第八十一話「鮮やかな殺人」
ランタンの明かりに照らされて向き合う二人。午後七時四十分。
三上さんと俺、何か言葉を交わすでもなく、お互いに視線を泳がせて目を合わせるつもりはない。
いや、俺が単純に目を合わせていないだけなのかもしれない。
何も言えず、何も聞けず、何か聞かれるようなことも無い。時計の秒針は二人の間でいたずらにカチカチと鳴り響き、昨夜とはうって変わって静かになった隣の部屋がそれを際立たせている。
早く、就寝しても違和感のない時間になってくれないものか。あと二時間、ないしは三時間。ここで見たことをすべて忘れてこの場から逃げ出したい。
「……何日かしたら」手元のライターを点けたり消したりしながら三上さんが口を開く。「君たちは本当に出て行ってしまうのかい?」
「ええ。長居するわけにはいきません」
「……仲間か……」
「そうです。こうしている間も彼らは俺たちを探してくれているかもしれない」
三上さんはライターの小さな火を見つめる。その火の向こうに別の何かを見るように。
「失礼なことを聞いているのはよく分かっているんだ。……でも答えてほしい。これまでに仲間を失ったり、裏切られたことは?」
「……ありますよ。そのどちらも」
質問と同時にそれぞれの顔が浮かぶ。俺はあまり深いかかわりを持たなかったけれど、数日間ともに暮らしてきた人たちだ。その人の死に苦しみ、裏切りに苦しめられたのは紛れもなく事実だ。
「……そうか。私は裏切りに遭い、失った。たった数日の間だったけれど、確かに私の仲間だった」
「わかります」
「……だからこそ、私は君の提案について考えている。もうあんな思いは二度とごめんだ」
憂いを含みながら三上さんは言う。その言葉に罪悪感すら募っていく。彼を疑っている自分自身が信じられなくなっていく。もうそれ以上は言わないでくれ。心の中で静かに懇願する。
「……絶望的な状況に陥り、彼らは変わってしまった。ゾンビにじゃない。狂人か暴漢にだ。絶望は人を変える。長い人生の中で形成されてきた人格をいとも簡単に別のものに変える。どんなに信頼できた人間でもあんなに、簡単に」
「俺たちの仲間は違います。俺も、きっとそうです」
「……どうしてそれが言い切れるんだい?」
「……あの人たちには守らなくちゃいけない人たちがいる。折れそうになっても支えてくれる人がいる。そうやって絶望を乗り越えてきた。だから、間違ったことはしない。そう言い切れるんです」
「彼らと一緒ならこの世界から逃れられると?」
「ええ。今のところ明確な希望はありませんけど、必ず安住の地は見つけられる」
三上さんはランタンの明かりの向こうで穏やかに笑う。
「それはきっと誇らしいだろうね」
「ええ、まぁ……」
小さく息をつき、手に握った汗を親指で撫でる。
もうそれ以上、俺を混乱させないでくれ。
目の前で微笑んだ三上さんにその裏で悪意が隠れているとは到底思えなかった。彼は本当につらい思いをして、心の底から真に頼れる仲間を探している。
彼が危険な人物だなんて、俺の思い過ごしかもしれない。そうであってほしい。だんだんとその思いが固まっていく。
だから俺は彼の目をしっかりと見つめて尋ねる。
「……一緒について行きませんか?」
本当にそれを言ってしまっていいのだろうか。頭の中でよぎるころには言葉を口にした後だった。
「……それが叶うのなら、それが一番なんだろうね」
「もちろん俺は歓迎します。けれど一つだけ、俺にあなたを信じさせてください」
空気がさらに冷たくなったように感じる。遠くで小さな虫が鳴いているのが妙に部屋の中に響いている。決して心を平穏にすることのない歪な空気が胸をなじる。
次にいう言葉は一字一句分かっている。それを口に出していう事がおよそ困難だった。手汗を何度も握る。できるだけ声が震えぬよう、しっかりと唾を飲み込む。
「……隣の部屋の」上あごを舐めて一呼吸置く。「押し入れの中の遺体は、誰なんですか」
彼を疑わなければならない唯一の要因。あの遺体にさえ、きちんとした理由を言ってくれるのなら俺は喜んで彼を歓迎しよう。ともに生きる仲間として迎え入れてあげよう。
「……遺体……?押し入れの中に?」
「はい。シーツとロープで頑丈に巻かれた遺体の事です」
俺がそれを見たことを既に勘づいているのだろう。だから素直に訳を話してくれ。彼が誰なのか、どうしてああする必要があったのか。
「……ごめん、何を言っているのか」
俺の期待に添わず、彼はなおも白を切る。
俺はその場から立ちあがり、すぐそばのふすまを開け、さらにこもっていく腐臭を浴びる。下水管の中にいる方がマシだろう。人の腐っていく臭いより人の排泄物の方がずっといい。鼻での呼吸を止め押し入れのドアを開ける。
今度は落ちることなく、シーツで巻かれた足先が少しだけ飛び出るにとどまっている。俺は彼の遺体を引きずり降ろして、三上さんに向き直る。
「これは誰ですか。たまたま話し忘れたって言っても、状況が少しおかしい気がするんです。彼は誰で、何があってこうなったのか、」
「知らない」
低い声のトーンに心臓が縮む。
「……でも、生存者はあなただけになってしまった。他に誰がこんなことをするっていうんです?」
「知らない。知らないんだ私は」
「じゃあ他に誰が……。辛いとは思うんですけれど、思い出せませんか?どうしてこうなったのか」
「……いや、何も」
覚えてないというより、考えたくないという間だった。そうはさせまいとさらにたたみかけていく。
「彼の服装を見れば彼が誰だったのか思い出せるんじゃないですか」
そう言って畳の上に転がった遺体にきつく巻かれたロープを強引にほどいていく。体にあざが残っているのだろうと容易に推測できるほど力強く巻かれている。そうする必要があったのではなくきっとこれは執念によるものだろう。なんとしてでも彼の遺体を隠し通したい、外の空気に触れさせてはいけない。そうした思いが巻かれたロープに表れているのだろうか。
そう考えてしまった時、体に悪寒が走った。
犯罪者の心理を垣間見たような、気味の悪い悪寒。それがねっとりと首筋にまとわりつき頬を撫でる。そして俺は、シーツにくるまれたままの遺体が誰なのかを知る。
「……っ!!」
直後、背後に立つ彼に肩を力強く掴まれる。閉じ切った口から微かな悲鳴が漏れる。
「……やめてくれ。私も知りたくないんだ」
決して威圧するような声色ではないけれど、肩は必要以上の力で掴まれている。言われるがまま、ゆっくりと手を離す。
視線の先にいる彼は暗がりの中で、どんな顔をしているのかはうかがえなかった。ただそこに立っていた。食屍鬼のようにゆらゆらと。
酷く長い時間が経過しているような気がして時計を見れば午後九時三十五分。沈黙の二時間はじっくりと流れ、淀んだ闇が頭上でうねりをあげているような気がする。
この二時間で多くを考え、悩み、そして結論に達した。
この人を連れていくべきではない。
すべてが分かったわけではない。ここで何があったのか、なぜそうする必要があったのか。けれども、遺体の正体が分かった時点で彼が平常心を保っている人間でないということは分かった。当初の予定通りこれ以上の詮索は必要ない。
あとは、彼が眠りにつくのを待つだけだ。そうして夜中にここを発つ。それまで何も起こらないことを願い、じっと絨毯の上であぐらをかいて待ち続ける。
彼はあれ以来、言葉を発していない。かといって特別様子がおかしいというわけでもなく、オレンジ色のランタンの灯りで文庫本の文字を追っている。俺が彼を連れていくかどうかの回答を待っている様子でもない。まるでこの数時間の間に起きたことすべてを忘れたように、俺と同じくただそこにいる。
しばらくして彼は文庫本をたたみ、机の上に置くと大きく伸びをする。最初にあった時から変わらず着ている返り血のついた灰色のセーターもその皺を伸ばす。
それをただなんとなく眺めていた。変わった動きには到底思っていなかった。何気ないそのしぐさがこの部屋に蔓延る様々な疑念を一つに集約させる。ここで起きた惨劇のすべてを語る。
確かに確認したそれに息を呑み、自然と彼との距離を置く。ゆっくりと座ったまま後ずさりをするように、少しでも彼から離れる。相手に違和感を覚えさせないように背後にあったティッシュペーパーを数枚取り出し、詰まってもいない鼻をかみ部屋の隅のゴミ箱へと捨てる。
そうやって何気ない仕草を取ったつもりだった。極力自然体を努めたはずだった。
彼は指先一つ動かさずに俺をじっと見つめている。
昼間、ふすまの向こうに見えたあの目でじっと俺の姿を捉えている。
何か俺はミスを犯しただろうか。早まる呼吸とともに一連の行動を振り返る。
いや、ミスは何一つ犯していない。不自然なことなど何一つとしてなかった。
犯したミスがあるのならただ一つだけ。俺は彼らと同じ行動を取ってしまったのだ。
目黒さんや、圭一君、シーツの中の彼と同じ行動を取ってしまった。
セーターの下にある彼の噛み傷を見て、後ずさってしまったのだ。
彼は何も言わない。俺から決して目を逸らさず動くそぶりも見せない。
おそらくは待っている。俺が次に何をするのかを。
昼間の状況と大して変わりはしない。一つだけ大きく違うのは俺はこの場から動いてはいけないという事だった。
動けばそばにあるシーツの下の目黒さん同様、頭を潰されてしまうだろう。
「……噛まれてから何日目ですか」
ゆえに、彼に真実を問う事しかできない。
「……噛まれる?私は噛まれていないよ」
そう言うとは思っていた。ならなぜ俺から目を逸らさない?噛まれたことを悟られたんじゃないかと疑っているんだろう?
彼のいう事はすべてにおいて矛盾している。それはそうだ。存在そのものが矛盾しているのだから。彼が噛まれたその時からすべてが。
「その袖の下の傷跡は?」
「ああ、これかい?」
彼は言われるがまま袖をまくり、抉れた腕の傷を俺の方へと向ける。腐敗が進み、傷の周囲は黒く照っている。まくられた袖口までねっとりと真っ黒な体液の糸が引いている。
「これは……分からないな。でも噛み傷じゃないよ。だってほら痛くないんだ」
彼は傷口に人差し指を突っ込み、感染した体液や膿をほじくり返す。ぐちゅぐちゅと不快な音を立てながら汚染された肉片や淀み切ったどす黒い血が腕に空いた孔から零れ落ちる。
「噛まれたのなら痛いはずだ。でも痛くはないんだ。ねぇ、君はどう思う?」
突っ込んだ人差し指が骨まで到達したのか、彼はそのまま腕の傷をほじくり返し続け、自分の肉をつまんでちぎり、深緑の絨毯を汚していく。
「俺が見るに、噛み傷だと思いますけどね」
「それは違う!!」彼は激昂する。「……最初に噛まれたのは山本さんだ」
そうだろう。最初にあなたがそう言っていたじゃないか。
「私は噛み傷を負わずに圭一とともに逃げた」
それも真実だろう。そうして三上さんはこの家までやってきた。
「……そうだ。しっかりと覚えている。私は噛まれていない」
「ええ。確かにそうかもしれないですね。あなたは噛まれてはいない」
「そうだろう?」
これ以上の詮索はしない。もう一度頭に焼き付けるようにその言葉を反復させる。
「なら、どうして私から離れようとするんだ?」
踏みとどまっていた手と足がいつの間にか少しずつ後退していた。
「いいえ、決してそういうわけじゃ……」
「ああそうか」
彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に立てかけていたバールを握る。
「君もそうなのか」
もう立ち上がって逃げ出すしかなかった。
振り返らず深緑の絨毯を蹴とばし、急いで部屋を出た途端、部屋のランタンの灯りが消え突如として闇が訪れる。一瞬のうちに流れ込む思考。
どうして明かりを消す必要があった?仮にここを出て隣の部屋の仲間にどうやって危険を知らせればいい?部屋を食屍鬼のようにノックしたところで彼はすぐ後ろでバールをもって襲い掛かってくるだろう。
もう叫ぶしかない。
そう思って息を吸い込んだ途端、俺の体は宙に浮く。左の足が鈍痛を訴える。
床に叩きつけられ、顎と手首を打つ。軽いやけどのような痛み。
暗闇の中で、俺は何かにつまづいたのかもしれない。よりによってこんな時に。昼間の間には廊下には何もなかったはずだ。
右手を床に着くと手首に鈍い痛みが走った。
再びランタンの灯りがついたのか、腹ばいになっている俺の周囲の真っ暗な闇が急に明るくなる。
突然の眩しさに目をつむり、もう一度周囲を確認する。
何につまづいたのかは一目瞭然だった。
狭い廊下のフローリングからたった数センチの高さで突っ張り棒が設置されていた。
「ああ……」
指先から力が抜けていく。
背後から自分の脇を通っていく静かな足音。それが俺の前まで来て止まる。
視界に映る灰色の靴下。
首を傾け、上を見上げる。
バールを振りかざし、今にも振り下ろさんとするその目は大きく見開かれ狂気を孕んでいる。
訪れる衝撃。
訪れる永遠の闇。
焼け付いたような痛みと、激しい耳鳴りはたった数舜で深い闇の中へと消えていった。




