第八十話「CHILDREN SHOULDN'T PLAY WITH DEAD THINGS」
足元に転がった遺体は身長百七十センチ近く。シーツを被された山本さんや、布団の上で横たわる圭一君の遺体とは違って、身体の一片も外に出さずに丁寧にシーツで巻かれ、人のシルエットが見えるほどにロープできつく結ばれている。丁寧というべきか、厳重というべきか。
とにかく、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「雨宮くん?こっちに来たのかい?」
ふすまの向こうで三上さんが俺を呼ぶ声がする。玄関で靴を脱ぎ、フローリングの床にミシミシと一歩ずつ足を踏み入れて歩く音がしている。背後のふすまが開けられるまで数分と持たないだろう。
急いで押し入れの戸を開けて遺体をもちあげようとしたのはいいが、彼の肩を両手でつかんだ瞬間にそれが容易いことではないと知る。体重は七十キロ近くあるだろうか。とても一人で瞬時に持ち上げられる重さではない。
この遺体を見てしまったことを悟られてはいけない。
本能がそう告げる。心臓の警鐘が体内で鳴り響いている。
「雨宮くん?」
ふすまのすぐ向こうで声がしている。ここが開けられるまでもう一分もないだろう。もう遺体を戻すのは不可能だ。とっさに振り返って押し入れの戸を静かに、素早く閉める。あと数秒待ってくれ。
「……おかしいな。確かに音がしたんだけれど」
昨夜の声の筒抜け加減を見る限り、音が向こうの部屋まで届いていてもおかしくはないだろう。ただ、おかしいのは歓談中にその音に気付く人間だ。
あらゆる注意を払い、すべての動作を静かに行う。果たしてこれで誤魔化しきれるのだろうか。
「まさかこっちの部屋かな」
ふすまが静かに開かれる。俺は急いで額の汗を拭う。
「……大丈夫かい?」
開け放たれたふすまに手をかけて心配そうに俺を見つめる三上さんと目が合う。
「……すいません、ちょっと引っかかって転んじゃって」
三上さんはうずくまる俺と、その隣に倒れ掛かった上着掛けを見つめている。ハンガーにかかって大きく開かれた紺色の大きなダウンジャケットと暗緑色のコートが遺体を覆い隠してくれてはいる。あとは悟られなければいい。次に来る質問を頭の中で予想し、回答を巡らせる。
「……どうしてこんなところに?」
「あぁ、昨日この部屋で小さなライトを落としたかもしれなくて」そんなものあれば今までの道中どれだけ助かっただろう。
「そうなのか。でも、昨日はこの場に少ししかいなかったから隣の部屋にあるんじゃないかな」
「ええ、たぶんそうだと思います。ひょっとしたら山本さんちで落としているのかもしれない」
「ああ、きっとそうだ。……ここは、あまり空気が良くないから早くこっちに来た方が良いよ」
「ええ、これ戻したらすぐに行きますから」
三上さんはふすまを閉めて再び山本さんの家へと戻っていく。安堵のため息をこらえて、湿気の匂いが募るコートの上に座る。
三上さんがこの部屋に来てほしくないということは、今の会話でうっすらと感じ取れた。緊張から喉が渇きを覚えたので唾液を飲み込んでから閉まっているふすまに向き直る。
瞬間、吐きかけた息が止まる。ゆっくりと視線を床の上着に戻して静かに額から垂れる汗を拭い、そのまま気づかぬふりをするために髪を梳く。
閉められたふすまのわずかに空いた隙間から確かに目がこちらに向いていた。
隙間の目は動くことも無く、座り込んだ俺を瞬き一つせずにじっと睨んでいる。明らかに、俺が動くことを待っている。
一瞬の事だけれど脳裏に焼き付けられたその目は上着掛けの下に遺体があるではないかと疑っているように俺とその周辺をぎょろぎょろと見張っていた。
その目は紛れもなく三上さんのものだろう。そんなの誰だって状況を考えればすぐにその答えに行きつく。……本当にそうだろうか。
それすらも疑いたくなるほど、鋭く開かれた眼孔。先ほどまで目の前にいた彼のものとは思えずにいた。
確かに上着はこんもりと盛り上がり、下に何かがあるではないかと察するのは実に容易だ。だがここで諦めてそのまま遺体を曝すような真似をしたくない。バレているとしても、疑っているとしてもどちらにしても隠し通したい。
隙間から覗く目を目を合わせずに睨みつける。それからゆっくりと立ち上がり、倒れた上着掛けをそのままにふすまにゆっくりと歩み寄る。足が冷たい掛布団を踏むと、目の前にあった目は消えて、抑えられた足早な足音が玄関へと消えていく。ガチャリと静かにドアの音が鳴ると、そこでようやく安堵のため息を漏らす。
コートをかき分けてその下にある遺体を手でなぞる。
「……これはなんだ……?」
と、言いつつも何度も見て何度も考えた。どう見たって遺体なのだけれど。おそらくはこの遺体が何かのカギだ。調べてみる価値はある。
けれど、ただでさえ上に上げるのが大変な遺体だ。きつく結ばれたロープと綺麗にまかれたシーツを取って、元の状態に戻す余裕があるだろうか。
かぶりを振り、ふすまを静かに開けて周りの音に気を配りながら立てかけた遺体を持ち上げて無理やり上に上げる。強引に押し入れの中へとあげられる遺体は骨の折れる音を立てながら小さくうずくまっていく。どんな状態で入っていたかは知らないが、開けて落ちてきたという事実を考慮すれば丁寧に入れられたわけではないという事だろう。
上着掛けを元の位置に戻してふらふらと腐臭にまみれた部屋を出る。玄関を開けて大きく息を吸い、そのまま手すりにうな垂れる。
すぐにでも山本さんの部屋に入らなければ三上さんに疑われてしまうかもしれないが、既に疑われている可能性の方が高い。なら少しくらいゆっくりしたって大丈夫だろう。呼吸を整えながら噛みあいそうもないパズルのピースを一つ一つはめていく。
単純にあの遺体について話し忘れた。・・確かに他にもここに籠城していた仲間がいたとは言っていたけれど、遺体の保管場所も状態も説明がつかない。
仮に三上さんが何かシリアルキラーのようなものだったとして仲間を殺していたのだとしても、あの遺体の状態に説明はつかない。そうするべき理由が何一つ思い浮かばないのだ。
彼は危険人物だろうか?今のところはおそらくそうなのだろう。
だが彼がどんな危険人物なのかが分からない。
どのみち、することは一つだ。
山本家のドアを開けて中へと入っていく。
「やぁ、遅かったね」
ソファに座る三上さんが取り繕っているのかどうかは分からないが、普段と変わらずに声をかけてきた。
「ええ、やっぱり気分が悪くなってしまって」
「そうだろう。こっちにおいで。最上さんがお茶を淹れてくれたから」
「そうっスよ先パイ。最上先輩の手を煩わせるなッス」
「ああ、悪い。ありがとうな」
部員たちもいつもと変わらない様子だ。ソファに腰掛けて仲間たちの歓談に耳を傾ける。
三上さんとは時々目が合ったけれど、最初にここで話した時のように微笑むだけで、悪意はちっとも感じられなかった。
バレていない……?きっと違うだろう。少なくとも、確実に疑いの目はかけられている。
俺も同じく彼に疑いの目をかけているので、せめてそれがバレないように紅茶のカップに目を落とす。できるだけ、自然に。
もう、探る必要はない。悟られなければそれでいい。
十五分ほど経って、特に言葉を発しない俺の様子に誰かがそろそろ気づく前に自ら立ち上がる。
「すいません、やっぱり気分悪いので外に出てきます」
「……大丈夫かい、雨宮君」
「どうしたの?風邪でも引いた?」
「いや、そうじゃない。……すまん最上、あとで薬を持ってきてくれないか」
「……分かった。薬局で調達したのがいくつか残ってるからあとで出して持って行くわ」
「ありがとう、助かる」……本当に。
五分ほど経って、玄関が開き上着を着た最上が現れる。
「何かあったの?」
もちろん彼女の手元に薬はない。ポケットに手を突っ込んだ最上の腕を引き、できるだけ小さく会話をする。
「……三上さんは?」
「結衣ちゃんたちと話してるけど」
「そうか……」
これ以上の詮索はしないけれど、おそらく狙いは彼女達ではないだろう。なら何の狙いがある?頭に浮かんだ考えを一度隅に追いやる。
「今夜、ここを出ようと思う」
「……それは、どうして?」
「危険かもしれないんだ」
「三上さんが?」
一呼吸おいて頷く。「たぶんな」
「昨日の晩に何かあった?」
「いや、そういうわけじゃない。……ただ」最上ならどう思うのだろう「遺体が出てきた。三上さんが話していた以外の誰かの遺体が、押し入れからシーツとロープでぐるぐる巻きにされて。俺が発見したことは三上さんは知らないと思う」
「……思うって断言はできないの?」
「……ああ。申し訳ないけど、言い切れない。見つかったかもしれない。それがなんであれ、誰であれ早いうちにここから出たほうがいい。三上さんが知らないうちに、今晩、ここから出よう。食屍鬼に囲まれるかもしれないけど、ここにいるよりはいくらかマシだ」
「ええ。そうしたほうがいいわね。このことはみんなに伝える?」
「いや、まだ言わないでくれ。動揺して三上さんに悟られたくはない。できれば夕方くらいがいい。心の準備もできるだろうし」
「分かった。それまで気を付けてよね」
「ああ、これ以上は俺も首を突っ込みたくないしな」
このまま何もかも見なかったことにして、早く安心できるところへ帰ろう。
背後に迫る得体のしれない闇から一刻も早く逃げたいが、最上に行った通り今すぐ退散というわけにはいかない。
できるだけ部員たちから離れずに夜を待った。ただひたすらに、焦燥に駆られながら、動かしたい手足を木の根のように張り、夜を待った。




