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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
DEAD ZONE
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第九十話「かくして糸は断ち切られる・3」

 三上さんから好意でもらったハンカチ。

 そのハンカチは彼の頸動脈を締め上げるために強くピンと張っている。

 恩を仇で返すとはまさにこのことだろう。


 バタバタと力を振り絞りもがく彼の首をさらに強く締め上げる。右腕は背後に立つ俺をなんとか跳ね飛ばそうと服の裾を掴み、左腕はハンカチに当てられ、首が締まらぬように指先の一本一本が抵抗している。


「あんたが俺にこうさせた」


 もがき喘ぐ彼の耳元で呟く。こうしたくはなかった。けれどこうするしかなくなってしまった。


「……先パイ……!」


 藤宮はとうに目を開けて現場を目の当たりにしている。紛れもなく、それは殺人現場。噛まれているとはいえ、まだ転化していない人間を俺は殺そうとしている。


「目ぇつぶってろ……!!」


 殺しだけは絶対にしないと密かに誓っていたことを頭の中で打ち消して、さらに力を込めていく。今はこの男の動きが止まればいい。息が止まってしまうとしても、それでももう構わない。


 そうすることでしかきっと仲間は守れないのだから。


 圭一君の写真を見て築き上げられた覚悟が滾っていた。


 抵抗する腕は徐々に動く回数を減らし、バタバタとのたうち回っていた上体の動きも鈍くなっていく。命の炎がすぐ近くで消え失せようとしていくのを肌で感じている。

 本来ならその火を守るのが普通の世界のお話なのだろうが、この世界はそうじゃない。今にも消え果そうな命の炎を消すことにすべてを注いでいる。


 さっさと眠ってしまえ。そんな悪役みたいなセリフが沸き上がってくる。けれどその腕は一向に止まることなくかすかに俺の体に触れ続ける。


「くたばってくれ……!!」


 心境は声になって漏れる。視線は首筋に集約され、それ以外は遮断されたように見えない。 


 ここは地獄だ。改めてそう思う。


 醒めない悪夢。のたうち跳ね回る首筋から本当なら一刻も早く手を離したかった。



 ハッタリでもなんでもなく、俺は山本さんが絶対に探し当てることができず、理解の及ばない場所にいた。そんな条件の場所はすぐに思いついた。まさかそれが彼の真後ろだとは夢にも思わなかっただろう。

 


 彼が彼で居続けるためにどうしても存在を認めるわけにはいかない場所。それは三上さんの遺体そのものだった。シーツを剥がし、その下で厳重にグルグルと巻かれた包帯を外し、潰された顔の血なまぐささを帯びながら、俺は遺体の下で息をひそめながら待っていた。

 現れた山本さんは案の定視線をこちらの方へ一切預けることは無かった。どれだけキョロキョロ探し回ろうと、足を踏み出しすぐ横を通ろうと、決してこちらを見ようとはしなかった。包帯が解かれた今ならなおさらだろう。視界に入った瞬間、すぐさまそれを拒絶したはずだ。


 包帯を外している間、一度決めた覚悟とひたすらに戦っていた。


 殺意とは衝動的で感情的なものによってはじめて作られるものだと思う。だから人を殺すことに躊躇なんてものはない。その必要はないから。

 俺はそうじゃない。少なくとも殺意は芽生えてはいなかった。殺したいわけではなかった。殺さなければならないと取捨選択の末に至ってしまった。


 誰が咎めるだろう。誰かが咎めるのだろう。こんな世界ですらそれは許されないことだから。


 手の内に収めた頸動脈の動きが止まる。一線を越えた俺に言いようのない重たい何かが確実にのしかかる。


 秋津さんはどうしたのだろうか。千葉さんを殺せずに済んだのだろうか。大事な仲間を実際に殺されて、改心など望めない相手だった。日本刀を片手に出て行ったあとの結果を知ることなく今この場所にいる。秋津さんが千葉さんを殺したのなら、或いは殺さなかったのなら、今の俺に対して何と言うのだろうか。


 できるなら俺はこの行為を許されたい。或いは罰されたい。いずれにしたってあの人は正しい選択を取れる人なのだから。


「……パイ!……先パイ!!」


 身動きの取れない藤宮が俺を見ながら叫んでいる。あともう少しだから止めないでくれ。今ここで止めてしまったら何もかもが無駄になる。ぶら下がる手は依然として俺の服の裾を掴んでいる。その手が離れるまで、俺もこの手を離すわけにはいかない。


「手を離すッスよ!!」


「無理だ!!もうこうするしかない!!」


「違うッス!!三上さんはもう死んでるッス!!転化してるッスよ!!」


 ハッとなり彼の顔を窺おうと力を緩めた瞬間山本さんが前につんのめり、俺は彼の脇へと投げ飛ばされる。どうして彼がつんのめったのかは投げ飛ばされている間に分かった。

 

 捕食の対象が目の前にいる。運のいいことに手を縛られた状態で。


「避けろ藤宮!!」


 すぐに態勢を立て直してバールを拾い上げる。その時にはすでに山本さんはうめき声をあげながら藤宮の腕をつかんでいた。


「このっ……!!」


 せっかく持ち直したバールをよそに反射的にタックルをかます。大きな音を立てながら彼の体が床に叩きつけられると不快な振動が全身に伝わる。それと同時に開放感がやってくる。

 ピンチを免れた時の安堵ではなく、一言でいうのなら激情。衝動的な殺意。


 暗い雲のようにもくもくと襲い掛かった衝動に煽られてまずバールによる重い一撃が頭蓋を振動させる。固く重く鈍い音が部屋の空気を揺らす。

 幾度となく振り上げては振り下ろし、それから粘ついた音が畳の上で鮮血とともに不快に跳ね回る。


 それで彼の動きは止まる。返り血を浴びて薄暗い部屋の中一人大きく息を吐く。


 終わったんだ。何もかも。


 罪のなかった人が頭蓋を叩き割られ、顔面を潰された惨劇の数々に終止符を打った。俺たちまでそうなってしまうという最悪の結末をどうにか止めることができた。けれど心には何かがくすぶり黒煙をあげている。


 これで良かったのだろうか。


「これで良かったんだ」


 燻った火を足で踏み消すように自問自答する。


 隣を見ればいつかみたいに涙目でこちらを見つめる藤宮の姿がある。


 これで良かったんだ。今はもう先に進むしかない。隣を歩く仲間たちの手を取って。



 返り血を浴びて部屋に入って来た俺を最上たちが見上げている。藤宮とともに彼女たちを開放している間、重たい静寂が部屋を漂っていた。

 何が起きたのかは全員が知っている。俺が何をしたのかも全員が知っている。


「りくにー」


「……どうした詩音ちゃん?」


「助けてくれてありがとうね」


「……ああ」


 どういたしまして。とは素直に言えるはずがなかった。ただ彼女の頭を撫でて何かが変わってしまった自分に辟易していた。


「……三上さんは転化してたッスよ」


 藤宮が小さく呟く。俺に免罪符を与えたつもりなのだろう。けれどそれくらいですべてが許されるわけじゃない。それに俺は俺自身をきっと許さない。いかなる理由があったとはいえ、仕方がなかったとはいえ、避けるべき行為を避けることができなかったのだから。


「……雨宮」


「……大丈夫だ。何もかも分かってるつもりだから」


 今は自分を責めている場合じゃない。前に進むべきだ。






 


「……それで、これからどうするの?」


 時間はきっと昼も過ぎたころだろうか。アパートを離れ周囲を警戒しながら歩く俺は見知った場所へと歩みを進めていた。迷いのない歩みをとる俺を不思議に思ったのか最上が問いかける。


「全部終わらせるんだ」


 何もかも。もう歩くのに疲れ果ててしまったのだから。


「でもその前に一つだけやり残したことがあるから」


 じゃないときっといつまでも後悔する。この先長い生涯でも短い生涯でも、いつまでもその後悔はついてまわる。


「それに、全部終わらせるのに必要なものがそこにある」


 運命の巡り合わせなのかもしれない。それは写真の中でしか姿を見ることが叶わなかった圭一君が教えてくれた。あの場所に行かなければ、あそこで覚悟を決めなければきっと思いつくことも無かっただろう。


 決めたのは山本さんを殺すための覚悟じゃない。生きるための覚悟だ。


 仲間たちの顔を見てもう一度俺は呟く。


「全部終わらせよう」

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