第九十七話「chain」
ベランダに面する窓を叩き割り、俺たちはマンションの一室へと入っていく。決して広くはない部屋に大の大人が六人、パリパリとガラスを踏みつけながら名前すら知らない人の部屋に土足で上がり込んでいく。誰かがいたら悲鳴をあげるか怒鳴り散らすのだろう。やり口は空き巣じゃなくて立派な強盗だ。
人がいる可能性は皆無に近い。服のこすれあう音に混じって一定の幅を保ちながら不必要に鼓膜を揺らす耳鳴りがそれを確信に変えていく。
それでも俺は出てくるはずのない人影に怯えている。自分の肝の小ささに嫌気がさす。
秋津さんは刀の柄で床を二回打ち鳴らす。テリトリーに侵入したと憤慨する人はいなくても、俺たちの来訪を心待ちにしているゾンビのいる可能性は前者よりも高いのだから。
しばらくの静寂の後、石井君たちのため息が聞こえた。止める必要のない息まで止めていた俺はもっと深いため息をついた。
外から中に入ったからか、いや、そうでなくてもマンションの中はほとんど暗闇と変わりはしない。シルエットはかろうじて見えている机やテレビもいずれは完全に見えなくなっていく。
どこかで嗅いだことのある匂いが充満している。辺りを覆う腐臭や血の香りではなくて、もっと身近な臭い。湿気を孕んだ衣服の臭い、テーブルに置かれた弁当の残りかすが放つ不快な臭い。人の生活の匂い。
成塚さんが小さな懐中電灯を点けると不思議とそれが消えていった。五感が急に均等になった感じだった。
部屋の奥……、それを部屋の奥と呼んだのはこの世界が反転してしまったからだろう。こうなるまえなら部屋の手前、とにかく俺たちは玄関へと足を進めていく。今この場に居れば何も起きない。そう分かっていながら秋津さんは玄関のカギを静かに回した。カチンと響く冷たい音がこのマンション全域に届いてしまいそうな気さえした。
嫌な想像が蘇る。俺が閉じこもっていた時の想像。ドアを開けた先に群がっている生きた死体の真っ白な目、黒い血で黄色い歯をむき出している嫌な想像。
幸いゆっくりとドアを開いた秋津さんはドアを急に閉めるわけでも、ゾンビを視界に入れて微動だにしない様子もなくゆっくりとこちらへ振り返り「出るぞ」とつぶやいた。
マンションの通路は酷く狭いように思えた。三人、ないしは四人並んでも通れるはずなのに、視界の両端を埋める真っ暗な壁の影が空間認識能力を大きく誤作動させる。
考えて見ればこんな状況でゾンビと対峙しなくちゃならないのはこれが初めてだった。進もうとする足におもりがついて、関節は万力で締め付けられたようでうまく動くことすらできない。暗闇がもたらす恐怖心はまるで拭えない。
秋津さんたちはきっと同じような状況を渡り歩いてきたのだろう。石井君も同様だ。そうじゃなきゃ説明がつかない。まともに歩くことすら俺には叶わないっていうのに。
「……大丈夫か?」
花田君が俺に尋ねるので「大丈夫だよ」と分かり切った嘘をつく。「大丈夫じゃない」なんて口が裂けても言えない。それは強い意志から来るものではなくて、なんとか彼らにしがみついていたいから出た虚言。
ああそうだ。俺は何度かこんな気持ちなったことがある。仲間外れにされたくなくて、無理して笑顔作って、結局捨てられるのが分かっているのにその足にしがみつこうとしてきた。
白狼たちにもきっと似たような思いを抱いていたのかもしれない。同じ方向を向いていたくて、同じ目的をもっていたくて、綺麗な言葉を並べて、空っぽの強い意志を掲げて仲間になったふりをしていたのかもしれない。
俺に何がある?実のところ何もないだろう。守るべき人はいない。見ず知らずの人を救いたい。本当にそう思っているとは言い難い。テレビの画面の向こう、戦争やテロに苛まれる哀れな人々に同情を覚えているだけ。救いたい。そのくせ自分には何もないから手はポケットに突っこんだまま。
ああそうだ。自分はそういう人間だ。
「そのまま前照らしてろ」
秋津さんが静かに成塚さんに命令する。
「分かっている」
秋津さんは鞘からゆっくりと刀を引き抜き、目の前の開け放たれたドアの前で刀を構えたまましばらく動かなかった。
ドアの先から前に突き出した腕と足の先がちらりと見える。おぼつかない息遣いが空気の流れをぐらつかせる。
ドアから顔と半身が現れる。何も身に付けていない老婆。皺を刻み垂れ下がる乳房。指の先を真っ黒な血で染め上げた彼女は傷こそ少ないものの立派なクリーチャーだった。何かの映画で観たことがある。その時に感じたおぞましさが蘇る。
真っ白な目がライトの明かりを認識してこちらに向いたところで秋津さんは刀を振り落とし老婆の首を綺麗に切り飛ばす。
首が壁に当たった鈍い音が通路に響く。バタンと体が後方に横倒しになってさらに大きな音を放つ。紛れもなく全員が息を飲み、張り詰めていた。それから数秒の沈黙。何も追ってはこない。
意識せずとも眉間にしわが寄っているのが分かっていた。あと少しで彼らに辿り着くというのにこの先ずっとこの調子なのか。不快な沈黙と心臓を掴まれる緊張が交互に息もつかずに俺たちを覆いつくすのだろうか。
当事者の秋津さんたちはその数倍嫌気がさしているだろう。ゾンビなど気にもせずに階段を駆けあがり屋上へと向かいたい、そう思っているはずだ。すでに数回全力で階段を上がる俺を想像した後だった。
でも実際、階段をあがれば屋上までもう少しなのだろう。ゾンビは階段を上っていけないことは分かっている。追われる心配はないのだ。そう思っていた。
階段はすぐに見つかった。これをあと何十段、或いは何百段上っていけばあっという間に開けた屋上に出る。求めている開放感が得られる。希望の光に安堵の息が漏れる。
そうなったのは俺だけだった。秋津さんたちは照らされた階段を見て顔をしかめていた。何が見えているのか、想像に難くはなかった。
冗談だろう?横から階段を覗き込む。狭い階段で立ち尽くすゾンビが一体、踊り場でうつぶせになったままピクリともしない推定ゾンビが一体。どうやって階段まできて突っ立っているのかは分からない。そんなことあり得るはずがない。しかし俺はこの目でそれを捉えている。
「どうしますかこれ」
階段から身を引き壁を背にして石井君が声を潜めたまま秋津さんに尋ねる。
「……俺は斬り込んで行けねぇぞ……。気づかれて飛び込まれたら何が起こるか分からねぇ」
「なら俺たちも無理ですよね」
「ああ、当然だ」
「ならどうしますか」
その先へ進む手を秋津さんが考える。再び沈黙。
「……連中を下ろすしかねぇだろうな。ドアなり叩いて階段から落ちるのを待った方が良い」
「リスクを伴うからあまり感心はしたくないところだが打つ手はそれしかないだろうな」
ならさっさと行動を起こすぞ、と秋津さんが階段正面のドアまで歩いていく。と、その歩みは止まってぐるりと身体が反転した。その鋭い目は丸く見開かれて、確実に俺を捉えていた。
「……てめえがいるじゃねぇか」
「えっ」
……俺?囮になれと?使えないならせめて餌としてゾンビをおびき出せと?
この人本当はヤクザじゃないんじゃないかという俺の中の評価が覆る。ヤクザはヤクザだ。弱いものを骨の髄まで食い尽くす気なのだ。
「いや、でも、いくら役に立たないからってそんな、成塚さんなんとか……」
「チャカ寄越せ」
手のひらを広げてチャカを要求する秋津さん。茶菓?俺は今飴玉すら持ってないぞ。
「秋津、お前には渡させないぞ」
「……こんな時まで何言ってんだ成塚。そこの腰抜けに使えると思ってんのか?状況を考えろ状況を」
「素人なのはお前も一緒だろうが。訓練を積んだ彼の方が遥かに弾を無駄にしないぞ」
「訓練だぁ?この前ブロック塀何発か撃ち抜いただけだろうが。タマ無しに弾が当たるわけねぇだろ」
「面白くない洒落だ」
「洒落を言ったんじゃねぇよ。いいから寄越せ」
ここに来てチャカがグロックのことだと知る。なら、秋津さんに渡したっていい。どのみち当たる気がしない。目標はブロック塀に刻まれたバツ印よりも遥かに小さく狙いづらい。
それに成塚さんが言っていた。撃たないという選択も選択の一つだと。
だから俺はグロックを成塚さんに渡そうと歩み寄る。
「……てめえ」
「正しい選択だ。私に任せておけ」
そうすれば一発でカタがつく。流れるように腕を伸ばしてブロック塀のど真ん中を撃ち抜いたあの時のように。
けれど、俺の腕は伸びきらなかった。成塚さんの手前で止まってしまった。
腕利きの人に任せればいい。他人に命を預けたほうが遥かに安全だ。分かってる。そうするのが一番だって。だから手渡してしまえ。渡す相手は成塚さんだぞ。信用にも足る人だ。
「……どうした?」
自分でもどうしたのか分かってない。けれど、ここでグロックを渡してしまったら何か大事なものを手放してしまいそうな気がした。
「……ごめんなさい」なんで謝罪の言葉が出てきたのかすぐには気づけなかった。沸き上がる衝動。忘れていた俺じゃない誰かの強い意志。
「託されたんです」
成塚さんは手をゆっくりとひっこめて小さく頷く。
「……ああ、そうだな。なら君がやるといい。君ならきっとうまくやれる」
「あぁ?何言ってんだお前ら。弾を無駄にするだけだろ」
「黙っていろ秋津。これは彼の問題だ。私たちが雨宮たちを探すように、彼にも彼なりの目的がある。止める権利など私たちにありはしない」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。状況を……」
「秋津」
この銃を受け取ったときに一緒に受け取った言葉を反芻する。頭の中で、そしてついには口に出して。
「……狙って、撃って、殺せ」
その時俺は自分以外の何かになっていたのかもしれない。




