失った事だろう。
何事もなかったかのように続くカウントダウンは、もう残りわずかだった。
「九十、九十一……」
邪念を抱いている暇はない。考えなければ。
そんな中ふと、愛しい彼と、自分を比べる。
その時、気付いたのだ。
「あの」
ブルーヤは薄青の羽衣の袖を揺らし、手を挙げた。
一同の視線が彼女一点に集まる。
それを見ながら、蒼き天女は言い切った。
「……天女と人間の差って、ないんじゃないですか?」
ブルーヤは悩み続け、思ったのである。
両者に本質的な違いなど、ないのではないかと。
キミーヤが言ったような差異は、確かにある。しかしそれを大した事ないと考えてしまえば人間と天女は同じなのだ。
「……正解じゃ」
深々と頷き、大神が小さくそう漏らした。
「やりました!」
ブルーヤは思わず歓喜の声を上げ、観客からも大拍手を浴びる。
――かくして彼女は、二つ目の難問をクリアしたのであった。
***************
「さあいよいよ最後じゃ。ブルーヤ、王子、前へ出て参れ」
大神にそう言われて、ブルーヤ達二人は再び中央へ。
三つ目の儀式が始まろうとしている。
胸がドキドキする。
どんな事が始まるのだろう?
愛を確かめる。言葉では簡単だがどんな無理難題を出されるのか。
でもそれでも良い。だって、トロディン王子と一緒なのだから。
しかし大神の口から発された言葉は、意外なものだった。
「地上の王子、トロディン。お前はブルーヤを妻とし、いついかなる時でもその命ある限り愛し続ける事を誓うか?」
――結婚の儀。
言われてみれば確かにそうだ。愛を確かめる試験なんて、これしかないではないか。
銀髪の少年は朱色の瞳でブルーヤを見つめ、宣言した。
「ああ。決して彼女を離さないと誓おう。何があったとしても、俺は君を愛してる」
その言葉に、胸が弾む。
あまりの嬉しさにどうにかなってしまいそうだった。
そんなブルーヤに、大神の問いが向けられた。
「天女ブルーヤ。お前はトロディンを夫とし、いついかなる時でもその命ある限り愛し続ける事を誓うか?」
「はい、誓います。あたしは王子様が大大大大大好きなんですから!」
二人の愛は示された。つまり、
「仕方ないのぅ。このワシ――大神の名に置いて、両者の婚礼を認める!」
その瞬間、ブルーヤとトロディンは思わず抱き合う。
微笑み、喜び合って、蒼き天女と銀色の王子は無事に結ばれる事ができたのだった。
「良かったね、ブルーヤ!」
「べ、別に泣いてなんかないし! 感動なんかこれっぽっちもしてないんだからね!」
「……はぁ全くもう、仕方のない子」
姉のアローヤは喜びで、妹のキミーヤは強がりな涙で、娘を止め切れなかった母親のイリーヤは肩をすくめて、それぞれにブルーヤ達へ笑顔を向ける。
会場から湧き上がる大喝采は止む事を知らず、鳴り響き続けた。
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それからブルーヤとトロディンは大神や天女達と別れ、地上へ降りる事になった。
国王も王妃も二人を祝福し、ブルーヤもすっかり天女を辞めてのんびりとお城暮らしを満喫している。
あれから数年後が経った今、彼女はトロディンとの間に子を孕んでいる。
その子が一体どんな子供であるのか、彼女は楽しみで楽しみで仕方ない。
「君の子供なんだ、きっと可愛い子だよ」
「そしてあなたのように格好良くて強い子になりますね」
そう言って二人は笑い合う。
こうして蒼き天女は、夫やまだ見ぬ子供らと共に幸せに時を過ごし続ける事だろう。
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