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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
DEAD ZONE
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第七十九話「開かずの間」

 夜の帳が降りてすっかり周りが見えなくなるころ、俺は部員たちを山本家に残して隣の三上さんの家に上がる。玄関の戸を開けた時から若干の腐臭が鼻先をくすぐっていて、空気はどこか張り詰めていた。

 捜査に慣れた警官は家に入った瞬間に漂う空気で何か異常な事態が起こったと察するらしいが、俺にも似たような感覚が備わってしまったのかもしれない。すでに鼻でそれを感じ取っているので第六感が働いたというわけではないが。


 三上さんは下駄箱の上に置いてあった懐中電灯で足元を照らしながら先に上がっていく。


「ごめんね。……そのままなんだ」三上さんが振り返って言う。


 何もかも、彼が一人になってからすべてがそのまま。

 なにがそのままなのか。俺に説明の必要はなかった。


 部屋の奥まで三上さんのあとについていき、「適当なところに座っていいよ」と言われたのでソファの見当たらない部屋、深緑と思しき色の絨毯の上に座る。相も変わらず部屋の中は寒く、おそらくは使用不可能であろう石油ストーブを見ながら小さく息をつく。視界の端に淡い黄色のシーツが映る。


 見回さずとも部屋の中央から少しずれたところにそれはあって、部屋に入った時、一番最初にそれが目に留まった。隠すことも無く、どこか端に追いやるでもなく、埋めるでもなく、自然に、或いは乱雑に、それは横たわっている。


 シーツの中央付近、顔があると思われる場所には真っ黒な血が染み込み、淡い黄色を侵している。シーツからはみ出た右手と黒い靴下を履いた右足が力なく投げ出されている。

 彼はどっちだろう(・・・・・・・・)。俺は視線をシーツから三上さんに向ける。


「ああ……」彼はすぐにそれを察してくれた。「彼は目黒君だ。隣の部屋で亡くなった。私がここまで引きずってきたのは彼だよ」


「どうしてここへ?」


「……彼を引きずって二階から地上に持って行ける体力がなかった。それに、彼を引きずっている間は私は両手をふさがれて危険を察知することすらままならない。それで私が食べられてしまったら元も子もないからね」


 成程、それもそうか。けれどせっかくここまで運んだのだから端に追いやるくらいやってしまえばいい。故人にこう言うのもなんだけど、正直邪魔だ。

 そう思ってしまうのは俺が彼とは他人の関係でしかなく、なおかつ彼が死んでしまっていてただの亡骸に過ぎないからなのだろう。死体を見慣れてしまった今、ショックも沸き上がりはしない。


 ランタンに照らされた小さな部屋を見回す。点くことのない天井の照明、テレビ、エアコン。壁に掛けられた誰かのサイン色紙、カレンダー。野球チームのファンなのか虎の置物がちらほら棚の上に見える。の割にマスコットキャラの姿がないので虎が好きなだけなのだろう。それを目の前の彼に聞くほど暇をしていない。

 

「そういえば、これ」


 三上さんは戸棚からスナック菓子を取り出して封を開け、絨毯の上に置く。チーズ味特有の濃ゆい匂いが辺りに放出される。今日の夕飯だろうか。


「まだこの部屋にも食料はあったと思うんだけどさ、一応小腹がすいただろう?」


「確かに、そうかもしれないですね」


 なんだ、これからまだ出てくるのか。贅沢にも安堵を感じている自分がいる。

 それから特に会話を交わすことも無く、スナック菓子をつまみながら俺はまた部屋を見回す。隣の部屋で女子がキャッキャとはしゃいでいる声がBGMなのは少々癪と耳に障るが致し方ない。


 キョロキョロと見回してあるものがこの部屋に無いことに気づく。それが違和感を覚えさせた。


 普段ならそれは自然に目に入り、それに対して何とも思わないのだろう。しかし今回は違った。三上さんが先ほど彼について触れたからこそ、俺はその違和感に気づく。


「この部屋にはいつ越して来たんですか?」


「そうだな……。妻と別れてからすぐにここに越してきたし、四年ほど前になるかな」


「そうなんですね……」


 父親一人で年頃の男の子を育てているのか。仕事人間の父を持つ身としては彼には敬意を抱きたい。

 けれど、その答えを聞いたからこそ謎は深まるばかりだ。

 

「……あの、俺どこで寝たらいいんでしょうか」


「ああ、悪いんだけどこの部屋を使ってもらっていいかな」


 あわよくば他の部屋に入るきっかけを作ろうと思ったのに、いとも簡単に出鼻をくじかれる。俺はできるだけ自然に困り顔を作りそのまま遺体の方に向けて三上さんに返す。


「……ああ、そうだよね。でも寝室は……」


「圭一君ですか」


 遺体は、もう一つある。それが誰なのかも消去法で把握できる。


「彼の部屋を見ても?」


「……ああ、そうだね。こっちだから、付いてきて」


 懐中電灯を持って立ち上がった三上さんに続き、居間の奥のふすまを開ける。


 開け放たれた寝室のこもった湿気の匂い、胃酸と血液がまじりあったような腐臭は吐瀉物と臓物を容易く連想させてくれた。吐き出す前に素早く部屋に戻り、窓を開けて息を吸い込む。こみあげた自分の胃酸を飲み込んで再びふらふらと腐臭の元に帰る。


「大丈夫かい?」


「ええ……すいません……」


 圭一君の遺体は血に濡れた掛布団の上でうつぶせになったまま放置されていた。シーツをかけられているわけでもなく枕に浸かっていたと思われる赤いビーズクッションを右手に掴んでいる。顔は損傷が激しく生前の顔も想像がつかないほどだ。暗闇でさえ損傷の具合が分かるのだから、明かりが点いていたり今が昼時だったならすぐにでも吐き出していたことだろう。

 たまらずに部屋から出てふすまをしめて脂汗を拭う。


「……これ、使うかい?」


 三上さんがハンカチをもらい、滲み続ける汗を力強く拭く。

 彼は平然を装っているけれど、きっと開けたくはなかったのだろう。ましてや実の息子なのだから。

 これ以上圭一君には触れられない。三上さんだってきっと触れないようにしている。


 だからこそわざわざ隣の家で就寝しているのだろう。自分が生きるために取った行動を永遠に責め続けながら。

 俺の探している物が見つからなくて当然だ。それがあれば嫌でも息子を思い出す。それもずっと昔にあった幸せな彼の姿よりも、頭の潰れていくごく最近の彼の姿を。

 この部屋には、写真がひとつも無かった。

 見れば虎の置物の隣には不自然なスペースがいくつかあって、そこに写真立てがあったのだと思われる。


「ごめんね。一応、君は分かってると思ってたからさ」


「ええ……まぁ、そうだとは思ってました。大丈夫です」


「夕飯食べられそう?」


「いや、結構です」


 食べられそうにもなかった。隣の部屋の匂いが静かにこの部屋まで漂ってきているのだから。


「寒いけど開けといた方が良いよね」


 そう言って三上さんは閉めきっていた窓を半分だけ開ける。吹き込むようにして入って来た夜風は厚着をしていても堪えたが部屋と喉の奥に残る不快感をある程度は拭い去ってくれた。

 俺は僅かな痛みを訴える頭を絨毯の上に置いて遺体の隣に寝そべる。


 明日にはここを出て行こう。これ以上三上さんにつらい思いをさせてしまってはいけない。けれど同時にどこか寂しがっている彼の姿も思い起こされる。彼を連れて行こうという思いもよぎる。

 すべては三上さんの反応と仲間の反応次第だ。


 明日すべきことを頭にいれて自然と睡魔に誘われていく。となりで同じように雑魚寝する三上さんも既に寝息を立てていた。


 そうして俺は朝になって三上さんの声で目を覚まし、上体を起こす。右腕についた血をもらったハンカチで拭い、それを乱雑に折りたたんでポケットにしまう。汚れてしまい洗う手段もないので返すわけにもいかず、かといってちり紙のように捨ててしまうのは失礼だと思った。


 

「おはよう雨宮。そろそろご飯出来るわよ」


「おはよう。そうだと思ってやってきた」


 山本家のドアをノックして一番最初に出てきたのは最上だった。三上さんと二人で奥に入りソファに座る。テーブルには小さめのガスコンロと不釣り合いの大きめの鍋が置いてあり、中で水分を多く含んだご飯がぐらぐらと揺れている。朝食は雑炊なのだろうか。

 開き切らない目の前で顆粒だしやらしょうゆやらでご飯に味付けが施されていく。中島さんと有沢が奥の和室からとぼとぼと起き上がってくる。


 有沢は寝ぼけ眼をこすりながら俺の隣に座り「おはようございます」とほほ笑む。瞬間強く拍動する心臓に、彼女に恐怖心を抱いている自分がいることに気づく。


 弱火の鍋の中身に刻んだ梅干しと乾燥して小さな缶に詰められているねぎやごまなどの薬味と刻みのりが投入される。今度は詩音ちゃんが起きてやってくる。開け放たれたふすまの向こうでは藤宮がまだ寝息を立てている。


「部長はよく眠れました?」隣でまだ眠たそうに有沢が尋ねる。


「……ああ」向かいに座る三上さんと目が合ってしまう「一応寝れた」


「それは良かったです」


 最上の手によって小さな椀に雑炊が分けられていく。藤宮が起きてやってきて俺と有沢を一瞥する。


「……冗談だと思ってたんスけど」


「いや、マジで冗談だから」


 頼むから変な空気を作らないでくれと思いながら背もたれに背中を預ける。どうやら疲労は拭えていない。


 頂きますの合掌のあと、せっせと雑炊を口に運びながら仲間と三上さんを見渡して静寂に一石を投じる。


「真面目な話、」全員の視線が集まる「これからどうするか決めようと思う」


「そうね。動くにも待つにもしっかり決めてやらなくちゃ」


 最上の言葉に俺を含めて仲間の全員が頷く。三上さんはどこか不安な表情を浮かべている。


「何もそんなに急ぐことは無いと思うけど」


「……いえ、仲間とはぐれている以上何かしら行動は起こさなきゃならないんです。それに俺は一番に三上さんに聞きたい」


「……それは……」


「三上さん自身、何か行動を起こさなきゃとは思ってますよね。よかったら俺たちと来てもらえませんか?」


「…………」 

 三上さんは目を伏せて何も言わなかった。


「ここにいても助かる見込みはないっスよ。それならまだ人がいる方が良いッス。合流すれば意外と役に立つ人たち多いっスよ。先パイとは違って」


「……考えさせてもらえないかな」


「ええ、もちろん」


「悪いね。それまで君たちはゆっくりしてもらっていいから」


「じゃあそれまで私たちは休んでるってことでいい?」


「ああ、そうしてくれ」


 できることなら彼を取り残したくはない。中島さんがそうだったように、俺と彼はもう他人じゃないような気がするから。




 起きてすぐでこの部屋にいる意味はないのだけれど、昼前、俺は再び三上さんの家に一人でやってきた。だいぶ冷え切った部屋を開けて、奥のふすまを静かに開ける。

 ふすまをこそこそと閉めて布団に突っ伏す圭一君をできるだけ見ないようにして寝室を見て回る。


 この部屋にも写真はない。ぐしゃぐしゃに潰れた圭一君がどんな顔をしていたのかは分からないままだ。


 カラーボックス、小さなタンス。寝室であるとともに収納部屋としても利用しているのだろうか。

 アルバムならどこかにしまってあるんじゃないか。そう思った俺は部屋の奥の押し入れに手を伸ばそうとする。返り血が少しだけ飛沫している押し入れの戸の前には上着をハンガーで引っ掛けられる背の高さほどの上着掛けがあり、俺はそれを静かに移動させる。


 どうしてこんなことをしているのだろう。そんなに彼の顔が見たいのか?

 戸に手を掛けたところで浮かぶ自問自答。

 そうじゃないだろう。ならどうしてこんなことをする?もうすでに罪悪感が芽生えているんじゃないか?

 ……いや、そんなことはない。


 戸から手を離し、床を見ないようにもう一度部屋を見回す。


 この部屋は何かがおかしい。疑念、不安。彼の顔を見なくては腰を落ち着けることはできない。どうしてなのかは分からないがとにかく不安なのだ。


 なるべく音を立てないように戸を開ける。扉の向こうの酷く重たい感触。何かが引っかかっている。

 強く戸を引くと、戸に引っかかっていたものがずるりと落ちて自分の胸へと飛び込んでくる。


「……うっ……!」


 どすん、と音を立てて畳の上に落ちてきたそれはシーツにくるまれてロープで頑丈に留められている遺体だった。頭部は欠けているのか異常なまでに血の色で染まり歪な凹凸をシーツの下に隠している。


「……なんだこれは」


 いや、誰なんだこれは。そしてこれはなぜこんなところにある?


 なだれ込む疑惑の念、気づいてはいけなかったことに気づいてしまったかもしれないという現実。


 汗ばむ手で遺体を元に戻そうとした時、ふすまのむこうで部屋の扉がガチャリと開いた音がした。

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