第九十五話「メーデー」
絶体絶命を前に俺が取れた行動は冷静沈着な頭の中とは裏腹の本能にも似た行動だった。食らいつこうとする顎から手を離して思い切り屈み、腰を入れて食屍鬼ごと壁に向かって走り出す。振りほどいても仕方がない。
人間の体は思っているよりも重い。持ち上げるでもなくただ押し返す、その行為が困難なものだと思えるほどに。相手に重心という概念はない。バランスよく立つことを考えもしない。食屍鬼の上体が自分の肩から背中へと覆いかぶさったとき、俺はここで噛まれてしまうだろうと思った。
暗闇の中で悲鳴と耳元のうめき声が反響している。早くこの体を引き剥がしたい。そう思うのは体から漂う悪臭の所為だろうか。一歩一歩を強く早く踏み込みながら全く視認できない前へ進むとやがて食屍鬼が壁に激突するのを抱えた背中越しに感じた。覆いかぶさっている重量が少しだけ軽くなる。
ゴン。
壁にしては奥行きを感じる音だった。直後壁の内側から酷く耳を労する音が俺の全身を叩く。
ドンドンドンドンドンドン!!!!
その轟音は前にも聞いたことがあるような音だった。けれど以前聞いたものとは比べものにならないほどに俺の恐怖心を揺り起こした。壁の脇で今にも立ちあがろうとしている食屍鬼には目もくれずに走り出す。
「雨宮……!大丈夫だったの!?」
「……ああ!!」
先ほどまで声を出してはいけないと思っていたのに、今は声を張り上げなければまともに会話すらできなかった。
「な……なんスか……!?あっちのほうで何かあったんスか……!?」
「分からない……壁にぶつかったら……!」
壁……?そうじゃない。水量を増して何もかも流し去っていく思考が、山を流れる源流のように穏やかになりこの状況を整理し始める余裕ができた。
「……エレベーターだ」
「じゃあ中に人がいたってこと……?」
「……いや……生きてるわけがない……!」
あの中は生きた死人の詰め合わせだ。幸い頑強なエレベーターの扉が開くことは無いだろう。それだけが救いだ。
「は、早く進んだ方がいいんじゃないでしょうか……」
「いや……」
救いはもう一つ。俺たちが出していい音が増えたという事。状況は体育館の時と同じだ。延々と叩かれるドア、延々とそちらに向かっていこうとする食屍鬼。ただ逃げ出すにはあまりにも状況が悪い。暗く狭いフロアを、食屍鬼がすぐ隣にいてもおかしくないような空間を歩いて行かなければならないという事。この音の事もある。どこへともなくうろついていた食屍鬼はすべてこちらに向かってきているだろう。それだけ接触の可能性も高まる。接触すれば……一巻の終わりだろう。
「慎重にだ……!周りをよく見て進もう」
似たような状況は前にもモールで体験したことがあるだろう。手元の懐中電灯はないし、秋津さんたちもいないけど。
音が止む気配はない。どれだけ耳を澄ましてもエレベーターのドアを叩く音しか耳には入らない。中の食屍鬼の拳はとうにひしゃげているだろう。それでもドアを叩くことを止めないのだ。
最悪だ。乾いた喉を唾液で潤す。暗闇に目が慣れてきたとはいえ、夜ではないから完全な暗闇ではないとはいえ、歩いている食屍鬼の大まかな位置さえ分からずにいる。いったん静かに壁際に寄って壁伝いに前に進んでいく。フロアの奥の方で暗闇の中をさらに暗い影がゆっくりと前に進んでいくのが見える。あれには気づかれなさそうだが。
エレベーターに向かっていくつもの影が数メートル先を横切っていく。その数は想像していた数の二倍以上かもしれない。もし音を発することができずにいたら確実に捕まっていただろう。この状況は俺たちにとって意外にも幸いとなった。
フロア奥の階段が見えた時、俺たちは走らずにはいられなかった。食屍鬼のように引きずりながら進んでいた足は自然に小走りになり、階段付近に食屍鬼の影が無いと分かると全力で走り出した。今なら多少は気づかれても大丈夫だろう。とにかくこのフロアから逃れたかった。
「あと何階かしら……休まず上り続けるのもそろそろ辛くなってきたけど」
「もう少しの辛抱だ。屋上までで終わりだから」
「……まさか屋上から飛び降りするわけじゃないッスよね……?死は救いじゃないッスよ?」
「ここまで来てそんなバッドエンドはねぇよ」
あれから何分たっただろう。暗闇の階段を上り、上り、上っている。フロアに着くたびに一呼吸おいて周りの様子を確かめてからさらに上のフロアへ。急いでいる割に効率が悪いことをしているような気がするが周りへの注意は必要なことだ。注意に要している時間だって少ないと感じている。十秒にも満たない時間立ち尽くして小さな音を聞き取るだけだ。安全確認とも呼べはしない。
「じゃあどうするんですか……?」
自分から少し遠い位置にいる有沢が尋ねてくる。当然ながら息も切れ切れだ。
「救難信号を出す。季節外れの花火を数発上げるだけだけどな」
「りくにー花火するの……!?」
「……ロマンチックでいいと思うッスけど……数発って・・何発持ってるんスか、それ」
それもそうだ。持ってきたトートバッグに手を突っ込んで中の筒を手探りで数える。
「……三発分だな……」
「……それ、大丈夫なんですか」
「不安ね……」
「雨宮君、湿気ってたらどうしようもないと思うんだけど」
そればっかりは運に任せるしかないかもしれない。仲間たちは半ば呆れ気味だ。
「それに、きちんとした打ち上げ花火じゃないんでしょう?」
「ええ……ホームセンターで買ったやつです。親父が買ったはいいけど打ち上げるような場所がなくって結局残しちゃったんですよね」
「こんなこと言うのもなんだけど……それ、救難信号になるの?」
「ええ」
それについては大きな自信があった。必ずあの人たちの目に留まる。そう言い切れる。
「随分自信ありげな回答ッスねぇ……。根拠が無いなんて聞きたくないッスからそれ以上は聞かないッスけど」
「大丈夫だよ!」声をあげたのは詩音ちゃんだった「みんな花火が大好きだもん!ね、りくにー」
「そうだね。みんな必ず見つけてくれるさ」
階段を上り始めてから屋上の扉を開けるまで一時間はかかっていないと思う。まだ夕方もいいところだ。曇っていて時刻は不明だけど。
屋上に出て俺たちを出迎えたのは雨曇りの重たい曇り空だった。屋上の風は強く、下にいる時よりもいっそう気温が低い。
「花火を打ち上げるにはコンディションが良くないんじゃないの?」
「でも、打ち上げられないと救難信号出せないですよ……?」
「有沢の言う通りだ。打ち上げられなきゃ助けも来ない。いいから打ち上げるぞ」
外に見えるようにとできるだけ端に移動して、あとは適度な距離を保ち人の壁を作って、風が吹き止んだ一瞬で花火に火をつける。大げさに振り返り仲間たちの下に走り出してもう間もなく打ち上げられる花火を待っていた。
それは僅か数秒の出来事だった。雨雲を背景にして小さな光が破裂音とともに炸裂して消えていく。その一瞬がそれぞれの目に焼き付くと誰とも言わず拍手があがった。俺もそれに続いてパンパンパンと消えた光に拍手を送る。
「……思ってたよりちゃんとしてたッスけど……誰か気づいてくれたっスかね」
「ああ。気づいてくれたさ。もし、藤宮がこのマンションから少し離れた場所にいたとして、誰かの放った光に気づくと思うか?」
尋ねられた藤宮は少しだけ考えてから「気づくッス」と力強く言った。
「……なんでか分からないッスけどね」
「……そうか?まぁ無意識のうちってこともあるだろうけど」
「どういう事ッスか?」
「……俺たちみんな、気がつくと空を見上げてただろ?」
二発目を置いて火をつける。間の抜けた音のあとで閃光が薄暗い空に舞い、風と共に閃光が消える。歓声や拍手の中、俺は藤宮の下へと戻る。
「学校から脱出した時も、ショッピングモールにいた時も……あの土砂降りの雨の朝も、中島さんを探しに行ったときの夕焼けも、土手で星を見上げた時も、俺たちはことあるごとに空を見上げてた。みんなだって同じさ。誰かがきっと今も空を見上げてるはずだ。秋津さん達ならなおさらだ。こんな小さな光でもきっと届いてくれるさ」
藤宮は俺を見つめたままで何も返さなかった。
「さぁ、最後の一発をあげるぞ。みんなよく見ておけよ」
湿った風が止んだその一瞬、世界さえ止まったように静寂が辺りを満たした。ライターの火と着火音が静寂を弾く。
パン
事実、最初の二発は花火とは言い切れないようなただの閃光に過ぎなかった。
最後の一発も今まで見てきた打ち上げ花火よりも遥かに小さいものだった。けれどそれは荒野に咲いた花のように、確かな美しさを保ちながら空に浮かび上がり、たった数秒でその花弁を散らしていった。
数秒の沈黙の後でまたパチパチと拍手があがる。
「……なぁ」
「綺麗にあがったッスね」
「……あぁ」
俺はまだ虚空を見上げている。視線を下ろせずにいる。理由は自分でも良く分かっている。喉から透明な言葉が出ようとしては呼吸として空気に消えていく。
「藤宮」花火が消えていく時間よりもずっと長い間のあと、ようやくそれは言葉になって喉の奥から出てくる。
「……なんスか?」
「……この間の返事さ……今してもいいかな?」
「……ぁ、い、いいっスよ。みんな花火してるし……」
見ればトートバッグに残っていた手持ち花火に興味を示した詩音ちゃんを中心に小さな花火大会が行われていた。
「あぁ……うん」
手で顔を覆ってから深呼吸する。さっきまでは普通に話していたのにこうも言葉が出なくなるものか。
「それで……返事は……」
「ああ」
遠くの秋津さんたちに小さな光を届けようとしたあとで、隣にいる藤宮に思いを届けられないなんて、そんなことないだろう。呼吸を整えるように小さく息を吸ってから火花を散らすように声をあげる。
「これが全部終わって、もし遠いとこで平和に暮らせるようになったらさ。……その時は一緒にいてくれないかな」
言葉もまた儚い閃光のようなものだ。白い息とともに打ちあがって消えていく言葉に先ほどの花火を重ねずにはいられなかった。
繋がってくれ、届いてくれ。わずか数十センチ隣の彼女の下に。
二人だけの沈黙の中で震える声が聞こえるのをただ待つことしかできずにいた。
「……っ……も、もちろんッスよ」彼女は鼻をすすりながら答える。「先パイは私がいなきゃダメッスから……っ」
「……ありがとな」
どうにも気恥ずかしい空気の中、パチパチと火花をあげている線香花火の光を見ている。これ以上の言葉は必要ないだろう。やれることは全部やった。彼女にも思いは届いた。
だからこそ強く願うのかもしれない。
繋がってくれ、届いてくれ。まだこの地で戦っているあの人たちに。




