第九十六話「それでも前へ」
「秋津、もう少しちゃっちゃと歩けないのか」
「うるせぇ。俺にはまだ信じられねぇんだよ。マンションの上から花火だ?馬鹿馬鹿しい」
「でもそれが雨宮の出した信号かもしれないんですよ?行く理由としては十分じゃないですか」
「……それにそろそろ日も暮れる。暗くなったらあのタワーマンションの中は外よりも危険かもしれない」
「……どうやらお前以外は全員意見が一致したようだぞ」
「……まぁ詩音の事もある。手掛かりがなかった前よりはずっとマシだ。だがいいか?」
俺の数メートル先をふらふらと歩いていた秋津さんは振り返ると獣のような目で俺の事を睨んだ。
「もしそれがてめえの幻覚だったりしてみろ。疲れだとかなんだとか理由があろうがなかろうが関係ねぇ。一発ぶん殴ってやる」
現役ヤクザの凄みに引きこもりが圧倒されないわけがなく、これ以上情けなくはならないほどの「ひゃ、ひゃい」という返答が喉の奥から生成される。
秋津さんは間髪入れずに成塚さんに殴られていたが、俺の心の震えは留まることを知らない。
どうかあの花火が見間違いではないことを祈らずにはいられなかった。
市の中心部に立つタワーマンションはここら一帯の中で一番高いことで有名だ。隣町くらいならビルや林の影からでも屋上付近をうかがえる。俺たち……秋津さん一行がタワーマンションに着いた時、辺りはそろそろ暗くなり始めようとしていた。
植込みの陰に大の大人たちが隠れているのはタワーマンションの中から耳を塞いでも聞こえてくる激しいノックの所為だろう。誰が言わずとも良くない状況だというのが分かる。
石井君や秋津さんたちは何も言わないで再び視線で会話をしている様だった。数週間とはいえ死線をくぐりぬけてきただけあって思考のやりとりはプロさながらだ。俺にはさっぱり分からない。
空気を読んで察するなら「入ろうか入らないか」だろうか。なんか違う気がする。
「二階からだろうな」秋津さんが返答するように言う。
「当然だな」成塚さんも同じようにして返す。もちろん植込みの陰に隠れてからは会話すらしていない。けれど二人は今までしていた会話を再開するような物言いだった。やはり視線で会話はできるらしい。
「二階からって……」俺は未だに会話の内容が分からずにいる。
「あぁ?決まってんだろ。入るんだよ。二階のベランダからな」
ですよね。入らないという選択肢はこの人たちにはないのだろう。
呆然と二階のベランダを眺める。二階とはいえ、容易に侵入はできない高さがある。地上から三メートルはあろうか。
「花田……お前、いける?」
石井君も俺と同じことを考えているようで一番背の高い花田君に質問していた。
「助走付けて飛べば行けないことも無いが……まさかここにきてパルクールを求められるとはな」
「躊躇してる時間はねぇ。悪いが俺から行かせてもらうぞ」
そういうと秋津さんは植え込みを乗り越えてタワーマンションの脇から走り出し二階のベランダの縁を両手で掴んだ。脚は宙ぶらりんになったままもがき、着地点を探している。
「秋津」
「なんだ、成塚……!!見て分からねぇのか俺は今お前と話してる余裕ねぇんだよ!!」
「最高に面白い格好だな」
「ぶっ殺すぞてめぇ……!!」
秋津さんはどうにか壁に足を引っかけて上体の勢いとともにベランダの向こうへと転がっていった。
「……っ!ってぇ……。おい、次は誰だ。手ぐらいなら貸してやるぞ」
秋津さんがベランダから手を伸ばす。けれど成塚さんは腕を組んだままで、石井君たちも互いの顔を見合っている。
「順番くらいさっさと決めてくれ。入り口はここしかねぇんだぞ」
「私は最後でいい。何より秋津の手を借りて上がるなんてあってはならないことだからな」
「同感だ成塚。てめぇは一人であがってこい」
二人のやり取りはさすがとしかいいようがない。
「……とりあえず日野君が先にあがったほうがいいんじゃないか?俺たちはなんとかあがれるだろうから」
確かにそうかもしれない。俺はさくっとのぼるどころかベランダに這い上がれるかどうかも怪しい。秋津さんでさえ足が宙に浮いていたんだ。自分の体を持ち上げるほどの筋力がどこにあろうか。
石井君たちに勧められて俺は秋津さんの下へと移動する。見下ろす秋津さんの顔は殺気立った肉食獣のそれだ。伸ばす手は音を鳴らしそうなほどガタガタと震えあがっている。
とりあえずは助走をつけて勢いよくベランダの縁を掴む。冬の乾燥した手に当たるコンクリートの衝撃は独特の痛みと熱を満遍なく手のひらになすりつける。
「……ったく、さっさとあがってこい」
そう言われて俺は秋津さんの手を掴む。あとは体をベランダの向こうへと持ち上げるだけ。けれどそう簡単に上手くいくものじゃあない。正直言って俺は自分の運動神経の無さを舐めていた。舐めきっていた。
いざ引き上げられるとなったとき、自分の体のどこに力を入れればいいのか全く分からなくなっていた。
「は?」
自分の体に疑問符を投げつける。文字通りの無力感。宙ぶらりんになった足の先から力が漏れ出ているようにさえ思った。
「何やってんだ!早く上ってこい!引き上げるのだって力いるんだぞ!」
「あ……あれ……?おかしいいな」
力を入れようにも力が入らない。力のいれどころ全てが間違っているような気がする。
「……ふざけてんのかてめえ」
「い……いや、決してそうじゃなくて」
上れるのならすぐにでも上っている。とは目の前の秋津さんに言えるわけはなかった。バタバタと手をもがけばどこに力を入れればいいのか分かるだろうと体を動かしてはみたけれど空気を揺らすだけで何も変わらない。それどころか焦りの所為で手汗すらかき始めている。
一度落ちて汗を拭いてからもう一度秋津さんの手を握るべきか。
「無理な話かもしれないが、もう少し早くはできないか?」
成塚さんの声が下から聞こえてくる。
「す、すいません!運動神経が思ったよりも鈍くて」
「それは……分かっているつもりなのだが……」
「もしもの時は逃げてくれても構わねぇぞ」
秋津さんは俺から目を離して成塚さんに言う。
「生憎犯罪者を置いて逃げる気はない」
二人の会話は不穏な空気を孕んでいる。嫌な予感にこめかみから汗が垂れる。
「成塚さん……あれ……気づかれてないですか?」
「だろうな。君たちは一人で上れそうなら上るべきだ」
下で何が起ころうとしているかは馬鹿な自分でもよく分かった。数秒の間を置いてベランダの縁に石井君たちがぶら下がる。花田君はそのまま空中で足を振り子のように振り体操選手のように上体をあげて難なく二階へと転がり込んだ。
そんな花田君を見て石井君たちも後に続く。まるでやり方さえ分かっていれば大丈夫だと言わんばかりに。
「成塚さん、大丈夫ですか?」
「ああ、すまない。悪いが手を借りる」
ベランダから伸びる花田君の長い腕が成塚さんの腕をつかみそのまま引き上げていく。俺以外の全員が上るまでかかった時間は三分無いだろう。
結局俺は全員の力で無理やり引き上げられることになった。酷い汗を冷たい風に曝してくしゃみをする。見下ろした一階の裏庭では二体のゾンビが俺たちを見上げながら上がり切っていない腕とうめき声を必死にあげている。みんなが俺を助けてくれなかったらあの二体に食われていただろう。
「完全に足手まといじゃねぇか」
自分でもわかり切っていたことを改めて告げられるのは非常に痛い。成塚さんも頭をハタくことはしなかった。大した理由はきっとないのだろうけど。
色々な意味で重い空気の中、刀の柄で窓が割られ、かかっていたカギが開けられてタワーマンションの中へと入っていく。
「完全に足手まといじゃないか」
音にはせず、口の動きだけで秋津さんの言葉を反芻する。
引きこもりが外に出たって、覚悟を決めたって、銃を持っていたってそれが俺であるということに変わりはない。俺以外の何かなら良かった。今まで散々思っていたことが頭の中を満たす。
俺以外の何かならきっと雨宮君を救えたのかもしれない。
俺以外の何かなら准尉たちの意思を継げたのかもしれない。
俺以外の何かならきっと、俺を助けてくれたあいつを見つけられたのかもしれない。
思いとは裏腹に体だけが前に進んでいく。最上階で待つ彼らの下へと。




