第九十四話「最後の逃避行」
思っていたよりも小さな光だった。だからこそ心から強く願うのかもしれない。
繋がってくれ、届いてくれ。
春先、桜の花よりも先に小さな白い花が雨雲の立ち込める空に咲く。
自宅を背にして頭の中を整理していた。考えはもう一つにまとまった。トートバッグは藤宮に、詩音ちゃんは俺がおぶり、なけなしの武器は最上に渡す。
「本当に必要な時だけ使うと思ってくれ」
バールではあまりに心もとなすぎる。食屍鬼の腕の届く範囲まで近寄らなければならないという状況は本来避けておきたかった。俺はそうしたけれど、彼女にそうはさせられない。最上はしっかりとうなづくとバールを手に取って力強くそれを握っていた。
俺の頭の中でこれ以上食屍鬼に構う必要はないという結論が出た。あのアパートを出てからここまで実際そうだったわけだけれど。
「走らなくていい。できるだけ早く歩こう。俺たちが歩くのもあと少しだから」
両腕を俺の胸に垂らして掴まる詩音ちゃんにも小さく声をかける。
「あと少しでパパに会えるから」
「うん」
これで最後の逃避行。そうなればいい。
自宅を背にして歩き出す俺は、未だ覆いかぶさって離そうとしない寂寥や郷愁を払うように小さく「さよなら」とだけ呟いた。それできっとこの感情が拭い去れるわけじゃない。後悔しなくなるわけではない。一生この出来事を背負って生きて行かなくちゃいけない。
これはただ一歩を踏み出すためのさよならだ。
「雨宮、あのマンションに向かうんでしょう?進行方向のT字路を食屍鬼が一体横切ったけど……」
「回り道はしない。あそこまでまっすぐ向かおう」
「私もそれでいいと思うッスよ。もう回り道してられないッス」
最短距離を突き抜ける。突き抜けるというにはあまりにも勢いがないが、今勢いは必要ない。早歩きとも言えないような足の運びで曲がった先に最上の言っていた食屍鬼が姿を現す。
白と黒のチェックのシャツはボタンが外れてだらしなく下がり、背中から肩にかけて黒い血痕が覆っている。別に音を立てたようなことはないとは思うが食屍鬼はゆっくりと振り向いて、獲物を見つけたとばかりに下がりきった顎をさらにさげる。
「向かいからやってきたら素通りというわけにもいかないわよね……」
最上はため息交じりに一言だけ言うと覚悟を決めたようにバールを持った右手を静かに揺らし始める。できるだけ避けておきたかった状況がいきなりやって来たので素直にGOとは言い切れない。
「最上……」
「大丈夫よ。こういう事も考えて私に食屍鬼の退治させてきたんでしょう?」
「いいか、絶対に」
「噛まれない」小さく跳ね上がるように前へと進んでいく「噛まれないから」
最上の手から振り上げられたバールは食屍鬼の後頭部を強打させる。続けざまに側頭部へと一撃入れるとあろうことか両手で食屍鬼の体を自分の向こうへと追いやった。
「今のうちに早く……!」
食屍鬼は脳震盪こそ起こさないが、さすがによろめいた体を思いっきり突き飛ばされれば体は容易く倒れる。そうなってしまえば起き上がるのに時間がかかる食屍鬼たちの横を素通りするくらい簡単だろう。けれど納得よりも最上の行動に対する驚愕のほうが大きかった。
「力技ッスね」
「それな」間髪入れずに藤宮に返す。
「雨宮の言う通りにするためには力技だって必要になってくるのよ。あそこまでまっすぐ向かえって実際無茶な話でしょう?」
「それはそうなんだけど」
「信じてるから。あそこで全部終わりだって」
そう言い切られてしまうと逆に自信がなくなりそうだったが、めげてもいられない。今は言葉通りあそこまで向かうしかなかった。
人が集まるところに食屍鬼の影はある。終末世界での基本的な教訓だろう。今やかつての過疎地が過疎地でなくなるくらいに食屍鬼がどこもかしこも蔓延してはいるが原則は変わらない。駅から近いタワーマンションのエントランス、食屍鬼たちがうろついているのは外から簡単に確認できた。
エントランスはどうにかして抜けるしかない。その先、階段をいくつも上がって屋上へとたどり着く過程でいったい何体の食屍鬼と出くわすだろう。前にいたマンションとは勝手が違う。階段は狭く、住人の数も段違いだ。感染がこのマンションのどこまで広がっているのかまでは外から予想はできない。
「雨宮、入るんでしょう?もう何体かこっち来てるわよ」
駅近くのタワーマンションの前は広い通りの十字路だ。三百六十度、どこを見回しても食屍鬼の影はある。
「ああ。でも、見えてるだろ?中にいる奴らが。とりあえず階段までだ。そこまで気は抜くなよ」
少しだけ時間を置いた後、手前にいた食屍鬼の影が闇の中に消えた後で、音も立てず、エントランスのドアが開かれる。少しだけ重い扉の先から腐臭が鼻を覆うように流れてきた。薄雲リとはいえ外の明かりに慣れた目が一瞬のうちに闇に翻弄される。
息を止めながらその先のフロアへと向かう。静寂の中、息を吐くようなうめき声が闇を不気味に漂っている。白い床にところどころ黒い血がなびられていて、足を引きずっているような足音が奥の方から聞こえていた。
早く階段へと行き、外の光に触れたい。今はただその一心だった。必ず助かるという強い誓いもやはり一歩を踏み入れた瞬間に掻き消えた。
視覚情報はない。嗅ぎ慣れた血の匂いと距離感も分からない食屍鬼の足音だけが頼りだった。歩かずにその場に立ち尽くしたままの食屍鬼がすぐ目の前にいたとしたらひとたまりもないだろう。奴らに視覚情報は必要ない。
音を立てれば未だ数すら確認できない食屍鬼がまっすぐにこちらに向かってくる。外とは違い逃げ場も少ない。自分はもちろん仲間にも音は立ててほしくはない。
踏み出す一歩は今にも崩れ落ちそうなつり橋の上を渡っている様だった。つまづいてはいけないと暗闇に目を凝らし自分の足元と進行方向を忙しなく確認する。
食屍鬼の足音はそう遠いところにない。目の前に現れたなら突き飛ばすなりなんなり、奴の動きを止める必要がある。噛まれるリスクを考えているような状況ではない。
ふいに手の先が何かに触れる。それが柱でないと気づくのに時間はかからなかった。むこうもこちらの手が触れたことに気づいたのか、それとも人の発する匂いで気づいたのか、ゆっくりと大きく身をまわして二の腕を強い力で握って来た。
「……!!!」
声をあげなかった自分を褒めたたえたい。あと数秒で奴の口が俺のどこかを食い破りに来るだろう。酷く冷静だなと自分でも思っていた。仲間はそうじゃなかった。
「先パイ!!」
こっちが声をどうにか押し殺していても彼女たちにそれができるわけではない。暗闇に放り込まれても声を出さなかっただけ本来殊勝だろう。藤宮の声を皮切りに仲間たちが悲鳴にも似た声で俺の名前を呼ぶ。
大丈夫だから。実際そうも言ってられない。首元を突き上げるようにして顎から一時的に逃れる。
だがどうする。数は把握していないがこいつ以外にもまだ食屍鬼がいるはずだ。叫び声をあげてしまった以上、じきにそいつらはここに来る。袋のネズミじゃないか。
酷く冷静なのは心のどこかですべてを諦めてしまっているからじゃないか。ぐいぐいと血管が潰れそうなほど握りつぶしてくる右手と、顎を抑えた右手を押し返す力を前に考える。
時間はない。
次はどうする。




