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習作短編集  作者: 脱兎
1/10

1,『完全犯罪』



「ああ……なんてこと!」


 ルージュの引かれたその唇から溢れたのは、愛しい妻の叫声だった。


 彼女の丸みを帯びた愛らしい頰には、悪魔の血が飛び散っている。

 私は綺麗なままの左手で、それを拭ってやった。赤黒く臭い液体が私の親指にへばりつく。私は笑みを作る。


「もう大丈夫だ。悪魔は死んだ。私たち夫婦の邪魔をする者は、もういないんだ」


 彼女は大きな瞳を見開いていた。

 その宝石のような瞳で、彼女の足元に転がる悪魔の死骸を見下ろしている。言葉を発さない。喜びのあまり、口もきけないのだろうか?


「ああ……やっと邪魔者が消えた。夫婦水入らず、ようやく二人きりになれたね」


 優しく彼女に言うと、私は自らの手でほふった血まみれの悪魔に視線を落とす。

 ぱっくりと割れた頭から溢れるけがれた血液が、悪魔の薄い毛髪を覆い隠している。


 私はふと思い出して、右手を塞いでいる作業用の斧から手を離した。鈍い金属音が鼓膜を痛めつけるように響く。

 タイル張りの床に広がっていた血の海に斧が沈み、木で出来た柄が悪魔の体液を啜った。こうなってはもう使い物になるまい。


 どうせそこらの小屋から盗んだ物だが、どこか適当な所に処分しなければ。


「……あなた、自分がなにをしたか分かっているの?」


 彼女の美しい二つの瞳が私を見上げている。ああ、なんと綺麗なのだろう。

 彼女の艶やかな髪を束ねる、ヘアゴム。彼女の肉感的な太ももを保護する、黒いストッキング。彼女のうららかな身体を優しく包む、眩いばかりの白衣。その全てが愛おしい。


 私はその輝きに目を細め、言う。


「私は君を救ったんだ。あろうことか君の夫を騙った、愚かな悪魔から」


「異常よ……あなた、異常だわ」


 彼女は唇を震わせた。まるで心の底から恐怖に怯えているような表情を作っている。だが私には、彼女がその胸の内は喜びで満たされていることが手に取るようにわかる。

 なぜなら私たちは、前世に契りを交わした永遠の夫婦なのだから。悪魔の拘束から放たれ、彼女はようやく自由の身になったのだ。


「小林さん……総合失調症はもう随分良くなっていると思っていたのに。

 私のせいね。私があなたに、夫の悪口ばかりを聞かせてしまったから」


 彼女はしなやかな指で顔を覆っている。

 血が広がっている上にへたり込んでいるせいで、その純白の白衣が汚れてしまったことを、私は残念に思った。私と会うとき、彼女は常にこの衣装をまとっている。

 私にとってそれは、穢れのないウェディングドレスに等しい。


 彼女は邪悪な魔の者によって清らかな身を奪われ、虐げられていたのだ。

 逢瀬のたびに彼女は涙を流し、その悲痛な心中を吐露していた。

 しかし、それで今日も終わりだ。これで名実ともに私たちは本当の夫婦になれる。


「あなたが私に担当医として以上の感情を抱いていたことは知っていた……けれど、まさか本当に私の夫を殺すだなんて。私は夫がいなくなれば、と言っただけなのに。

 でも──大丈夫よ、誰もあなたを裁くことはできない。法すらも……。

 なぜなら、あなたは犯行当時、精神状態が異常だったから。責任能力が無いのよ。警察にしつこく捜査されることもない。

 そして私は、患者に夫を殺害された"哀れな被害者"。

 こういうのをなんて言うか分かる? ──『完全犯罪』よ」


「ケイサツ? ハンザイ? ……そんなもの、どうでもいい。君以外に大切なものなんて、他には何も無いんだ。

 それよりも……私に愛の言葉をささやいてくれ」


 私は彼女を抱き寄せようとした。彼女はそれを拒んだ。しかし、私は不思議と嫌な気持ちにはならないのだった。

 彼女は携帯電話を取り出し、何かをまくしたてる。

 どうやら人を呼ぶらしい。


 電話口で彼女が何者かと話している間、私は彼女の吊り上がった美しい唇に目を奪われ続けていた。

 



お題:『大事なものなんて他にはないよ』『吊り上った唇に目が奪われる』『頰の丸みが愛しい』



しょっぱなから暗い話です

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