9.ぬくもりハンター
『ぬくもりハンター』という言葉を聞いたことがあるだろうか?
その名の通り、ぬくもりを追い求める者たちの総称である。具体的にどのようなことをするのかといえば、他者の座っていた席をまだそのぬくもりが残っているうちに陣取る、というものである。それだけではつまらないので、大抵のハンターは自分で決めた獲物の対象を決めておき、それにのみ狙いを定めることが多い。例えば、俺の場合は制服姿の女子高校生が座った座席以外は眼中にない。
他にも俺の知っている奴にはOLのぬくもりや、変わったところだとグレーのスーツのサラリーマンが腰掛けた座席のみをハントする、という奴までいる。
バスや電車など公共の乗り物の座席を主戦場とする奴らは『乗りハン』、映画館やカフェなど建物内でぬくもりを探す者たちは『定ハン』という。
俺は前者の『乗りハン』をやっている。しかも基本的にはバスでしか活動しない。
つまり俺は、『女子高生専門バス乗りハン』となる訳だ。もちろんこんな肩書き、名刺に書くわけにもいかない……そもそも名刺を作るような会社には勤めていないが。
この趣味に力を入れる為、俺はコンビニでバイトに励むフリーターだ。自由時間が多く取れるという強みは偉大なのである。
そんなわけで今日も今日とて、俺はバスに乗り込み女子高生を物色していた。と言っても、お目当ては女子高生が座った座席なのだが。
手順としては、まず何をおいても女子高生の姿を発見することからだ。これが第一関門といえる。俺の場合、『制服姿の』という制約も付いてくる(制服を着ていなければ高校生と分からない)ので、大体学校終わりの平日の夕方か部活帰りを狙って夜、午前授業のことが多い土曜日の昼過ぎが狙い目だ。どちらかと言えば、土曜日が好ましい。会社員など他の乗客が少ないし、早い時間に学校が終わるので、そのままバスに乗って遠出するらしい女子高生をよく見かけるからだ。
実際、土曜日の午後である現在、俺が乗りこんだバスは、空席が目立っていた。
両側を座席に挟まれた通路を歩きながら、席を選ぶ振りする。そうして辺りを見渡しながら、俺は目的の女子高校生を目で探っている――いた。
車体の後方、昇降口のある右側の二人がけの座席に、それぞれ制服姿の少女が座っていた。友達同士なのだろう、きゃっきゃとじゃれあいながら、バス内に高い声を響かせている。
俺はガッツポーズをした。無論、心の中でだ。表面上は平静を保って、俺は彼女らの後ろの空席に腰をかけた。窓側に座り、隣の通路側には背負っていたバックバッグを置く。可能性は低いが、他の客が俺の隣に座り込んでこないとも限らないからだ。そうなると、女子高生達が降りた後、俺が席を移動することが難しくなる。
少女たちの会話から彼女らが降りる停留所を把握する為に、こっそりと話し声に耳を傾けなくては。
そこで俺はバッグの中から携帯電話とイヤホンを取り出し、それを両耳に装着する。音楽を聴いていると周りに見せかけるためのフェイクである。実際には何の音楽も流していない。こうすることで、万が一後ろを振り返られた場合でも、会話を聞いていたとは悟られにくくする。
「楽しみだねぇ、ディ●ニー久しぶりだもん」
「ねー! 最初何乗る?」
両座席の間から目を細めてみてみると、一方の少女のスマホ画面に視線を落とし、楽しげに会話を弾ませているのが分かる。
ディズ●ーか……とすると、次の停留所である『◯×駅前』で下車し、そこからディズ●ーの最寄駅に向かう、というのが定石だろう。
この路線バスで狩りをするのは初めてだが、俺は都内のバス線路は完璧に頭に入れているのである。
これ案外早くに女子高生のぬくもりをゲットできそうだと、俺は喜びの嘆息をついた。
緩やかなバスの揺れに身を任せ、俺はしばし目を閉じる。
この趣味は時間と金が非常に掛かる。運が無ければ一日中バスの住民となっても、女子高生と巡り会えないことすらあるのだ。こんなに早く目的を達成できるのは奇跡に近い。
バスはしばらく走行を続けた後、次の停留所を告げるアナウンスが響いた。
それから少し待つと車体が大きく揺れ、プシューと気が抜けたような開閉音と共にバスの扉が開く。
停留所に到着したのだ。
俺の見立て通り、彼女たちはまだ話をしながら席を立ち、バスを降りていった。
ごくっ。俺は生唾を飲み込んだ。
すぐさま立ち上がり、まだ湯気の立ち上る少女のぬくもりに身を包みたいところだが、一度頭を落ち着かせる。
こういう場合、すぐに行動に移すのは得策ではない。周りの乗客の目があるからだ。
さて、ここからが第二関門である。
まず、周囲の乗客に意識を向ける。
幸いなことに、俺よりも後ろの席に客はいない。というか、バスの後方部分には俺以外の客の姿はなかった。前方の一人掛けの座席に、スマホをいじる若い女やしょぼくれたシャツを着た老人など、何人かが座っているだけだ。皆携帯電話やら本やらに意識を奪われていて、俺の挙動に気が付きそうな者はいない。
どうやら、今日は本当に運が良いらしい。
あっけなく第二関門は突破され、さて席を変えようかと腰を上げかけた俺だったが、バスは既に動き始めてしまった。その為、移動は次の停留所までお預けだ。少し残念だが、仕方がない。運転手に見咎められ悪目立ちしては本末転倒だ。
『ぬくもりは生き物である』というどこかの誰かの格言から分かるように、本来であれば早急に席を立つべきだった。初動が遅れてしまったのは、ことが順調に運びすぎた為に油断が生じたからだろう。
『次の停留所は◯×△〜、◯×△〜』
やる気のない運転手のアナウンスが聞こえると、否が応でもテンションが上がってきた。
バスが完全に停止したら、さりげなく席を立つのだ。そうしたら晴れて今日のミッションはクリアとなる。
バスが停まった。乗り込んで来る客はいない。
俺はなるべく音を立てぬように座席を移動した。何食わぬ顔で、前の座席の窓際に腰を落とす。
温か――くはなかった。一停留所分の間が空いたせいか、既にぬくもりはほとんど消えている。しかしこの程度ならば許容範囲だ。
俺は今、直前まで女子高生が尻を埋めていたシートに座っている。それ以上に何を望めというのか?
「……ちょっといいかね」
圧倒的な達成感と心地よい高揚感に浸っている俺に、一人の老人が声を掛けてきた。見れば、さっきまで前方の席にいたじいさんだ。
老人は当たり前のように俺の隣に座った。
邪魔をしやがって、と俺は老人をひと睨みする。見た所初老を迎えたばかりのような、灰色の髪をしたじいさんだ。口髭にも白いものが混じっている。
老人は俺の視線を意に介す様子もなく、半笑いを浮かべた。
「若いの……あんた、ハンターだろう?」
じいさんの一言に、俺は目を剥く。
口を開きかけた俺を遮り、老人は更に続けた。
「みなまで言うな。分かっとる。
女学生狙いか? お前さんくらいの歳のには多い」
「……じいさん、あんたもか?」
じいさんは目尻の皺を深くして、親しみ深い表情を作った。
「わしはこの辺りをなわばりにしていてな。見慣れない顔を見かけたからつい声を掛けてしまった。忠告も兼ねてな……」
「忠告だと?」
怪訝な声を出すと、老人は声を低くして、
「若いの……この路線はディズ●ーランドへ行く客が多いことを知っとるか?」
「あ、ああ。さっきこの席に座っていた女子高生たちもディズニ●ランドに行くらしい」
俺が答えると、じいさんは「やはりな……」と小さく呟いた。
「残念だか、この席に座っていた女たちは、おそらく女学生ではない」
「なんだと……」
俺は驚きのあまり老人の顔をまじまじと見つめてしまった。
しかし目の前の老人は眉を曲げるだけで、重々しい眼差しにはこちらを謀るような色は皆目見えない。
ヒビだらけのどぶ色の唇が、小さく動く。
「『制服ディズ●ー』という言葉を聞いたことがあるかね?」
俺は首肯した。その名の通り、制服姿で●ィズニーランドに行くことである。それくらいは知っている。
確か『せっかくの夢の国だから』と、とうに学校を卒業した女どもが懐かしき制服に身を包み、堂々と入園することもあると聞いたことが――
「まさか、あの二人は!」
そこで俺は、とある恐ろしい可能性に気がついた。
老人は少し目を伏せて言った。
「ああ――彼女らは少なくとも二十歳は超えておるだろうな。若いお前さんには難しいかもしれんが、腰の肉付きや肌の状態からわしは判断出来るのだ」
顔から血の気が引いていくのがわかる。
今の今まで女子高生のものと信じていた温かさが、一瞬にして俺の身体を悪寒で包み込む。
気が付けば、額に脂汗が滲んでいた。
「……相当なショックを受けているようだな。
若いの、ここいらで狩りをするのはもう辞めておけ。わしのように経験を積んだものでないと、今回のような裏切りにあうこともある」
俺は動揺のあまり両手で顔を抑えた。全身を震えが走っている。
信じていたものに裏切られた動揺で、俺の精神は完全に打ちのめされていた。
あの幸福感や達成感は、全くの幻想だったのだ。
老人は俺の肩をぽん、と叩き、落ち込む孫を諭すように穏やかな口調で言う。
「ほれ、もうすぐ次の停留所に着く。そこで降りて、向かいの停留所でバスに乗ると良い。渋谷にでも行けば、女学生なんぞわんさかおるわ」
景気の良い笑い声をたて、じいさんは俺の為に降車ボタンを押してくれた。
俺は小刻みに頷き、感謝を伝えた。皺に埋もれた表情に、笑顔が浮かぶのが見える。
相変わらず頭はクラクラするが、それでも先程よりはいくらかマシな気分になっていた。無論、この親切な同志の気遣いによるものが大きいだろう。
一度の失敗がなんだ? 貴重な経験をした、と笑い飛ばすのがいつもの俺だろうが!
心の中でそう叫ぶと、偽女子高生のぬくもりというやつも、まんざら悪くはなくなってきたようだ。
本物の女子高生には敵わないが、食事だって毎回好物では飽きる。たまには口直しだって必要だ。
俺はすっかり平静を取り戻し、老人を見た。
「そういやじいさん、あんたは……」
何狙いのハンターなんだ? と尋ねようとして、そこでバスが大きな音を立てて停車した。
「おお、着いたか。さあ若いの、バスを降りて新たなハントに励むんじゃぞ。これしきのことで折れるな」
にぃ、と口元を緩め老人は俺を通す為に席を立った。俺は再びお礼を述べ、バスの中央部にある昇降口へ向かう。
手酷い失敗をしてしまった割には、清々しい出発になりそうだった。
軽快にステップを駆け下り、地面に着地する。
空は清々しく晴れていて、まだ陽も高い。俺は歩き出す前に、なんとなくまだ停止しているバスを見上げた。高い車体の窓越しに、先ほどの老人の姿が見て取れた。
瞬間、顔が歪む。老人のではなく俺の顔だ。
俺はその時ようやく真実を知った……。
脚が力を失い、膝から地面に倒れ伏した。
「ああ……」
爽やかな微笑と共に去って行った若者を見送り、話し相手のいなくなった老人は席を立ったままため息をついた。
老人の顔に滲んでいるのは、満足感だった。どこかうっとりとした表情にも見える。
彼は静かな動作で振動に包まれる車内を動き、座席についた。先ほどまで自分が座っていた通路側ではなく、いなくなった男が腰掛けていた窓側の席だ。
人がいなくなれば席を詰めるのはおかしな行動ではない。しかし、老人は今までになく幸福そうな笑顔を浮かべる。
なんと良い気分だろう。白髪混じりの口髭をいじりながら、彼は独りごちた。
狩りが成功した達成感が、老人の骨張った体全体を駆け巡っているのだ。
窓の外を見渡す。今しがたバスを降りたばかりの男と目があった。男は老人の顔を見た途端に、顔を醜くく引きつらせ、しまいには地面に伏した。
ああ、これがたまらないんだ……。老人は車内に視線を戻した後も、しばらくは光悦に目を細め続けていた。
彼は静かに嘆息する。
『狩る』側だとばかり思っていた者が、自分も『狩られる』側なのだと思い知らされた時に見せる、あの表情。
これだから『ぬくもりハンター専門』のハンターは辞められないのだ。
バスが動き始めてからも少しの間、老人は窓の向こうの男に向けた、にぃ、と口を歪めたような笑顔を保ったままだった。
なんだかよくわからない話です。