第27話 己が無力を噛み締めて
大して長くもない螺旋階段を上りきった三条が見たのは、筆舌に尽くし難いほどの凄絶な光景であった。
燃え盛る業火が薄暗い地上フロアを真っ赤に染め上げている。
その熱によって廃工場の地上フロアに立ち並んでいる機械群は尽く赤熱しており、中には外殻が溶けて内部構造が暴露している物もあるほとだ。
そして、この地獄のようなパノラマの中に、佇む影が二つ。
一つは、一太刀でモンテカルロを切り伏せた赤眼・赤髪の男、ゲブラー。
そしてもう一つは──。
「嘘……だ、ろ……?」
目の前に存在する現実を受け止められなかった三条から力が抜ける。
反射的に踏み出された足によって何とか転倒することは免れたが、事実から目をそらすべきと判断した脳が勝手に両目の焦点を合わせなくしていく。
三条の視線の先にあったのは一つの人影。
かつては燃え盛る炎のような紅色であった長髪は、色が抜け落ちて白に染まっており。
高身長な彼女の身の丈近くもあった大剣は半分程の長さで真っ二つに折れてしまい。
プロポーションの良いその体躯は燃え尽きた後の灰のように、今にも崩れ落ちそうで。
──つまりは、最愛の親友を救うためにその身を投げ打ち、生命の炎を燃やし尽くしてもなおゲブラーに敵わず命を落としたイレーネの姿があったのだ。
「いやぁ、中々良い攻撃だったよ」
絶命したイレーネに乾いた拍手が贈られた。
出処はイレーネが放った決死の攻撃をその身に受けたのにも関わらず未だ無傷のゲブラー。
彼の足下には意識を奪われた小さな身体が転がっている。
その華奢で小さい身体の正体がシーラであることが分かった瞬間、三条の体に再び力が籠った。
「おい、お前、シーラを返せ」
「ん? 残念ながらこの子を返すことはできないよ? なんて言ったってこの子は王の席に着く資格がある。神に選ばれた存在さ。──それと僕は今最高に気分が良いから、今すぐに尻尾を巻いて逃げれば君を殺すことはないと断言しよう」
「何ふざけたこと言ってんだ……!」
『警告。警告。インストールされた固有魔素パターンと完全一致、第五の王ゲブラーと判断。逃走を推奨します』
扇動するようなゲブラーの発言に青筋を浮かべる三条へと、マリンの腹に鎮座していた言語を喋る本が赤い光を発して警鐘を鳴らす。
「逃げろって……シーラを見捨てろってのか!?」
『我が主が対象を奪還できる確率はゼロです』
非情で無機質な音声が事実を告げる。
三条には一縷の希望すら残されていないと。
「でもっ、『訂正。現在の我が主が対象を奪還できる確率はゼロです』」
三条の言葉にわざと重ねる風にして発せられた人工音声は、彼に冷静さを取り戻させようとしているようにさえ思われた。
人工音声は続ける。
『対象はゲブラーに価値を見出されていると判断。ここで命を賭してまで奪還する必要はないと勧告します』
「殺す必要があるならもう既に殺しているはず……。まだ生かしている以上、奴にとってシーラは重要な存在であるのは間違いなし。だから準備を整えてから後日救けに行けばいい、ってか?」
『如何にも』
抑揚の無い声が冷淡に断言する。
正論を叩きつけられて思わず歯噛みする三条は、微笑を浮かべて佇んでいるゲブラーと自分の体、そして腕で抱えている未だ目を覚まさない命の恩人を順に見つめた後、踵を返して走り出した。
「あいつらから逃げきるための最短経路を教えてくれ」
己の無力さに無念を感じつつも、せめてマリンだけでも逃がしたいと思った三条が語気を強めて光る本に頼み込む。
本は無言のまま発する光の色を赤から橙、黄、緑と徐々に警戒性の低いものへと変えていき、やがて発光そのものを止めた。
『立体構造解析──完了。経路検索──完了。次の角を左へ曲がってください』
「分かった。この次は?」
『そのまま二百メートル直進、その後右折してくだ──』
抑揚の無い人工音声が急に途切れる。
怪訝に思った三条がその足を止めることなく「どうした?」と問いかけるが、マリンの腹の上で揺れている本が返事をする様子はない。
「そう言えば、君が抱えているその喋る本。興味深いね──僕にくれないかい?」
突然、すぐ横で声がした。
三条の全身から嫌な汗がとめどなく吹き出る。
恐る恐る目線を横へとずらすと、ゲブラーが横を併走していた。
一体いつの間に距離を詰めたのかだけでなく、そもそも声を掛けられるまで接近されたことに気が付かなかったことに圧倒的力量差を感じ取った三条。
彼が現状を打開する一手を打つ前に。
再び鮮やかな赤色の光を発した本が吼える。
『経路検索を破棄、主の防衛を優先します。──壮麗たれ、七色の垣根!』
ノルンを吹き飛ばした虹色の障壁が球状に展開され、ゲブラーの身を弾く。
放物線を描いて宙を舞った彼は空中で身を捻って体勢を立て直すと、近くの古びた機械の上に降り立ち、つい先程七色の魔法を撃ち放った本を睨みつけた。
「虹を司る魔法……その本は第十の王マルクトの産物か!」
「第十の王? マルクト? 一体何の話をしているんだ??」
ゲブラーが放った言葉の意味を理解できなかった三条が首を傾げる。
『続けて迎撃を開始します。──色付け、彩色の蝶斧』
その事を意に介さず、抑揚の揚だけを孕んだ声調で再び本が魔法を行使した。
風邪も吹いていないのにパラパラパラと古びた紙が捲られていき、やがてとあるページで止まる。
そしてそこから、七色に煌めく斧と槍を融合させたような得物がゲブラー目掛けて勢いよく飛び出る。
「くっ、タチの悪い魔法ばかり使ってくるなぁ。──流石はマルクトが創り上げた魔道具だ、彼によく似てるよ!」
自身を断ち切らんと迫り来る薙刀状の斧を剣で弾き返しすことで防いだゲブラーであったが。
「なにっ!?」
彼は、本が放った斧に触れた剣先を起点として、あまりにも唐突に何も無い空間から発現した虹色の鎖によって拘束されたのだ。
もがけばもがくほど更にきつく締まっていく鎖を前にゲブラーは身動き一つとることすらできず、納得のいっていない顔で本を鋭く睨みつける。
「拘束魔法なんていつの間に唱えたんだい……?」
『レモンイエロー、オリーヴ、アンティックローズ、ブラックの四色においてかの王を拘束し、厄災に終止符を打て。──戒めよ、四因子の虹鎖』
疑問への答え合わせをするように、事後報告的な詠唱が行われた。
それを聞いたゲブラーは一瞬だけ驚いた様子を見せたが、すぐにその表情を呆れが滲み出るものへと変える。
「はははっ、事後吟唱か。どうりでこの拘束魔法が行使されていたことに気付けなかったわけだ。……ああ、今思い出したよ。事後吟唱はマルクトの特技の一つだったね。僕としたことがこんな重要なことを失念していたとは、ファナシア辺りが知ったら大変なことになりそうだ……」
「シーラはどこだ?」
身体の自由を奪われたままブツブツと独り言を言うゲブラーに、警戒を一切緩めることなく疑問を呈したのは三条。
しかし、余裕の表情を崩さないゲブラーが彼の問に対して発した返答は、彼が手遅れを感じるには十分すぎる内容であった。
「シーラ? ああ、あの選ばれし子のことかな? それならもう手遅れだよ。ここに来る前に、彼女を王の会議に送るようファナシアに言ってきたからね」
『逃走経路を再検索──完了。迅速な撤退を推奨します』
自分の力量不足とゲブラーが浮かべる余裕の笑みに苛立ちを感じ、思わず舌打ちする三条に、無機質な音声が半ば強制的な提案を伝える。
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本の指示に素直に従って撤退を開始してから五分が経った頃。
開け放たれた両開きの正面扉の前に、一台の荷馬車が停めてあるのが見えた。
「お~い、ユウトさ~ん!」
荷馬車を目指してひたすらに脚を動かす三条へ、手綱を握った女の子──シエルに馬車番を押し付けられたセレナ──が手を振る。
しかし、それを見た三条の顔が一瞬にして険しさに曇り、彼の口から大声が飛び出た。
「おい、逃げろセレナ!」
マリンを片手で支え、空いた方の手でサムズアップの形を作った三条が後ろを指差す。
彼が指し示した先で何かが動いている。
進路を阻む物を片っ端から吹き飛ばしながら真っ直ぐこちらへと向かってくる何か。
三条が廃工場からの脱出を目指して奔走している時に遭遇したそれの正体は、七色の魔法を操る本が一度はダウンさせたはずのノルン。
「”逃げろ”はこっちのセリフですよぉ」
ノルンのことを視認したセレナが、手綱を手放して荷台から飛び降りる。
コスプレじみたナース服の上から羽織った軍服を脱いで荷台に引っ掛けた彼女は、戦闘の勘を取り戻すかのようにその場で数回飛び跳ねた。
そして、魔法による強化や、魔道具によるドーピングを一切していない素の身体能力なら右に出る者はそうそういないと言われた女が地を蹴りつけて一歩を踏み出す。
「なになに、今度の自殺志願者はあなた?」
「私はあなた程度には負けませんよ?」
瞬間、ナース服擬きと着崩した学生服擬きが交錯する。
「気を付けろセレナ! その女の魔魂は手で触れた物を回転させる能力だ!」
三条が咄嗟に叫ぶが。
「今更知ってももう遅いよ。まずは右腕貰うね!」
セレナが三条の言葉を理解するよりも速く。
ノルンの指先がセレナの右腕をとらえる。
ギュルんと。
ノルンに触れられた腕が右回りに回転する。
「なるほどぉ、回転ってこういうことですか。でも、この能力は私みたいな人間に使って良い物じゃないですねっ!」
セレナの言葉がノルンの耳に届いた時にはもう既に事が起きた後。
ノルンの側頭部に鈍い痛みが走る。
一拍置いて、彼女は自分の頭にセレナの踵がめり込んでいることに気づいた。
「なっ!?」
──一体何をしたの?
そう言葉に出す前に、身体が小石のように吹き飛び、固いタイルの床を数回バウンドする。
「痛いですかぁ? ……自分の能力で生み出した回転エネルギーをそっくりそのまま返されるのは」
空中で身を翻して華麗な着地を決めたセレナが、口角を上げて狂気に満ちた表情を浮かべた。
「あんなこともできるのかよ……」
そう零したのは馬車の荷台に毛布を広げ、その上に傷だらけのマリンを寝かした三条。
彼が感嘆したのはセレナの身のこなし。
彼女は腕が回転させられたことを逆手に取ってその回転と同じ向きに体を捻ることで、遠心力を初めとした諸々のエネルギーをノルンに叩き返したのだ。
「いったいなぁぁぁっ!」
床を転がったことで砂塵や土で服を汚したノルンが怒りを露わにする。
彼女は右の掌を地面に押し当てると、ガーネットの様な赤い瞳を大きく見開いた。
「取っておきを見せてあげる。私の魔魂、《廻転者》の正確な能力は回転エネルギーの操作。回転力を付与するだけでなく吸収することだってできるのよ!」
「あいつは何を……しまった、自転と公転か!?」
ノルンの思惑にいち早く気づいた三条が叫んだ。
彼は急いで馬車をいつでも出せるように準備すると、セレナに声を掛ける。
「セレナ、逃げるぞ!」
しかし、黙ってノルンの様子を観察しているセレナが三条の言葉に耳を傾ける様子は無い。
二度、三度と深呼吸を繰り返した彼女は目を細める。
セレナが持つ魔魂は《鋭敏なる双眸》。その能力は非常に地味なもので、単なる動体視力の強化。
また、常日頃から勝手に魔素を消費して発動し続けるこの能力は、目を細めて視界を制限することで、一時的だがその効果を大幅に増大させることができるのだ。
「頭が痛くなるから、できれば使いたくは無いんですけど……このまま放置しても面倒なことになりそうですし。少し頑張ってみますかぁ」
狭まった視界の中央に収めるのは、自転と公転の回転エネルギーの一部を吸収したことによって触れるもの全てに猛烈な乱回転を付与し続けるノルン。
彼女の右腕の周りには空気が渦巻いており、その渦に触れたものは尽く塵と化している。
少しでも触れられたら命は助からない。
だと言うのに、セレナの口には笑みが漏れていた。
「粉々にして殺してあげるっ!!」
「これでも私は五-三支部が創設メンバーの一人。舐めてもらっちゃ困りますよォッ!」
人間とは思えないスピードで、自分を殺そうと迫ってくるノルンにセレナはわざと自分から向かっていく。
そして当たれば必殺なノルンの腕を、身を低くすることによって既の所で躱した彼女は、勢いよく拳を振り抜いた。
下から上に顎をかち上げるように放たれたアッパーがノルンの脳を揺さぶり、彼女の意識を刈り取る。
「あ、が……っ」
地形を抉りながら乱回転を続けていた様々な物体が一斉に回転を止める。
それを最後まで見届けてから、セレナは細目を元に戻す。
「ふぅ……疲れたぁ」
そしてフラフラとした足取りで荷馬車の方まで戻ってきたかと思うと、マリンと並んで眠りについた。
「やっと、これで、帰れる……」
一人残された三条はズタボロの身体から発せられる鋭い痛みに顔を歪めながらも、仲間を喪った悲しみと己の無力さを噛み締めて手綱を握ったのであった。




