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終末世界の歩き方。  作者: 上野羽美
DEAD ZONE
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第七十七話「202号室」

 向こう側を向いた食屍鬼に背後から忍び寄り、襲い掛かるのは初めての経験じゃない。足音をなるべく抑え、呼吸まで止めてしまうかのように慎重に息を整える。靴底が地面を擦れば、それだけで気づかれてしまう可能性もある。あとは目の前の彼が振り返らないことをどうにか祈るしかない。


 けれど、それからどうする?


 頭の中は音を立てない努力よりもそちらの方に気を取られている。


 殺すことはきっとままならない。素手の俺にとって目の前の彼は不老不死そのものだ。

 

 目の前の彼の息遣いと厚手のコートが擦れる音に耳を傾けながら、振り返る。


 固唾を飲んで見守っていそうなのが二名、とりあえず静観してるのが二名、親指を立てて自己流のゴーサインを出しているのが一名。お前がやれ。


 頭を進行方向に戻す。幸い空を眺めているのか通りの先を見据えているのかは分からないが未だに動きはなし。バールは彼の手に力なく握られたまま。

 これを思い切り引き抜いて頭に一発食らわせる以外の方法が思い浮かばない。


 あぁ……。


 声も出さず、息も吐かず、心の中でため息をつく。


 こんなことする必要があるのだろうか。バール一本と自分の命、天秤にかけるまでもない。もとはと言えば藤宮の軽いノリの提案だ。「やっぱり無理でした」と帰ってくればヘタレ扱いされるくらいで済む。死なずに済むのだ。

 けれど、それと同時にやはり武器の所持が最低限なのだということを思い知る。目の前のたった一体の食屍鬼を倒すことができるのとそうでないのとは、選択や行動の幅が大きく違ってくる。もちろん生存率もだ。頭でそれを分かっているからこそ、無謀だけども必要なことという事実が重くのしかかる。


 バールを引き抜き、転げるように相手から距離を取ればいい。頭の中でシミュレーションを重ねる。武器さえとってしまえば食屍鬼一体、どうってことはない。それまでの過程でミスを犯さなければどうとでもなる。


 ようやくまた一歩彼に近づく。そして半歩、また半歩。


 縮んでいく彼との距離、自分の歩幅。視線は彼の手とバールに集約される。握り具合を見て、自分がどの方向に転げるか、どの程度の力で、どの角度で引き抜けばいいかを見極める。


 彼が振り返りこちらに腕を伸ばせば、いとも簡単に肩を掴まれて首筋に噛みつかれる距離へと入る。できるだけかがんでそうはならないように努める。けれど、もうこの距離まで来てしまえば何があるかは分からない。


 できるだけ早く、静かに、バールを掴もうと手を伸ばす。


 空気の質感さえ確かめるようにゆっくりと伸ばす腕。バールの先に俺の指先が触れると、分厚いコートが音を立てて振り返る。


 冷たい汗が全身を疾走(はし)り、後ろから小さな絶叫が聞こえる。当事者の俺は叫ぼうとした口を開けたまま、声帯を震わせることも無く、体を凍り付かせていた。


「うわあああっ!!!なっ!!なんなんだっ!!!い、生きてる!?君は生きてるのか!?」


 俺が彼に一番聞きたいことを彼はしどろもどろに口走って、後方の仲間と俺を目まぐるしく交互に見て、俺にバールを向けて叫ぶ。

 白髪が全体の六割を占めている六十近いおじさんだかおじいさんは、どうしていいのか分からない様子で何かをぶつぶつ呟きながら手に持ったバールを上下に揺らしている。


 そんな彼に俺が出来ることはただ一つ。ゆっくりと両手をあげ抵抗の意志が無いことを示す。


「……どうも、生存者です」

 





「……本当は一人一人に一人分の食糧を分けてあげたいんだけど、ごめんね」


 小さなテーブルにはパンの乗った皿が三つ置かれている。イ◯アで買ったような二人掛けの白いソファに三人ずつ腰掛けてテーブルを挟む。体の小さな女子ばかりなので大して窮屈には感じなかった。


 隣に座る中島さんは気を使っているのか二人用のソファの面積の三分の一以下まで横にずれて座っている。それで俺と彼女の距離感がなんとなく図られた気がして歯噛みする。別に彼女と仲良しになりたいわけじゃないがこうやって気を使われるのは少し気が滅入る。かといって自分から「気を使わなくてもいいんですよ」と声をかけることもできない。彼女の意志を尊重すべきかとかそんなことを考えながらこんがり焼かれたロールパンを二つにちぎって片方を中島さんに渡す。


 香ばしい香りを放つロールパンの内側の生地に必要以上のバターを塗りこんで、もそもそと咀嚼する。カロリー万歳。単体でも味わい深い乳脂肪の塊を口の中でゆっくり溶かして喉の奥へと誘い強く嚥下する。


 胃のあたりで水分不足とともにつっかえているのはあまり噛まなかったパンと言いようのない不安。久々に他の生存者と出会ったのに、いや、出会ったからこそ俺たちはこの個室に居づらさを感じているのかもしれない。


 黒ずんだ畳を一瞥してため息をついた。

 

 

 お互いの誤解が解けた後、俺たちは彼の居住である二階建てのアパートへと通された。三上光弘と彼が名乗ったのはしっかりと覚えていたけれど通された部屋の表札には「山本」の文字があった。不安その一。彼が略奪者だという可能性。


 アパートの一室は外見から察する通りの狭さだった。玄関には彼を含めて七人入ることができず、靴を並べたら玄関が軽く埋まった。俺たちが靴を置く前に既に四足ほど二十七センチから二十九センチのスニーカーが置いてあった。

 部屋に他の人がいる気配はないが、すべて彼のものということも無い。少なくとも違うサイズの数だけ人がいたという証拠だ。それも大きさからして男である可能性の方がずっと高い。彼女たちのスニーカーを見て不安その二がのしかかる。

 大人の男に囲まれたら、彼女たちはおろか俺ですら成す術は無い。


 不安その三はすぐに訪れた。一番最後に部屋に上がろうとする俺の顔を彼女たちは部屋に入らないままじっと見つめている。苦い表情。「不安を表情で表してください」と言えばだいたいの人が似たような顔をするだろう。詩音ちゃんだけは手をつなぐ最上をぽかんと見上げている。


 どうした?早く入れよ。俺が中に入れないだろう。


 そう言おうと思ったけれど、状況を見れば俺は中に入ることができた。奥の和室に続く廊下の中心は彼女たちによってあけられていたからだ。


「何やってんだ?」


 靴を脱いで廊下に上がろうと膝をあげる。


「ちょっと待って」


 最上は声を押し殺したように静かな声で言うと俺の肩を掴む。


「下。」


 最上が床を指す。足を再び玄関に戻し、その方向へとゆっくりと視線を送るとわずかだがシミのようなものがこびりついているのが確認できた。


「ああ……」


 シミは奥の和室から続いている。タオルかなにかで強引にふき取られた形跡はあるがこの血液の持ち主が引きずられたのは容易に見て取れた。


「どうしたんだい?早く中に入りなよ」


 奥から出てきた三上さんに全員の体がビクッと強張る。藤宮からは軽く悲鳴があがった。


「あっ、……ああ……ごめん驚かせちゃったかな」


 三上さんは全員の顔を眺めて、床のシミへと目をやる。気づいたのがバレたのだろうか。震える拳を握りしめて自分なりに臨戦態勢を作る。今、彼の手にバールは握られていない。ならもう……若さで勝てる。


「……ああ、そうだよね。気にはなるよね。大丈夫。きちんと全部話すからさ。お腹が空いてるだろう?今パンを焼くからくつろいでてもらっていいよ」


 三上さんはシミを見ても変わらず穏やかな声で続けて再び奥の部屋へと入っていった。


「……ですって。どうする雨宮」


「……とりあえずお言葉に甘えさせてもらうか」


 あまりにも張り詰めた空気に、訳の分からない根拠を土台に拳を固めていた俺はとうとう緊張の糸が切れて勧められたとおりに部屋へと入っていった。

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