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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
DEAD ZONE
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第八十六話「蜘蛛の糸・5」

「開けろ!お前を助けたい!」


 山本家の隣にある三上の表札。ここは私の部屋。愛する息子と二人で暮らす小さな部屋。カギの閉まったドアを私は激しくノックする。

 圭一はきっと怯えているのだろう。まだ高校生の彼が目の前で起こった殺人に動揺しないわけがない。一瞬のうちに豹変した二人を私は息子の前で殺してしまった。仕方がない。守るためなのだ。お前を守るためならなんだってする。殺しだってなんだってやってやる。私は何にだってなってやる。


「圭一!無事か!部屋のカギを開けてくれないか!?父さんと一緒に逃げよう!もっと安全なところへ!」


 そうすればきっと大丈夫だ。放浪し、救助隊員に出会い、私たち二人でこの地獄から抜け出そう。


 私の期待とは裏腹にドアはいつまでも開かないままだ。中からは音も聞こえない。私はドアからの侵入を諦めて山本家のドアを開けると、ソファを持ち出して私の家のドアの前に置く。

 どうしてこうする必要があるのかは分からない。ただ、なんとなく私の中の何かがそうさせるのだ。すべては完璧に行われるべきだ。そう私自身が私に告げている。

 

 そうして私は山本家のベランダから私の家に窓を割って侵入する。窓ガラスの割れた音に混じって泣き叫ぶ圭一の声が耳に入る。知らぬ誰かの声とともに。


「圭一!!ドアから逃げろ!!」


 嗚咽を飲み込んでその声の言う通りにドタドタと走り出し、ドアを押し開けようとする圭一は悲鳴のごとく私に向かって叫ぶ。


「父さん!!!開かない!!何かにつっかえてる!!!」


「「大丈夫だ!!」」


 知らぬ誰かが私と同じ呼びかけをしてゆっくりと私の方を向く。


「◯◯さん……あなたどういうつもりですか……!?」


 最初の方はまるでノイズがかかったようで聞き取ることができなかった。決して聞こえなかったわけではないが耳が、脳がそれを拒んだのだ。私は彼の質問には答えずに圭一に声をかける。


「圭一!!すぐに行く!そこで待っていろ!」


 その言葉を聞いた瞬間に彼の敵意はむき出しになる。何も言うことは無かったが彼の細胞一つ一つが私に嫌悪を示しているのだ。眼孔は鋭く、手足はこわばり、獣のように私を狙っている。


「……認めない、認めるわけにはいかない。なんとなくそう思うんだ。理由は分からない。私は息子を、圭一を守れればそれでいい。けれど認めるわけにはいかない。君の細胞、その一つ一つの存在を」


 君が誰だか知らないが、私が生きていくために君は居てはならないんだ。


 ずかずかと歩み寄る私に、彼は勢いよく飛びかかり、私を拳で殴りつける。肩に痛みが走るがそれを気に留めることはない。同じことを彼に行う。鈍い音、鈍い痛み。クッションの中のコンクリートを殴るような感触が左の拳を襲う。


 傍にあったテーブルの上にあったガラス製の大きな灰皿を掴み、彼の顔面へと投げつける。鼻を抑えながら痛みに悶える彼の首を絞める。


 不思議なくらい手際は鮮やかだ。愛する家族を守るためなのだからこれくらいでちょうどいい。私の首を掴もうとゆでだこのように顔を赤くした彼が悲鳴も上げずに両手をバタバタと鳥のように揺らす。指が私の顎を掠る。私はさらに手に力を込める。


 君に家族を守るという行為の重みが分かるだろうか。何よりも深いその繋がりを守るその使命の重みが分かるだろうか。


 彼の力が抜けていく。顎を掠っていた指が私に届かなくなっていく。彼の終わりがやってくる。絶命を確認するまで手に力を込めていく。

 直後再び衝撃が私の側頭部を襲う。鋭い衝撃に私の体は簡単に床へと伏し、テーブルの足に膝が当たった感覚だけが取り残される。


 白濁の霧が視界を覆い、やがてそれが晴れるころ、痛みを訴える頭に手を置くとぬるりと血の感触を覚える。手のひらを染色する赤黒い血。自分の足元に置いてあった灰皿が飛んできたに違いない。


「父さん、しっかりしてよ!!」


 視界の定まらない中、息子の声が聞こえてくる。


「心配するな……。私なら平気だ」


「あんたじゃないよ!!!……あんたは父さんじゃないだろ!?なんで答えるんだよ!!頭おかしいんじゃないのか!?」


 半狂乱になって圭一は知らぬ男の体を揺さぶる。私はその光景を受け入れられずに呆然と立ち尽くしてから彼の腕を引き寄せる。


「しっかりしろ!!父さんはここにいる!!」


「離せよ!!どうしてそうなるんだよ!!」


「圭一!!」


 私は息子の肩を強く握りしめ、彼の瞳を正面から覗き込む。


 恐怖に怯えた瞳が大きく丸く開き、震えている。


「……やめろ」


 圭一は私の手から肩を振りほどくと、先ほど私が投げ捨てたバールを手に取りそれを向ける。


「それは……できないだろう?私たちは家族だ」


「いいや……違う。あんたと俺とは家族じゃない」


 私は彼の言葉を聞いて、彼の瞳に別の何かを見る。震える瞳は、恐怖に怯えているわけじゃない。


 拒絶の瞳。私の存在を認めなかった裏切者たちと同じ瞳が私の目に映る。


「そうか……」脱力した腕に消えていた痛みが蘇る。「なら、私はどうすればいい?」


 誰になれば、私は救ってもらえる?手に入れた家族という強固なつながりからも拒絶されるというのなら、この永遠に続く地獄から私は誰に救ってもらえるというのだろうか。


 声をあげて猛る彼の顔を正面から殴りつけて、私は涙ながらに彼の落としたバールを振るう。おびただしい血が私の部屋に流れていく。


 垂れてきた蜘蛛の糸を自ら断ち切って、私は地獄へと再び落ちていく。






 


 白いソファの上で寒さに凍えながら鼻をすすり、私は天井を見上げる。それからふと思い立ったように立ち上がり玄関の外へと赴く。特別思い当たるようなことも無い。ただふらふらと外へ出向きたかったのだ。

 階段を降り、自転車置き場に巣を張った大きなコガネグモを巣とともにバールで払う。


 足場を失って地面に落ちた蜘蛛をアスファルトになすりつけるように足で踏みつけて通りに赴く。


 空はいつものように高く広がり、穏やかな風が流れている。

 地獄の窯の底。空を仰いで私は思い浮かんだ単語を鼻で笑う。いつかに生きていた日常は空のように眼前に広がっているのに、空のように遠く容易に掴めるものではない。


 ふと手元に何かがふいにぶつかり、振り返り驚いた私に目の前の青年は両手をあげて言う。


「……どうも、生存者です」


 そうして鮮やかな蝶たちは蜘蛛の糸に羽を取られる。

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